§036 優しさ
「あ、ありがとうございます……」
俺の手を借りて立ち上がったアイリスはお礼を述べると俯き加減だった顔をスッと上げた。
セミロングの黒髪を肩まで降ろし、髪と同系色のローブを羽織った女の子。
華奢で小柄。
顔立ちも幼く、声もか細い。
黒髪、濃紺のローブ、紫紺の瞳と全体的な色彩が黒色で統一されているからか、どこか暗めの印象を与える彼女。
そんな彼女の瞳が真っすぐに俺のことを捉える。
アシンメトリーの前髪が目にかかり気味のため、俺の視点からは片目しか確認できない。
しかし、彼女の瞳は、自信無さげな印象とは対照的に、どういうわけか真っすぐと俺のことを貫いて離さなかった。
そんな彼女の態度に若干の罰の悪さを感じた俺は、話を逸らすように彼女の足に視線を落とす。
「足は大丈夫か? 結構深い傷を負ってたと思ったが……」
俺の言葉に慌てたように肩をビクンとさせ、何かを誤魔化すように視点をきょろきょろと移動させるアイリス。
「だ、大丈夫です。わ、わたしはユリウス様がおっしゃっていたとおり治癒魔法が使えますので」
アイリスはそう言って手で足を撫ぜる。
確かに傷口は完全に塞がっているように見えた。
俺はここまで完璧な治癒魔法を見たことがなかった。
もしかしたら汎用魔法ではなく、自己再生に近い能力を持った固有魔法なのかもしれない。
「そうか。それならいいんだが」
そう言って俺は地に這うユリウスにそっと目を向ける。
先ほど俺が展開した魔法は――超重力の罠――。
そう。試験開始直後から至る所に張り巡らせていた設置型トラップの魔法陣だ。
本来の使用用途は文字通り『罠』。
ただ俺はこの魔法陣を幾度となく展開するうちに戦闘にも応用できるのではないかと考えるようになっていた。
通常の術者であれば、魔法陣を描くのに相当の時間を要するため、戦闘での使用は不可能かもしれない。
けれど俺の【速記術】は違う。
相手の立っている位置に即座に魔法陣を展開できるのだ。
突如として展開された魔法陣の超重力により身体の自由を拘束される。
これなら攻撃魔法とさして変わらない。
まあ今回は予想よりも魔法陣の威力が出てしまったようで、地面に衝突したユリウスは気を失ってしまったようだが。
ユリウスは自らの愉悦のためにアイリスに魔法を行使した。
この所業は決して許されることではない。
ただ、どうにも俺は頭に血が昇っていたようだ。
段々と冷えてきた頭でふと思う。
彼女は見るからに貴族ではない。
そんな彼女が侯爵家の男と一緒にいるのだ。
それには彼女なりの思惑があったと考えるのが妥当なのではないかと。
そうしたら俺の行動は完全に余計なお世話ということになってしまう。
「勝手に助けてすまなかったな。よく事情も知らないのに」
そんな思考に行きついてしまった俺はアイリスに謝罪を述べる。
何とも滑稽な謝罪だと思うが、それは致し方ない。
ただ、俺の謝罪を聞いたアイリスはぶるんぶるんと首を振る。
「そ、そんなことありません。むしろこんなわたしを気遣ってくださって……う、嬉しかったです。傷は確かにすぐに治りますが……痛くない……わけではないので」
そう言ってペコリと頭を下げるアイリス。
「ならよかった。実は一次試験の時からどうにも君達の関係は気がかりだったんだ。彼の態度がどうにも解せなくて。君は彼の従者というわけではないんだろ?」
「は、はい。ユリウス様には試験会場で声をかけていただきまして……」
そこまで言って若干言いづらそうに口を噤む。
けれど、ややしてから意を決したように話し出す。
「実は……わ、わたし……『辺境』の出身なのです」
なるほど。そういうことかと合点がいく。
『辺境』とは大陸の果ての果ての地域のことを指す言葉だ。
いまだ人の手がほとんど入っていない未開の地。
強力な魔物などが多く存在すると言われており、時に『魔境』などと呼ばれることもある。
そして我が王国において、『辺境』は差別の対象でもある。
その一因となっているのは、やはり文明レベルの差だろう。
我が王国は国家という形を成してそれなりに歴史もある。
だが辺境は現在でも部族を中心とした氏族制を採用しており、緩い共同体を形成しているに留まる。
こういったことから我が王国の民は辺境に対して差別意識を持つことが多く、貴族ともなるとそれは特に顕著だ。
「わ、わたしには財も爵位もありません。ただ王立セレスティア魔導学園では魔法の実力が全て。こんなわたしでも……辺境出身のわたしでも認めてもらえると思ったから、この学園を受験しようと決めたのです」
その言葉が山小屋でのレリアの言葉と重なる。
皆、それぞれの想いがあって、この魔導学園を受験しているのだ。
「それでもやはり単身の受験が不安でしたし、わ、わたしは……そのこんな性格なもので……シルフォリア様の説明の後、ペアを中々作れずにあたわたしてたのです。そこで声をかけてくださったのがユリウス様でした。身なりを見てすぐに貴族の方だとわかりました。そんな方とわたしがペアになっていいのだろうか……と一瞬迷い、素直に自分が辺境出身であると打ち明けました。それでもユリウス様は『協力すれば君も合格させてあげる』と言ってくださいました」
確か彼らのペア番号は『480番』。
受験生が1000人だとしたら本当に最後の最後まで残っていた受験生と言えるだろう。
まあユリウスはこんな性格だから他の受験生から避けられていたのかもしれない。
彼にも後が無かったのだろう。それで彼女に声をかけた。
そして、彼女が辺境出身であることを知り、彼女を利用することを思い付いた。
おそらくユリウスは集めた魔石を彼女に与えるつもりなどなく、最初から独り占めするつもりだったのだろう。
そんな悪意にも気付かないなんて……この子は……。
いや……気付いていてもこういう生き方しか知らないのかもしれない。
彼女は必要以上に相手の顔色を窺う傾向があるのは少し話しただけでもわかった。
治癒魔法も一級品。容姿も悪くない。
ただ、辺境出身という一点をもって、不遇な人生を歩んできたのだろうことが、ほんの少しだけ想像できてしまった。
そんな俺の思考を先読みしたようにアイリスが述べる。
「わたしだってわかっていたのです。ユリウス様にいいように利用されていることは。それでもどうにか魔導学園に入学したかった。どんなに蔑まれようと、痛めつけられようと、せっかくの機会を逃したくなかった」
そこまで言ってアイリスは魔法陣の上で気を失っているユリウスに目を向ける。
「でも……それも叶わなくなってしまったみたいです。わたしは治癒魔法の専門。ユリウス様が倒れてしまった今、わたしが魔石を確保する手段はありません……」
俺はこの時にはたと気付く。
彼女を救うためとは言え、同時に彼女の夢を奪ってしまっていたことに。
そうか。だからあの時レリアは一瞬だけ表情を曇らせたのか。
レリアはこうなることに気付いていて……。
ここは魔石を争奪する入学試験。当然、魔石の数にも限りがある。
アイリスをこのまま一緒に連れていくことは叶わない。
それでは俺とレリアの試験合格が危うくなるからだ。
助けるならば最後まで責任を持たなければならない。
自分の賄える範囲を的確に把握する必要があったのだ。
俺は思わず唇を噛みしめる。
「ジルベール様……」
レリアの声。
俺の気持ちを察したのだろう。
決して俺を非難しているわけではないが、何て声をかけていいのかわからないといった声音。
一体俺はどんな表情をしていたのだろうか。
チラリと俺の表情を盗み見たアイリスが慌てたように次の言葉を口にする。
「わたしは貴方様に感謝こそすれ恨むことなどあり得ません。これがわたしの実力です。わたしには学園の壁は厚かった。ただそれだけのことです。貴方様が気に病むようなことではありません」
きっとこれも本心なのだろうと思う。
でも……感情というものは一つではない。
助けてほしかった半面、助けてほしくなかった。
俺はなんともやりきれない思いで彼女を見つめる。
すると彼女は俺のためか、おそらくあまり得意ではないであろう笑顔を作って見せる。
ぎこちない笑顔。
それを見て、思わず「一緒に行こう」という言葉が口をついて出かけた。
しかし、その瞬間、レリアが俺の腕をギュッと掴んだことで声にはならなかった。
ただ、アイリスも俺の次の言葉を察してか、先に言葉を紡ぐ。
「貴方様は本当にお優しいんですね」
「…………」
「でも……わたしがついていってしまったら貴方様の負担になってしまいます。それに……」
そう言ってアイリスは地に伏せるユリウスの下へ歩み寄り、両膝をつく。
「確かにユリウス様にはひどいことをされました。でも……こんな方でも独りぼっちのわたしに最初に声をかけてくださった方です。不義理はできません。わたしはここに残ります」
俺はそんなアイリスの姿を見て、一瞬の逡巡の末、盤上の魔法陣を解いた。
それを見届けると、アイリスは軽く詠唱を口ずさみユリウスに付与する。
おそらくは回復魔法。
気を失っているユリウスの表情がほんの少しだけ緩んだようにも見えた。
それを見たアイリスは安堵の表情を浮かべた。
さっきのぎこちない笑顔とは比べ物にならない心からの表情。
本当に優しいのはどっちだよと……つい思ってしまう。
アイリスはこちらに向き直って軽く会釈をする。
「わがままをお許しいただきありがとうございます。せめて最後にお名前をお聞かせ願えますでしょうか。申し遅れましたが、わたしはアイリス。アイリス・フォン・アウローラと申します」
「ああ、俺はジルベール・レヴィストロース。そして、こちらがレリアだ」
神妙な面持ちで俺達の動向を見守ってくれたレリアは、紹介にペコリと会釈で応じる。
しかし、当のアイリスの視線はレリアに向けられることなく、真っすぐに俺を向いていた。
その瞳は驚きに満ち溢れ、なぜか両手で口元を押さえていた。
「……ジルベール・レヴィストロース様」
なぜか俺の名をうわごとのように復唱するアイリス。
一体どうしたというのだろう。
アイリスの瞳が何かを夢想するような熱っぽいものに変わる。
そしてアイリスが何かを述べようと口を開いたその瞬間。
「ジルベール様ッ! 危ないッ!」
レリアの突然の声が木霊し、俺の身体が宙に舞った。
レリアが俺を突き飛ばしたのだ。
同時に地面に倒れ込む俺とレリア。
次の瞬間、ドゴォォオオーーーン!という凄まじい轟音とともに俺の頭上を炎の玉が超速度で通過した。
急襲だった。
アイリスの会話に夢中になりすぎて、多重展開の領域を解いてしまっていたのだ。
そのせいで完全に周囲の警戒が疎かになっていた。
俺は荒く息を吐き捨てると、すぐさま体勢を立て直す。
そして、庇ってくれたレリアを抱きかかえるように立ち上がって、炎の玉が射出された方向に目を向ける。
――刹那、俺の瞳に一人の男の姿が映りこんだ。
俺は目を見開く。
圧倒的な殺気を放ちつつもどこか無機質で冷めきった目をした男。
男は初撃が躱されたことを確認した後、ゆっくりと茂みの影から姿を現した。
その動作は緩慢でとてもこちらに警戒心を払っているようには見えない。
「ジルベール様。あの人は……」
レリアがすぅーっと息を飲む。
「……ああ」
わかってる。
この瞬間を何度も何度も夢想してきたのだから。
覚悟ならとっくにできている。
俺は【焔の魔法剣】を携えた男に向かって一歩前へ踏み出す。
そう。今が我が弟――セドリック・レヴィストロース――と相まみえる時だ。