§043 氷禍
俺はシエラ・スノエリゼと名乗る少女が頭を垂れた瞬間、駆け出した。
いや駆け出しているはずだった。
しかし、動かない。
身体が鉛のように重く……一歩たりともこの場から移動することができなかったのだ。
「――ぐっ。なんだこれ」
「か、身体が……動きません」
「逃げようとしても無駄ですよ。この場は既に私が支配する空間です」
ゆっくりと頭を起こしたシエラが微笑みを浮かべながら言う。
「……な、何をした」
必死に身体を動かそうとするが、四肢がピキピキと音を立てるばかり。
もしこのまま身体を動かそうものなら、下半身がもげてしまうのではないかと思うほどの物理的抵抗を感じる。
降り出した雪は刻一刻と強くなる。
辺りがうっすらと雪化粧し始め、気温もぐっと低下した。
俺の神の裁きによってぱちぱちと音を立てながら爆ぜていた草木も、いつの間にか沈黙していた。
季節を冬に変える魔法? 雪を降らせる魔法? 冷気により行動阻害を行う魔法?
様々な憶測が立つが、こんな魔法は見たことも聞いたこともなかった。
冬の訪れを感じる。
しかもそこらの冬なんて生温いものではなく、寒冷地の極寒の冬。
まさにそんな魔法だった。
これがこの厄災司教『氷禍』シエラ・スノエリゼの固有魔法なのだろうか。
その底知れぬ力に、俺は恐怖を感じずにはいられなかった。
「何をした……と問われましても、そうですね。私はレリア様とお話がしたいのですが……まあいいでしょう。どうせ貴方達はこの場から動けません。少しの間、お付き合いいたしましょう」
穏やかな口調でシエラはそう言うと俺の方に視線を向ける。
「――氷雪の森の美女――。これが今、私が発動している魔法です。貴方は『絶対零度』という言葉を知っていますか?」
「…………(かはっ)」
俺は声を発しようと口を開けようとしたが、その直後、凄まじいまでの冷気が喉奥まで流れ込む。
結果、声帯は震わず、代わりに渇いた咳をしながらむせかえってしまった。
そんな俺を見てシエラは愉しげに笑う。
「ふふ。貴方が問うてきたのでしょう。釣れない方ですね。絶対零度。それすなわち全ての原子振動が停止することを意味します」
「……すると……どうなる……んだ」
俺はなだれ込む冷気を極力吸い込まないようにしつつ、どうにか声を絞り出す。
「全てが静止した世界の到来ですよ」
愉悦に満ち溢れたその言葉に俺はゴクリと唾を飲む。
「誰も動くことが叶わず、ただ朽ち果てるのを待つだけの一切の穢れのない静謐な世界。私の氷雪の森の美女はそれを実現することができます。ちなみにこの魔法は発動起点から徐々にその範囲を拡げていく特性を持っています」
発動起点?
なるほど。だからこの場での詠唱が無くとも魔法が発動していたのか。
「……起点は……ここじゃ……ない……んだな」
「察しがいいですね。発動起点は創造の六天魔導士が陣取っていたこの森の中心地。この意味が貴方にわかりますか?」
「――――!」
「ふふ。そういうことです。創造の六天魔導士は私の力の前に倒れ、今やこの森全体が私の魔法の射程圏内なのです。随分と冷え込んできたでしょう? 身体が思うように動かないでしょう? この場所ももうすぐ冬の世界に変わります」
そう言って喜色満面の様子で両の手を軽く拡げるシエラ。
「さあ、決断のときです」
「……何のだ」
「創造の六天魔導士は助けにきません。もちろん貴方の力じゃ私には勝てません。ただ、私も聖職者の端くれ、無駄な殺生は好みません。そこで……です。今すぐにレリア様を渡してくださるのであれば、この森にいる若人も含めて、貴方達を殺さないと約束しましょう。どうですか? 魔法陣の少年」
突如、突きつけられる選択。
自分の能力を事細かに開示した上での提案からシエラの余裕が伝わってくる。
まさに横綱相撲の貫禄。
現に俺達はシエラの魔法で身動きは取れず会話もままならない状態。
凍てつく寒さと恐怖によりさっきからレリアの身体はガタガタと震えている。
先ほどまでは雪化粧だったはずの周囲の景色も、既に足が埋没するほどの積雪。
手足もどんどん冷たくなっている。
「……どうされました? 私に対話を求めてきたのは貴方ですよ。ゆえに貴方には私の問いにも答える義務があります」
様々な情報、情景、選択肢が脳内を駆け巡る。
心臓は早鐘のように鳴り響き、極寒の寒さだというのに額には汗が滲む。
俺がレリアを渡せば、人質となっている俺を含めた1000人の受験生の命は助かる。
他方……俺がレリアを渡さなければ……。
刹那、猛烈な吹雪が吹きすさぶ。
レリアは反射的に瞑目し、寄り添う腕にギュッと力が入る。
その時、はたと気付く。
レリアを渡せば?
何を損得勘定で答えを出そうとしているのだ。
俺は今まで何を学んできたんだ。
俺にとって最も大切なもの。
それは……レリアの笑顔だ。
俺はレリアを守ると誓った。
それなのに相手の力が強大だからと言って何を弱気になっているのだ。
俺にはまだできることがある。
身体が動かなくても、言葉を発することすらままならなくても、俺にはまだ……。
「――極大・|陽炎の如く立ち昇る火の壁――」
途端、俺とレリアの周囲に無数の『魔法陣』が顕現する。
「――これは」
シエラの水色の双眸に真っ赤な炎が映りこむ。
勢いよく立ち昇る複数の火柱。
冬の世界に、炎の世界が混ざり合う。
俺は一次試験の時はこの魔法を発動させることができなかった。
でも、今の俺ならできる。
レリアを守るために……今を踏ん張らないで何が騎士だ。
俺は炎の壁の魔法陣を大量に生産。
幾重にも顕現した火柱によって周囲の気温が上昇する。
それに伴って、身体を覆っていた凍結の氷粒が霧散した。
同時にシエラを睨みつける。
「ダメだ。レリアは渡せない。約束したんだ。レリアを守ると。レリアの笑顔を奪う者――シエラ・スノエリゼ。俺はお前を倒す――」
俺の精一杯の決意の言葉。
しかし、シエラは俺の言葉にもほとばしる炎にもたじろぐことなく、ただただ遺憾とばかりに嘆息する。
「ふぅ。少々言葉足らずであったことをお詫び申し上げます。レリア様を『守る』。大いに結構です。私はその気持ちを無下にするつもりはありませんし、むしろ尊重します。だって私は貴方がレリア様を渡そうが渡すまいがレリア様に危害を加えるつもりはありませんのですから」
そう言ってシエラは長い睫に縁取られた瞳を伏せる。
「ゆえに貴方の言う『守るために渡さない』というのは失当です。私が聞きたかったのは『守る』などという意思の話ではありません。レリア様が安全にこちらに渡ることを前提とした上で、全員助かるか、全員死ぬか。そういう極めてシンプルな話をしているのですよ」
一切のブレもなく、自分の主張を淡々と述べるシエラ。
「……それでも俺は――」
「――ジルベール様。待ってください」
真横からの声。
俺の言葉を遮ったのは、他でもないレリアだった。
白い息を吐きながら、鉛のように重くなった身体を引きずって一歩前へと踏み出すレリア。
その肩は恐怖と寒さで震え、声は今にも泣き出しそうなほどにか細かった。
でも、レリアは言った。
「シエラ・スノエリゼ様。提案があります」
「……提案ですか?」
「はい。――私と『約束』をしてください」