期待と固体
恋は化学反応である。そういっていた彼女だった。彼女といっても、恋人である彼女ではない。あくまでも女性を指す彼女だ。
私は科学部の数少ない部員の一人だ。学校にはたくさんの部活生がいる。野球部や吹奏楽部、美術部や写真部。どれも青春を凌駕するには十分な部活だ。私も科学部で十分な青春を送っている。今思うと青春だったと感じるが、当時はそれほど感じられなかった。いやできなかった。
科学部には、私とあと一人しか部員がいなかった。ミヤと呼ばれていて、私の先輩にあたる人だ。彼女は勉強はでき、スポーツも苦手というわけではない。優等生といいたいとこではあるが、性格に難があるといえる。いつも部室で実験をしているのだが、その顔はかたい。基本的に無口であり、私が話題を提供しても、「あぁそう」の一言ですまされてしまうのだ。興味がないものには全く関わりがなく、唯一興味があるのが科学くらいであろう。生物、物理、化学、地学問わずだ。そのため他の生徒らからは一目おかれている。そっけない返事をするせいかよく怖い人と呼ばれているようだ。一言でいうならバリバリ仕事のできるキャリアウーマンのようなひとだ。顔立ちはよく、全体的にスラッとしている。これで明るければ学校一の美女であっただろう。彼女のファンも少数ではあるがいるようだ。だけど彼女はおそらく頼まれてもやらないだろう。自分の学にしか興味のないひとだから。
放課後の理科実験室。夕日が眩しく入り込み、秋の虚しさを感じさせている。そして彼女もまたその風景に溶け込んでいた。科学部は兼部の人がほとんどで、実質活動しているのは私と彼女だけだ。二人っきりのことなんてほぼ日常だ。だけど私にとって、それは重荷に過ぎない。噂通り彼女はなにもしゃべらない。なおかつ、私だって彼女に話しかける勇気すらないのだ。そんなこんなんが半年は続いている。私がそもそもこの部に入ったのは、理科が好きだった、ただそれだけだ。いまさら運動部に入ろうという気もしない。「友達からはよく科学部なんかより、こっちこいよ」なんて言われるが、部活だけが青春ではないと私は思っている。
いつも彼女はひたすら毎日違ったテーマを調べている。今日もただ机と器具にむかいにらめっこを続けている。私はこの時がはっきりいって複雑なのだ。気まずいという気持ちが残る。向こうはそんなことを微塵も思っている気配などないようだ。今も続けているのはただなんとなく。あと部室は勉強するにはちょうどいいだけだ。私は毎日いっているわけではない。友達と遊んだり、用事があったりと、そんな日常を過ごしている。ただいつもいくと必ず彼女はいる。それがもどかしくてしょうがなかった。このもどかしさがなんなのかはわからないが。
ただそうもいかなくはなっていた。文化部である以上、文化祭でなんらかの催しをしなければならない。顧問の先生には言われたものの、活動人数は実質二人。それから時間だけが過ぎていた。
「マサト君、これ」
「あ、どうも、ありがとうございます」
事務的な会話しかしていない。それ以上に踏み込むのが怖いのだ。渡された紙を見ると、ぎっしりと催しについての案が書いてあった。だがまだ想定内だ。彼女ならそうであるはずだ。だけど彼女が文化祭に乗り気というのも、考えてみれば意外だ。ざっと目を通してみる。
『磁場中の荷電粒子の運動についてのシミュレーション』
『合成高分子のモデルの展示』
『気体の比重を利用した実験』
私はこの時とても困った。盛り上がらないことに間違いはない。こんな理系のなかの理系にしか興味がわかないような内容で、誰が来るというのだろうか。だけど私には彼女に、伝えることができるとは思えない。逆に考えればこれはチャンスでもあった、彼女と親睦を深めるための。大きく深呼吸をしてから、
「せ、先輩」
声が少し裏返ってしまったような気もしたが、気にしないで続ける他なかった。
「こ、このテーマは・・・ちょっと生徒には伝わらないんじゃないんですか・・・って」
顔から火が出そうなほど熱かった。でも少し我に返る。
「な、生意気なこといってすいません!」
少しの間空白があった。おれは冷たい一言を浴びせられる覚悟はあった。だけど先輩の態度ははるかに違った。
「・・・フフッ」
先輩が・・・笑ってる?
「マサト君って可愛いとこあるのね」
先輩の笑ったところを見たのは初めてだった。笑ってるというより微笑んでいて、普段からはとても想像なんてできない笑顔だ。だけどそんなことを言われて、正常でいられるはずがない。というより、先輩の言葉の意味がよくわからなかった。
「そのテーマは冗談よ。きみを困らせるためにわざとしたの」
「・・・え?」
今までろくに話したことのなかった彼女は、急に狂ったのだろうか。それとも別人なのだろうか。そんな事さえ頭によぎった。
「もしかして・・・迷惑だった?」
彼女の顔が急に曇った。正直なところ迷惑というより、とても困っていた。あの無口な先輩が、急に笑顔にで話しかけてきて、かと思えば今にも目の前で泣き出しそうな顔をしている。こういうときにどうすればいいかはわからないが、とりあえず言葉だけはでてくる。
「そ、そんなことないですよ!」
なぜ急に人格が変わったのかとは聞けもしない。聞いてしまったら、そこで何かが終わってしまいそうな気がしたから。
「じゃあ・・・テーマはどうするんですか?」
「そうだね・・・。ヒトの気持ちなんてどうかな?」
彼女はやはり今日は気がおかしいらしい。気持ち以前に感情がない人であった。そんな彼女がヒトの気持ちなんて考えるだろうか。
「ヒトの気持ちにも科学的に何かがあるはずだよ。おなかがすいてイライラするとか、すきな化学式が出てきて嬉しいとか」
ある意味正常だった。
「でもヒトの気持ちなんて・・・どう研究すればいいんですか」
「それを考えるんだよ。実践するのが一番じゃないかな」
「実践って・・・」
「んー、感情が激しく変化するのは恋かな」
彼女からとうていでないような言葉だ。だけど実際にでている。
「マサト君は彼女とかいるの?」
「い、いないですよ!」
「ふーん。じゃあ片思いとかは?」
「小学校以来してないですね。・・・参考にならなくてすいません」
恋なんて縁の遠い言葉だ。片思いすらまともにしたことはない。結果は見えているのだから、好きになることができないのだ。
「先輩は?」
「私は・・・昔いた」
触れちゃいけない話題だったのか。沈黙だけが流れる。
「すいません、思い出させてしまって・・・」
夕日の差し込む理科室は、ただ二人を赤く照らしている。彼女はなにか黄昏かなにかに浸っていて、遠い目をしている。まるで時が止まったのかのように長い時間が流れた。水の入ったビーカーは赤くひかり、わずかに私達を映し出していた。
彼女は重い口をゆっくりと開いた。
「私ね、浮気されてたの」
彼女の顔は軽々しい顔だったが、言葉だけは重く響いていた。
「まだ一年生のころ、大好きだった先輩に告白されて付き合うことになったの。恋って化学反応みたいなんだよ。とても幸せに感じられていた。今の私からはとても想像できないでしょうね。でも付き合ってひと月もかからないうちに、彼は浮気してたの。というより、私が浮気相手って言った方が正しいかな」
彼女の目もまた、赤く染まっていた。
「それで私は人をあんまり信じられなくなったの。元々理科が好きだった私が、この部活に入ったのもその時から。言葉ならいくらでも嘘をつけるし、いくらでも表面を覆うことができるの、もちろんいつかボロはでるだろうけど。でも理科だけは嘘はつかなかった。私が失敗すると必ず結果としてでてくるし、上手くいけば理想通りの結果がそのままでてくる。それに必ず理由だって教えてくれる」
彼女の実験はいつも真剣そのものであった。だけど私には、それがわからなかった。
「私って変だよね。それから人を信じれなくなって、理科だけを信じるようになっていたの。だからみんなから怖がられたりしてきた。だからマサト君がうらやましかった」
私が?いったいどこなのか私にはわからなかった。私には彼女のほうが羨ましいように思える。
「君はいうなれば液体だよ。このビーカーのなかの水のようにどんな形にでもなれて、どんな対応もできる。自由な気体と違って、ちゃんとその場にいて、ちゃんと存在を確認できる。透明だけど外から光を浴びればその色に染まってくれる。なんでも優しく包みこんで、なんでも受け入れてくれる。だから透明なようで甘かったり、しょっぱかったり。でも私は頑固な固体。型にあてはまることはなく、誰かを包み込んで上げることもできない。無理に形を変えようとすれば、割れてしまうもろい存在」
彼女はそういうとビーカーの中の水を流した。
「私は感情をできるだけ捨てて、自分の存在を否定してきたの。でもできなかった」
彼女の言葉はまだ続く、
「君といつも同じ教室で、いつもずっとそばで見ていた。君の結果はいつだって正直に素直に出ていたの。だから私はあなたを信用している。でも信用している自分が怖いの。君を見る度に感情は揺れ、どうしたらいいかわからなくなる。期待があると同時に不安だってある。君がずっとずっと愛おしくてどうしようもなかった」
私は彼女の言葉にどう返したらいいのかわからなかった。返して上げることができなかった。でも彼女の感情かなにかは変わっていることに違いないだろう。そして私の感情もまた変わっていた。
後はわずかに湿ったビーカーの水滴と夕日が照り輝くだけであった。その中にずっとつまっていたのは期待か、それともただの固体だったのか。