§007 共同生活
それからというもの、体力が回復するまでの数日間、俺はレリアを家に泊めた。
というか『常闇の手枷』の効果で俺と彼女は常に一緒に過ごすほかなかったというのが正しいのかもしれない。
そんな突然の共同生活であったが、淑やかでありながら、器量が良く、如才のないレリアと過ごす時間は、まるで新婚気分を先取りしたような感覚で、思いのほか心地のいいものだった。
男女の共同生活だ。
俺も最初は緊張していたし、それなりの距離感を持って接しようと思っていた。
それは彼女も同じだったと思う。
ただ次第に「お世話になっているのですからこれくらい当然です」と言って、レリアは進んで家事をしてくれるようになった。
そして、いつの間にか俺が振る舞うはずだった料理も、二人で作るようになり、今まで栄養摂取程度にしか思っていなかった晩御飯の時間が楽しみになっていた。
そうして少しずつ打ち解けてきた俺とレリアはお互いのことを少しずつ話すようになった。
俺は彼女に固有魔法が【速記術】というハズレ魔法であったこと、数カ月前から家を出て山で暮らしていることなどを話した。
ただ、さすがに固有魔法が【速記術】だったせいでレヴィストロース家を追放された話は伏せておいた。
レリアも自分の出自なんかを話してくれた。
どうやら彼女はとある街の司教の娘らしい。
司教といえば聖職者の中でも高位の役職だ。
彼女の所作を見ていると司教の娘だと言うのにも納得だった。
ふと、男達がレリアのことを『聖女様』と呼んでいたのが気になって水を向けてみたが、「その呼び方は好きじゃありません!」とはぐらかされてしまった。
その頃から俺は彼女のことを『レリア』と呼ぶようになった。
そんな順風満帆に見える共同生活だったが、当然苦難はあった。
「あの……申し訳ないですが、耳を塞いでていただけますか?」
「……はい」
「絶対に覗かないでくださいね。もしそんなことしたら、いくらジルベール様といえど許しませんからね」
「……はい」
お風呂だ。
『常闇の手枷』を外せない以上はお風呂の時でも行動を共にしなければならない。
もちろん一緒にお風呂に入るわけではないが、扉一枚隔てた向こう側には一糸纏わないレリアがいるかと思うと気が気ではなかった。
(ちゃぽん)
レリアが湯舟に身体を沈める音が嫌でも耳に入ってくるが、俺は耳を塞いでいる体で聞かないふりをする。
レリアは本当に魅力的な女性だ。
整った顔、淑やかな性格もさることながら、男としてどうしても視線を奪われてしまうところがある。
見事なまでに強調された双丘だ。
ゆったりとしたデザインの修道服では想像ができないくらい、胸の部分が狂おしいほどにぱつんぱつんになっているのだ。
俺はそんな邪念を振り払うかのように、脱衣所と浴室を分かつ扉にもたれかかりながら、『常闇の手枷』についての今までの検証結果を考察してみる。
まず前提としてだが、『常闇の手枷』は普段は無色透明で、傍から見ればその場に存在していると認識されることはない。
原則として物は透過するし、まあレリアと常に一緒にいなければならないということを除けば、日常生活を送る上でほとんど支障がないと言える。
よくよく考えれば、男女が鎖で繋がれている絵面はなかなか珍妙であるし、良からぬ噂が立っても嫌なので、この性質には少なからず助けられていると言える。
その上で、様々な実験の結果、『常闇の手枷』がその姿を顕現するのは大きく分けて二つあることがわかった。
一つはその効果が発揮された時。
もう一つは破壊の意図を持った何らかの攻撃を受けた時だ。
まず一つ目についてだが、レリアに押し倒される結果となった一回目の効果発動時。
この時は確かに『常闇の手枷』が顕現していた。
そのため、一体どれくらいの距離を離れたら『常闇の手枷』の効果が発動するのかを調べるために、俺とレリアは少しずつ距離を取る実験をしてみた。
そうしたところ、ちょうど三メートルの距離を離れたところで『常闇の手枷』が黒い光を放ちながら顕現し、俺とレリアは引き寄せられるように元の場所に戻ってしまっていた。
どうやら俺とレリアが離れられる距離は三メートルが限界のようだ。
次に二つ目についてだが、まず物理的に破壊できないかの実験をしてみた。
山小屋にあった斧を持ってきて、『常闇の手枷』があるはずの場所に思いっきり振り下ろしたところ、『常闇の手枷』はその姿を現したのだが、ゴンッという鈍い音とともに斧は砕け散り、『常闇の手枷』には傷一つ突いていなかった。
これだけで『常闇の手枷』がかなりの強度を持っているのがわかる。
もちろん物理的な破壊が無理なのであれば、魔法での破壊はどうかという実験もしてみた。
レリアは攻撃魔法が得意ではないということで、結局は俺が初級の『詠唱魔法』を試してみることになったのだが。
結果は散々。これも斧の場合と同様に、『常闇の手枷』には傷の一つも付けることができなかった。
ちなみに、破壊の意図を持って触れるのではない場合、例えば、ただ単に『常闇の手枷』があるはずの場所で手を上下させてみても『常闇の手枷』は顕現せず、ただ手が透過しただけだった。
まあ、その性質のおかげでこうやって完全に扉を締め切った形でお風呂に入ることもできているわけだが。
とこんな感じに『常闇の手枷』の性質はそれなりに分かってきたが、こと壊すという点においては八方塞がりになっている状況だった。
「あの……ジルベール様。聞こえますか?」
そんなことを考えて、ふぅとため息をついていると、浴室からレリアの声がした。
お風呂に入っているせいか、その声音は普段よりも幾分リラックスしているように感じた。
「どうしたレリア」
「ジルベール様。耳を塞いでてくださいって言いましたよね?」
「…………何も聞こえていません」
「ふふ、もう遅いですよ。ジルベール様もそういったご冗談をおっしゃられるのですね」
「レリアの中で俺は一体どんなイメージなんだよ」
「真面目で誠実な方だなと思っておりますよ。だってほら、ジルベール様はこの状況でも浴室を覗いたりされないじゃないですか」
そう言ってレリアが「ふふっ」と微笑するのがわかる。
「それはさすがに買いかぶりすぎだよ。俺はそんなに評価されるような人間じゃない。それにそのジルベール『様』って呼び方もいい加減やめてくれないか。むずがゆくて仕方ない」
「それはなりません。私にとってジルベール様は英雄なのですから」
英雄か……。
その言葉に俺の中で黒い感情が渦巻く。
所詮、俺はハズレ固有魔法【速記術】の所持者で、家から追放されたはみ出し者。
彼女に英雄などと言ってもらえるような人間じゃない。
この間だって火事場の馬鹿力で偶々《たまたま》うまくいっただけだ。
その事実を直視したくなくて、失敗が怖くて、レリアに無様な姿を晒したくなくて、あれから俺は一度も『魔法陣』を描いていなかった。
「俺は英雄なんかじゃないよ……」
「……?」
俺の異変に気付いたのか、レリアがバシャリと音を立てながら浴槽から立ち上がるのがわかる。
「実を言うとあんなすごい魔法が使えたのは初めてなんだ。あの時は無我夢中で自分でも何が起きたのかわからなかった」
「……そうだったんですね」
レリアの声が近くから聞こえた気がした。
おそらくだけどレリアは今、この脱衣所と浴室を隔てている扉の目の前にいるのだろう。
「私、見てました。あれは『詠唱』ではなく『魔法陣』ですよね? それも発動速度が異常に速い」
「…………」
「ジルベール様が以前に話されていた固有魔法【速記術】の影響でしょうか?」
俺は確かにこの数日で自分の固有魔法が【速記術】であることをレリアに打ち明けたが、あの戦闘において使用したことは言っていなかった。
それなのに彼女はあの魔法が『魔法陣』で、しかもそれが【速記術】によるものだと見抜いていた。
どうやらあの場を一番冷静に俯瞰できていたのは、他でもないレリアだったようだ。
男達は今でも俺が何をしたのかわかっていないだろうし、何なら俺も夢だったんじゃないかと思ってるぐらいだ。
「本当に偶々《たまたま》できただけなんだ。日課で毎日模写していた『魔法陣』が急に頭に浮かんで、気付いた時には『魔法陣』が発動していた。おそらくは俺の固有魔法【速記術】の影響なんだろうけど……こんなの所詮はハズレ固有魔法だから……」
「そんなことありませんよ」
俺の卑屈な言葉に返ってきた言葉は思いのほか優しく、全てを包み込むように温かいものだった。
なんとなく背中にレリアの体温が伝わってくるような気がした。
「私はそのジルベール様が言うハズレ固有魔法に救われました。その事実は変わりません。それに……」
レリアは一拍置いて続ける。
「この『詠唱魔法』が主流の大魔導時代において、『詠唱魔法』よりも速く『魔法陣』が発動できることは誰にも真似できないジルベール様の個性です」
「俺の……個性……?」
「そうです。【速記術】は神がジルベール様にお与えになった素晴らしい個性です。ジルベール様はその個性を使いこなす知識と冷静さ、そして、何より人に寄り添う優しい心をお持ちです。ジルベール様はきっとこの先、この大魔導時代を背負う魔導士になられるでしょう。私が保証します」
レリアの言葉がじんわりと心に沁みわたってくる。
俺は……この【速記術】を受け入れていいのか……。
俺が家を追放されるキッカケとなったこの固有魔法を……。
そうしてスッと目を閉じると今まで俺の中に呪いのように巣食うてた感情が浄化されたかのように心が軽くなった。
俺が黙り込んだのを見て、いや聞いて、レリアは自分が熱弁していたことにハッとしたようだ。
レリアは取り繕うように慌てたような声を上げる。
「す、すいません。私ったら出過ぎた真似を。ただ、あの……私は……」
「いや、いいんだ」
俺はレリアを制す。
「正直なところ、俺はこの【速記術】を快く思っていなかった。ハズレ固有魔法だと蔑まれて、子供の頃からの六天魔導士になるという夢も諦めて……実は俺……生きる理由を無くして山小屋に逃げてきたんだ」
「…………」
「でも、『魔法陣』で、【速記術】でレリアを助けることができた」
「…………」
「六天魔導士は夢のまた夢かもしれない。けれど、こんな俺が、【速記術】がほんのちょっとでも人の役に立てるというのなら……」
俺は大きく深呼吸をして宣言する。
「レリアの言葉を信じてもう少しだけ頑張ってみようと思う」
レリアはそんな俺の語りを見守るように聞いてくれた。
俺が全てを言い終わる頃には、さっきまで渦巻いていた【速記術】に対する劣等感も、『魔法陣』に対する恐怖心も消えていた。
「ジルベール様。私の言葉が少しでもジルベール様のお役に立てましたこと、心より嬉しゅう思います」
しみじみとした彼女の声が俺の心にこだまする。
ああ、声だけでわかる。
彼女は今、俺のことを包み込んでくれるような表情で微笑んでいることを。
彼女の顔が見られないことが心底残念だった。
「あの……そこで一つ、ジルベール様に提案があるのですが、よろしいでしょうか」
「……提案?」
「はい。あの……もしよかったら――――私と一緒に魔導学園を受験しませんか?」