第7話 人類の黄昏 人類の滅亡は静かにそして意外な形ですでに進行している
人類に社会というものが出来上がってから今までの間に、「社会的な人間」の1個体は「村」から「家」へ「家庭」へ「一個人」へと縮小の道をたどってきました。
そしてその先にあるものは出生減少の行き着く先である「無」です。
「村八分」という言葉がありますが「村」において「村八分」になると人は仕事(収入)
と生活からスポイルされ、その村で生きてゆくことが極めて困難になります。
それは「村」における人間の一個体が「社会的な人間」の一部でしかないということを如実に示しています。
「村」における人間の一個体は「社会的な人間」の手の一部であり、足の一部であり、一個体が「意思」を持つ事は許されません。
のどかで人のよさそうな人々が暮らしているように見える田舎に、今でも存在する「村社会」では、「人権」は今でも限定的な物なのです。
「田舎」というと気のいい人が住み、のどかでいいところと思いがちですが、真実は「田舎という魔窟」です。それは情報化と言われる現在でも変わりません。
よそ者が旅人なら温かく迎えてくれますが、転居してひとたび住人となったら、人の好さそうだった地元住民の態度は一変します。
村のルールを強制的に押し付け、従わないものには徹底的な排除・攻撃が行われ、時には集団での暴行という「教育」も行われます。そしてそれが転出する(追い出す)まで続けられます。
これは想像で書いているわけではありません。実際に「新住民」や「入り婿」を「教育」してきた「村」の長老や主要なメンバーから聞いた「教育内容」です。もちろん私は彼らからすれば「特殊な旅人」であったために気安く接してもらえましたが、もし私が「住民」となったら、そうした教育は私にもキッチリ行われたでしょう。
村のルールに従順に従った新参者は村に受け入れられますが、その新参者は末代まで村の奴隷・小間使いとしての生活を強制されます。新参者の子孫が村のルール(奴隷・小間使い)に従わなければ、直ちに村八分という制裁が科されます。老後は自然豊かな田舎に引っ越そうという夢は引っ越したとたんに悪夢となるでしょう。
閑話休題
今までは「村社会」しかなかったのですが、やがて「都市」において「労働者」が生まれました。この人たちは都市の生活において労働も生活も「村」の頸木から解放されました。
都市では父母(あるいは祖父母と父母)と子供という「家庭」が「社会的な人間」の1個体となります。その為「労働者」が多数を占める都市においては「村八分」は成立しなくなります。
さらに時代が進み、様々な電化製品が充実してきて何でも一人でできるようになる。そして今までは家庭内の役割であったものがクリーニング屋・飲食店・冷凍食品・コンビニ・等家庭外のサービス業に取って代わられ、都市では「社会的な人間」は単身世帯・1個人で完結できるようになりました。
1個人イコール1つの「社会的な人間」であるという状態が続いていくと、やがて彼らは恋愛・子作りを「面倒なもの」「ハイリスク・ローリターン」とみなすようになり、子を残すという生物の枷・檻から抜け出し始めます。
つまり現代は「1個人」が「ゼロ個人」となろうとしている時代なのです。
こうした流れを別の面からみると「社会的な人間1個体」の縮小は「1個体・個人の人権の拡大・意思の拡大」の流れでもあります。
「村」における一人一人の人間は「社会的な人間」つまり「村」という個体の手の一部であり、足の一部であり、一個体が「意思」を持つ事は許されませんでした。
ですが「社会的な人間」一個体の縮小が進んだ結果、近年ではインターネットにより、マスコミでもない個人が発信できるようになり、「1個体・個人の意思拡大」の流れはさらに加速されています。
そして、「意思」は「人間」という生物の枠から抜け出し「機械・AI」の物になってゆこうとしています。
それは「意思」に「人間」が必要ではない世界、そして「1個人」が「ゼロ個人」となろうとしているという現状と合わせて考えると、まさに人類の黄昏を予感させます。
次回は「第8話 エネルギーの黄昏 人類のエネルギー探しは、木から始まり、数億年前の石油石炭へ、そして数十億年以上前の原子力へと、過去に向かってゆくものでした。そしてその先に待ち受けるものは」を投稿します。