始まり
母が死んだ。心臓発作だった。
葬式が滞りなく終わり、骨壺を抱いたまま泣いていた父が、ようやくリビングの床で静かになった。くたびれた喪服姿に毛布をかける。
冷蔵庫から水を取り出し、ぐいと飲む。鼻から溜め息を一つ、場違いに明るい部屋に突っ立ったまま、これからを考えてみる。
母が死んだあとの細々とした事務手続きは、父の親族が済ませてくれるだろう。生活面に関しても、十二分に蓄えがある。稼ぎ頭の母がいなくなっても、当分の間は家族三人が暮らしていける、いや、本当に十数年何もしなくてもよろしい金額が。
心臓に持病のあった母は、生前に三通の遺書を書き残していた。父と弟と私の三通。それは一年限りの更新もので、桜の季節に封を開けずに庭のドラム缶で燃やすのが通例となっていた。
通夜の終わりに、全員でそれぞれの遺書の内容を確認した。
父には、ありきたりの愛と感謝の言葉と、数千万の入った通帳と判子。
弟には、正義のヒーローになるための方法。
私には、とある住所が書かれた紙切れ一枚だった。
「なぁ」
「なに」
襖を少しばかり開けて、隣の部屋にいた弟が顔を出す。学生服のまま胡座をかき、顔は少し疲れて見える。
「明日、学校どうする?」
「行かないわよ。それに、もうすぐ夏休みだから」
「なぁ」
「なに」
「これから、どうする?」
「朝食はあなた、昼食は購買、夕食はパパ。私は食べるわ」
「ふざけるなよ。母さんがいなくて、どうやって生活していくんだよ」
声を荒げて涙ぐむ弟を見て、あぁ、こいつは母が死んで本当に悲しいのだなと思う。父も同じく、床に倒れ込むほどに母を愛していたのだろう。
「明日から、少し家を空けるわ」
「こんな時にどこに行くんだよ」
「こんな時だからこそ行くのよ。ユキ、後は任せるから」
「母さんの残したお金のことか?」
「それもあるわ。どう考えても不自然なお金だし。私がいない間、喧嘩するんじゃないわよ」
「そんな気分にならねぇよ。親父には言ったの?」
「何も。頻繁に家を空けてるから騒いだりしないでしょ。定期的に連絡するから」
おやすみ、と、襖を閉めて、ソファに横になる。今日はここで寝よう。
悲しい、と思う。
確かに、私は母が死んで悲しいと思っている。
でも、母が残した手紙一枚が、私を素直に泣かせてくれない。
胸が高鳴る。
多分、明日は長い一日になる。