prolog
「プププリだ」
「え?」
その単語は余りにも聞き慣れず、異国の言葉か、それとも地球外生命体が発した言葉なのか理解出来ずにいた私はただ呆然と立ち尽くすしかなかった。
その少女は私と同じ日本人、いや、地球人であるように見受けるが、開いた口から飛び出した言語もやはり意味不明、理解不能な単語にしか聞こえない。
少女はずり落ちた自分の目よりも大きな丸い眼鏡のツルを両手で持ち上げ、これでもか輝かんばかりの笑顔で私を見つめる。
そして無礼にも人差し指を私に向けて突き出して、大きな声でこう言った――
『プリンセス・サファイア、推して参る!』
それはとても退屈な毎日の、良くある一日の始まり。
目覚まし替わりに響くのは、部屋の隅に設置された巨大な液晶テレビから流れる可憐な少女達の声である。
天蓋付き、と言う程ではないが、一般家庭では見ない洒落た柵付きのクイーンサイズのベッドの上で、もぞりと何かが蠢いた。
「ぅ……ん」
ゆっくりと布団が持ち上がり、ミノムシ状の塊だった何かがグッと腕を伸ばして背伸びを一つ。
白いシーツの上に広がる艶やかな黒髪を一掬いして、とりあえず無造作に括っておく。
まだ半分眠っているのか、のろのろと陶磁器のように白く長いおみ足を柔らかなラグマットの上へと下ろし、はしたなくも大きな欠伸を一つした。
ビロードとシフォンの二重のカーテンを完全に閉めきれていなかったせいで窓の隙間から洩れた朝の光が、この恐ろしく広い部屋の中を薄らと照らしている。
はて、ここは日本か、はたまた欧州辺りの城かホテルか。
見るからに高価なシャンデリア、細やかな彫刻や装飾を施された家具類に、壁に飾られた絵画はその筋に精通していなくても何処かで見覚えのあるような、そんな芸術品のオンパレードだ。
ロココ調。そう表現して遜色ない絢爛豪華さは、きっと全世界の夢見る乙女達が憧れ嫉妬する、理想的なお姫様のお部屋だろう。
しかし、だ。
『キラキラと燦然と輝く、純粋な光! プリンセス・ダイヤ!』
ここは何もかもが庶民とは掛け離れた非現実的な部屋ではあるが、その中でも最も異様で異質なものと言えば、この巨大な液晶テレビであろう。
今は真っ白なふりふりのドレスに身を包んだ金髪の美少女が勇ましく口上を述べ、キュートなポージングで画面いっぱいに映っている最中だ。
『熱く燃え盛る情熱の光! プリンセス・ルビー!』
次はボリュームのある赤髪をサイドテールにして、これまた真っ赤なドレスに身を包んだ美少女がヒーローのようなポージングで画面に映る。
そして、画面の前へと移動した少女の開いた口と同時に、画面の中に現れた青い髪の美少女の口が開かれた。
「『静かに凪いだ…高潔の光! プリンセス・サファイア!』」
鮮やかな青色のドレスに身を包み、プリンセス・サファイアと名乗った美少女と同じポージングをとる。
画面の中の美少女と似た少々吊り上がった目。その瞳には凍えるような冷たさが讃えられてはいるが、頬は興奮したように赤く染まっている。
――コンコンコン。
規則正しいリズムで叩かれた扉に、朱のさした少女の頬が瞬時に元の色へと戻る。
深く吐き出された溜め息は、どうせこの扉の向こうには届きもしないだろう。
「お嬢様、朝食のご用意が出来ましたので」
「……ええ」
扉を開けることなく声をかけてきた使用人に、こちらも顔を合わせることなく短く返答を口にする。
ぷちっ、とボタン一つで、いとも簡単に悪をバッタバッタとなぎ倒していた少女達は暗闇へと消えてしまった。
「プリンセス・サファイア……推して参る……」
それは“ひらけゴマ” の呪文のように小さく呟かれ、少女の両手は重々しく扉を開いた。
まるでこれから始まる“一日(戦い)” に立ち向かう戦士のように、その足は扉の向こうの世界へと一歩踏み出したのだった。