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透明人間

作者: ヤハチ

  電車に乗ると、誰一人として他人に関心を注ぐ人がいない。こんなにも近く、命にさえ手が届きそうなところにいる相手の名前すら分からず、分かる必要もない。この電車の中で僕が突然消えたとしても、誰も気づかず、何もなかったように世界は回り続けるのだろう。


 それが初めて起こったのは、期末考査も終盤に差し掛かり、大学の図書館で一人、最後のレポートを仕上げている最中のことだった。

 レポートの提出期限である午前十二時まで後五分くらいのときだったと思う。改行しようと思ってエンターキーに伸ばした小指が、不意に空を撫でた気がした。エンターキーに目を移すと、何かの間違いのように、僕の小指がエンターキーにめり込んでいた。

 びっくりして右手を引っ込めた僕は、自分の手をまじまじと見つめた。ほんの一瞬、手が透けて向こうが見えた気がした。

 錯覚だと思って目をぎゅっとつむって再び開けると、そこにはいつも通りの僕の手があった。エンターキーを押すと、すんなり改行することができた。


 それ以来、僕は自分の体がたまに透けることに気がついた。

 階段の手すりに手を伸ばした時、前の席からプリントを手渡される時、自動ドアが開ききるよりも少し早く前に出てしまった時、他にもいろいろ。

 そういったことが何度も起こるにつれて、僕はだんだん透けることを不思議に思わなくなっていった、というよりも、当然のことと思うようになった。

 透けるのは大抵、誰からも存在を意識されていない時に起こる。

 もし人間の存在が、他者の認識があって初めて成立するものだとしたら、他者からの認識が無くなってしまった人間は、もはや存在出来なくなってしまうのではないだろうか。認識によって存在が確認される以上、この命題は誰にも否定できない。そして僕は、今その認識の消失によって消えようとしているのではないか。時折透ける体を見て、僕はそんな風に考えるようになった。

 ある日、コンビニに行ったときのこと、僕はお釣りを受け取りながら店員の目を覗き込んだ。その黒い眼にははっきりと僕の顔が写り込んでいた。この目がアクリル玉でないのなら、彼女は僕を認識しているはずだ。そう思ってお釣りを受け取ると、お釣りは僕の手をすり抜けて床に散らばった。店員は「すみません」と言って慌てたそぶりを見せた。僕は小銭を拾いながら、彼女の目はアクリル玉なのかもしれないと考えた。


 世の中の大抵の人の目はアクリル玉でできていて、僕みたいなのの方が異常なのかもしれない、帰りの地下鉄に揺られて僕は一人考えた。向かいに立つサラリーマン、彼は目の前に立っている僕が見えていない。いや、それどころかこの電車に乗ってる誰一人として僕のことが見えていないのかもしれない。そう思った瞬間、つり革を握っていたはずの右手がストンと下におりた。

 電車がカーブに差し掛かり、つり革をつかんでいない僕の体は遠心力でぐいっと押されてよろめいてしまった。電車には多くの人が乗ってたはずだが、僕は誰にもぶつからずそのままドアの方まで行って、ドアをすり抜けて線路の傍に落下した。

 地面は暗くてどうなっているのか見えなかったが、僕は「ああ死んでしまう」と思った。

 暗い地面と完全に諦めた僕の頭が接触した瞬間、僕の体は透けてそのまま地面の中に落ちていった。

 さっきまでとは全然違う本当の暗闇。地中では息ができないはずだが、存在が希薄になりすぎて、人間としての活動である呼吸すらいらなくなっているようだった。

 落ちながら僕は考えた。

 僕みたいな人間はみんな最後は完全に透けてしまって、地面の中へ消えてゆくのだろうか。もしそうだったとしても、何の不思議もない。透けて地面に落ちてしまうほど存在が希薄な人間が消えても、世界には何の矛盾も生じない。人が他人の認識によって存在する生き物なら、消えてしまうような人間は最初から消えているのだ。

 落ちている最中も存在はどんどん希薄になっているようで、ついには質量も減ってきたらしく、僕の体はどんどん加速していった。

 いつまで落ち続けるのだろう。そう思っていると、突然周りが真っ白な光に満ちた。一瞬外に出たのかと思ったが、どうもそうではないようだった。どうやら僕は地球の核、マントルまで落ちてきてしまったようだった。僕はもはや人間の輪郭と意識だけの存在になっているようで、熱さは全く感じなかった。

 しばらくすると再び周囲が暗くなった。何も見えないのはマントルを通過したからか、それとも僕が完全な「無」になったからか。全身の感覚は消失し、僕は自分がどうなっているかすらわからず、そしてわかる必要もないように感じられた。

 意識すら薄れ、時間の感覚もなくなってしまった。だから数億年後なのか数秒後なのか分からないが、突如として、視界が再び光に満たされた。地球の核の時とは違う、暖かな光だった。

 僕は眩しくて目を閉じた。そしてゆっくりと光に目をならしながら開けると、太陽と空が見えた。周囲に目を向けると、そこには延々と何かの畑が広がっていた。下を見ると、僕の体がはっきりと存在していて、二本の足が地面を踏みしめていた。

 後ろから声がした。振り返ると、見知らぬ人々が手を振っていた。彼らの元に駆け寄って話を聞こうとしたが、聞いたこともない言葉で何をいっているのか全然わからなかった。

 試しに、「ここはブラジル?」と身振り手振りを交えて聞いてみたが、彼らは何を言っているのかわからないといった表情の後、面白そうに笑った。

 そのあと彼らの住む町に行ったが、結局のところ、ここがどこだかわからなかった。あの世かもしれないし、ブラジルかもしれない。

 行くところがなく、僕は最初に会った人たちの家で厄介になることになった。彼らは家族らしく、よくわからない作物を栽培していた。

 それから瞬く間に数年が経った。僕は彼らの言葉がいくらかわかるようになり、一緒に作物を育てて生活するようになっていた。

 別にここにきたことが僕にとって救済になったわけではなかった。毎日の畑仕事は辛く、そしてここがどこなのかわからない不安感は、常に僕につきまとった。面白いこともあれば嫌なこともあった。前住んでいたところの方がいくぶんか楽だったと思うことも少なくない。でも、こっちにきて以来、体が透けることはなくなった。ここで生きるためには誰かと積極的に関わらなくてはならないからじゃないかと僕は思った。

 前に住んでいた場所では、僕以外の人の目はアクリル玉でできていた。でも本当は、今みたいに積極的に関われば、彼らのアクリル玉じゃない目が見れたのかもしれない。

 二度と落ちることのない地面を見て、僕はそんなことを思った。


オチがうまいこと思いつかなくって少し説教くさい感じになってしまったかなって思います。

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