5.逃走の果て
危機に陥るエリーとヨナ。二人の運命は如何に!?
狭い暗がりに寄せ合うなか、ふたりは静かに怒鳴り合う。
「全くなんなのよあれ! 何でサイクロプスがここに? というか地面から出てくるって!」
「落ち着け!」思わず興奮するエリーを制し、「 ……ここは何としても逃げて距離を稼ぐのが先だ」
「そ、そうね。まっすぐ街に戻って助けを……」
「いいや。城壁に近づこうにも奴の妨害が激しくなる一方だ。ここは街に向かうのは一旦諦めるしかない」
「なっ……じ、じゃあ何処に逃げ込めっていうのよ……」
そう語るヨナの言葉に落胆と困惑の表情を滲ませるエリー。そんな様子に彼は、まだ諦めるのは早い。と言い聞かせ、とある方向を指差した。
「ここから近いのは砂漠しかない。流石に樹海から抜け出せれば追ってこないかもしれない」
「それってあいつがここらを縄張りにしてるっていうの?」
サイクロプスに限らず巨人族の多くは基本的に縄張りから出ることはない。たとえ出ていくことがあったとしても、狩り行う場合ぐらいだと冒険者の間では広く知られていた。
また、この大樹海の場合では、過去に樹海の深部にて目撃された報告例があるが、樹海から姿を現した前例は〔津波〕ですらない。
この事を思い出したヨナは、樹海から抜け出し砂漠に逃げ込むことが最良だと思い、この状況のなか提案してみたのだ。
と言っても、今のところこれしか思いついていないのが実情だが。
「分からない。だがあいつがこの辺を彷徨く以上あり得る。それに、砂漠に出て北門を目指せば衛兵が見付けて助けてくれるかもしれない。こんな森の中よりずっとマシだ」
「分かったわ。とりあえず砂漠の方まで――――ッ!」
あの過激な妨害も無くなった上、時折聞こえていた大きな足音と猿叫もだいぶ小さくなった。奴がこのまま見失えばいいと思い、二人はたまたま見つけた枯れた大木の洞にて隠れ潜んでいた。
二人は気づかれないよう小さな声で相談しあっていたのだが、再びけたたましく鳴る警報と同時に、感じ取った周囲の気配を頼りに勢いよく洞から飛び出した。
「い、いつの間に――――!?」
二人が飛び出した後、数秒遅れて大木にサイクロプスの巌のような巨大な拳が降り下ろされ木っ端微塵に粉砕された。少しでも飛び出す判断が遅れれば二人の命はなかっただろう。
(お、おかしい。距離を空けてあった筈なのにこんな短時間で詰められるだなんて。それに――)
豪ッ!
「くっ!」
ヨナは頭の中で湧いてしまった疑問を振り払う事が出来ずにいた。
今こうして考えている間にも、風を斬って振り回される拳をかわし続けている。二人が逃げおおせるだけの隙を、この怪物から引きださなければならないこの時に、今さっき起きたことに対する疑念が彼の思考にまとわりついてた。
(それに、感じた気配と警報が同時というのはあり得ない。少なくとも俺の『索敵』は直径三十ムールの範囲内。鳴り出す時には最低でも十ムール位の間隔があるはずだ。それなのに――――)
「がっ!?」
ヨナは防御スキルと身体強化スキルの併用で身を固め、降り下ろされる拳を構える盾で受け流す事によって何とか耐えてこれたのだが、サイクロプスの放った一蹴りによって吹き飛ばされてしまった。彼は十ムール近くぶっ飛び、転がっていく。
「ヨナ!」駆け寄りたい衝動を抑え、「このお――! 食らえ!」
一方、エリーも同様にサイクロプスからの猛攻を受けていたが、彼女にはヨナの盾のような防具は持ち合わせていなかった。
そこで彼女は自身の両足に風魔術をかけ、魔術によるブーストから回避スピードを出す工夫をやってのけた。
今、ヨナが蹴り飛ばされてしまった時に生じた隙を突き、エリーはサイクロプスの背後をとった。
彼女は巨人族の弱点である頭部に向けて弦を目一杯引き、連続して二回撃つ。弓から放たれた二本の矢は回転する風を纏い、頭部めがけて突進していく。
エリーは矢を射る直前、魔樹で作られた合成弓【破魔の弓】に魔力を注いでから風魔術スキル『風突』を発動させた。
【破魔の弓】に備わる威力増加の効果よって増幅された『風突』は、巨木の腹に大穴を穿つ事ができるほどの威力だったからだ。
あの怪物の頭ならば、穿つどころか無惨に吹き飛ぶことになるだろう、そうエリーは思っていた。
「なっ! 嘘でしょ!?」
放たれた二本の矢は直線上にサイクロプスの頭を捉えて直進していた。しかし後頭部を突き破る寸前に、皮膚に触れる寸前に弾かれてしまったのだ。これは決して偶然ではない。一本目に続き二本目も同様に弾かれた。
威力が殺されてしまっての事かというと、そういう訳ではない。その証に、矢が纏っていた風刃が禿げ上がった後頭部に深くはない切り傷を二重に負わせていたからだ。だがなぜ弾かれてしまったのか見当もつかない。
何とか受け身をとり、大事には至らなかったヨナが苦しそうに立ち上がりながら、
「ぐっ! うう……エリー、逃げろ!」
「ギギシシシ……」
と、大事な後頭部を傷つけられてしまったのか、サイクロプスは後頭部を擦りながら怒りの視線をギロリとエリーへと向けた。血走る充血した眼球が、彼女の姿を捉える。
「ガアアア!」
「ぐっ! あああっ!!」
エリーはすぐさま距離をとるが、サイクロプスが一歩大股に進み出て、その勢いのままに拳を降り下ろした。辛うじて拳をかわすことができたエリーは、両腕をクロスして防御姿勢をとるも、拳が地面に激突したことによる衝撃波で勢いよく吹き飛ばされていった。
「くっ……ヨナ! あいつの注意を引き付けて!」
「分かった!」
吹き飛ばされたものの、得意の風魔術によって何とか転ばずに着地したエリーは、自身のところへまっすぐ向かって来るサイクロプスの背後をとったヨナに、挑発スキルで引き付けるよう指示した。
その指示に従い、ヨナは盾を構え挑発スキル『惑溺』を発動、エリーに向けられた注意と攻撃を強制的にヨナの元へと引き戻した。以降、放たれる猛攻は彼に集約されることになる。
(よし、これで――――!)
ヨナが引き付けている間に、倒せずとも何とか負傷させ、距離を稼ぐだけの時間を作るために、エリーはサイクロプスの死角をとった。そして彼女はより強力な風魔術スキル『風尖』を発動、脚に向けて立て続けて数本の矢を放った。
放たれた数本の矢は、それぞれに集束され圧縮された風の槍と化し、穿ち穴を空ける――筈だった。
「ギアアッ!」
「な、なんなのよ! この硬さは!」
サイクロプスの悲鳴が短く響く。矢は狙い通り、それぞれの脚に突き刺さった。だが期待したような効果はなく、ただ突き刺さっただけだった。
決してエリーの『風尖』の威力が弱い訳ではない。
実際、狩りの際フォレストベアに遠距離の狙撃で一度射っていたのだが、その時は爆発するかのように頭部が吹き飛び、貫通していった矢はそのままの勢いで次々と木立に大穴を穿っていたのだ。
そんな威力のある矢が、ただ突き刺さるだけ、というのはこのサイクロプスが尋常ならざる硬さを誇る筋肉の装甲を纏っている証左だった。
「くっ――!」
背後からの攻撃で痛みが走ったにも関わらず、サイクロプスはエリーに振り向かずヨナへと攻撃をし続ける。挑発スキルの効果で彼に釘付けにされているからだ。
ヨナが何とか猛攻を耐えている中、エリーには動揺で攻撃の手を緩める余裕などありはしない。彼女は次々と魔術スキルを発動させ、少しでもサイクロプスの体力を削ろうと射ち続ける。
(毒塗りの矢を用意しとくんだった……!)
高威力の一撃一撃が両脚に次々と突き刺さるも、大してダメージは通っていないようだった。
サイクロプスの表皮は焼け焦げたり、氷結したり、無数の切り傷が刻まれていたりしていたが、サイクロプスは最初に上げた悲鳴すらしなくなっていた。どうやら意に介していないらしい。
エリーはこんな怪物に出会うとは思っては全くいなかったものの、いつもは矢筒に入れていた毒塗りのを持って来なかった事を悔やむ。麻痺毒なりで動きを鈍らせる事が出来たのかもしれない。そういった思いが頭の中で駆け巡る。
「悔やんだって仕方がない。もっと削って――――!?」
さらに射とうと矢筒に手をかけると、その手に感じた感触は一本分の矢羽のみ。視線を移すと矢筒に入っていた弓矢は正にその一本が最後だった。
「ヨナ! 最後の一本しかない!」
「くそっ! 分かった! 離れてろ!」
エリーの状況を理解したヨナは、ちょうど降り下ろされた一撃をかわし、エリーから引き離すように後方へと逃げる。彼を追うサイクロプスはエリーの必死の猛攻の甲斐があってか、足取りが重いようだ。
(これならいける!)
サイクロプスの状態を見たヨナは、千載一遇のチャンスが巡ってきたと判断し、
「おっ、らあああああ!!!!」
と、盾をやや高めに構え防御スキル『残減反射』を発動、降り下ろされたサイクロプスの右拳を迎撃した。
防御スキル『残減反射』は、攻撃を加えられた際に盾が受けた衝撃を十分の一にし、残り十分の九を攻撃者に反射・反動を与える盾持ち必須の防御スキルだ。
この効果と身体強化したヨナの突き上げが功を奏し、サイクロプスは仰け反り背中から倒れ込んだ。
「グアアアアアッ! ガバハァッ!」
「エリー! 今だ、先に行け!」
すかさず倒れ伏すサイクロプス目掛けて、彼が腰につけていた小袋から催涙玉、焼夷玉を掴み顔面に投げ込む。
破裂した催涙玉の催涙液が目に入ったのか、野太い悲鳴をあげながら、目を押さえてもがき苦しみ始めた。さらに投げ込まれた焼夷玉が、大きく開かれた口の中に入り込んで破裂し、口内を焼いていく。
「ギイイ―――!!」
サイクロプスは悲鳴にならない悲鳴を上げ、身体を九の字にのたうち回る。
「ざまぁ見ろってんだ!」
今まで大したダメージを与えられないほどに頑強な皮膚と肉体でも、体の内側は違うらしく痛みに悶絶している。効果は抜群だ。
が、それでもヨナの手持ちの武器ではこのサイクロプスを倒しきることはできない。ブロードソードは本来相手を叩き切る武器。ただの鉄のブロードソードでは、例えスキルで威力をあげようとも、到底刃が通らないだろう。
「ヨナ早く!」
「ああ! 逃げろ逃げろ逃げろ!」
そう判断したからこそ、ヨナは無駄な体力の消耗は避け逃げに徹した。
激痛にもがきのたうち回る怪物を残し、彼はエリーを連れ砂漠のある方角へ走る。もはや城壁より砂漠の方が比較的に近い。懐に忍ばせていた方位磁石付きミニマップを頼りに二人でひた走っていく。
サイクロプスから上手く距離を空けられたのはこの一回だけだった。
◇◇
「両脚にダメージが残ってる筈なのに何で……!」
「分からん!」
逃げても逃げても、あの怪物の近づく気配が消えない。むしろ敢えて存在を誇示しているかのようだ。
再び飛んでくる樹木を避けかわしつつ、追って来るだろう方向に、時折唐辛子の粉末の煙幕を張る玉〈辛煙幕〉を用いた簡易トラップを仕掛けていく。一度や二度ほど上手く発動させるも、大した時間稼ぎにはならなかった。
その後、同様のトラップ、アイテムの投擲も不発に終わった。木々の枝葉の揺れ具合から確かに仕掛けたトラップの方向を通過した筈だが、あの野太い悲鳴は聞こえない。
このままいたずらに数少ない手持ちアイテムを消費し続ける訳にも行かず、妨害を諦め突き進む。
実は、ヨナのトラップの読みは確実にサイクロプスの進路上にあった。が、トラップを踏み抜くことは決してなかった。それもそのはず、ヨナが疑問に思っていた行動をもたらす特殊な能力を発揮していたからだった。
「「!?」」
その能力に気づいたのは樹木の投擲が止んでから十分近く経過した時。油断なく南西方向に走り続けていると、二人の行く手を阻もうかと地中からにょきりと二本の幹のような腕が突きだされた。
突きだした両腕は二人を捕らえようと動くも、容易くかわされ空を掴む。その後突きだされた両腕は地中へと引き摺り込まれた。
「ね、ねぇ、今の……」
「ああ……間違いなくあいつの腕だ……気持ち悪い」
あの両腕には見覚えがありすぎた。薄緑色の巌のような拳に樹の幹のように太い腕。間違いなく先ほどまで二人に猛攻を放っていたサイクロプスの腕だった。
どうやら戦法を変えたらしい。
異様な行動に移ったサイクロプスに、嫌な冷や汗をかき続ける二人はここに来て一つの答えに行きついた。
「私の『鑑定』では見れなかったけど……あれって間違いなくただの亜種じゃないわね……」
「だろうな。おそらく上位種のユニークだろう」
「ヨナは見れたの?」
とエリーは訊ねるも、彼は小さく首を振り、そうじゃない。と否定する。
「見えない。俺はエリーと同じ【解析者・中】だからな。だからこそ上位、それも知らない力を使うユニークだと思ったんだ」
「なるほど……納得ね……」
「加えて言うならAは下らないんじゃ……」
「やめてよ!」エリーは身を震わせ、「ただでさえ、あのサイクロプスは私たちじゃ倒せないっていうのに……」
「全くだ……。だが諦めるのはまだ早い。この調子なら砂漠に出れる。あと半分だ。頑張るぞ」
手荷物ミニマップをエリーに見せ指し示す。サイクロプスに遭遇してからなるべく真っ直ぐに走って逃げたおかげか、進路上の半分に差し掛かっていた。
「まだ半分……うああ、死ぬ……」
「ここで諦めたら本当に死ぬぞ! しっかりしろ、らしくない」
顔色がどこか青いエリーの背中をバシンと叩き奮いたたせる。そんなヨナの励ましに頷き、彼女は気を引き締める。
二人はこれまで通り砂漠に少しでも早くたどり着くように駆ける両足に一層力を込め、大地を踏み抜いた。
だがそんな二人を嘲笑うかの如く、薄緑色の怪物は虎視眈々と狙いをつけていた。
陽がさらに傾き、正午からおおよそ二時間半ぐらい経った後、ようやく二人の視界が木立の間から微かに覗く砂丘を捉える。
これまで幾度か奇怪な襲撃に遭ってきた。両腕の突き出しから始まり、鳩尾から上、全身とランダムで現れてくるサイクロプス。一見すれば滑稽で笑える登場の仕方をするのだが、心身共に疲弊する二人には全く笑えない。
地中から音もなく出現する度に、足をとられ握り潰されそうになったり、薙ぎ払われた際に巻き添えでへし折られた樹木の下敷きになりそうになったりと、正直樹木を投げ込まれた方がマシに思えてくる執拗で変則的な攻撃を、二人は苦しみながらもなんとか凌ぎきっていた。
だが耐え凌ぎ、かわす中で二人の身体へ蓄積されていくダメージは決して小さいものではない。二人は少しずつ回復薬を口に含むように飲んでいたのだが、遂に手持ちの全てを切らしてしまった。
加えて、変則的な襲撃の度に迂回しなければならなくなり、まるで狙っていたのか上手いこと行く手を阻み続けるので、余計ジグザグに蛇行して逃げる羽目となっていた。
これらの影響で森を抜け出す事ができない状況に苛立ち、焦燥し、疲労が頂点へとかけ上がるように追い込まれていく。
「あとちょっとよ! 頑張ってヨナ!」
と、エリーがヨナの腕を強引に掴み、引きずるように走る。引きずられるヨナは体力の限界寸前に至っているようだった。
ヨナは革鎧ベースの鋼の鎧に、鉄と木材でできた中型の盾、鉄のブロードソードという決して軽くはない装備に身を包んでいる。だが持久力は人並み以上にあり、装備の軽量化のスキルや身体強化スキルも使えていたため、これまでは大した負担にならなかった。
しかし絶えず休まず走り続け、交戦と回避を繰り返し、走る距離も蛇行することで余計に長く走る羽目になっている。
加えて考えないようにしていたはずの、迫りくる死への恐怖心が、大地を蹴り続けるだけの気力をもガリガリと削り続けた。
体力・気力とすり減らす中で脚がもたつき転んでしまうのは時間の問題。否、いつ転んで動けなくなってもおかしくはなかった。
だがそうはならない。
それは未だに恐怖に当てられる中でも、正気を保てる程に強靭な精神を持っていたから、だけではない。
今彼を引っ張っている相棒のエリーの存在が大きく影響していた。彼女が居てこそ彼は動き続ける事ができた。
姉のような大事な友人を守らなければ、という思いが彼を支えていた。
対するエリーは比較的軽装だ。だが彼女はヨナのような持久力自慢ではなかった。
加えて防具のない彼女は受けるダメージは直接的。蓄積されたダメージはヨナ以上と言えた。装備の重さこそ違えど、彼女もまたヨナと同じようなものだった。
疲労と恐怖、打開策が見えないことへの強い焦燥感。無我夢中に走る中、彼女の頭の中である考えが回り続ける。
(このままじゃ終わらない。きっとあいつは砂漠でも現れる。ヨナの言っていた事は只の気休め。都合よく助けを得られる訳がないわ――――!)
自分たちは助かる見込みがない。そんな不思議と冷静な考えたくもない考えが、正気が削られていく中で増大していく。だがエリーにはその考えを振り払うだけの余裕はなかった。
エリーは絶望しかかっていた。
それでも走る脚を止めることはしない。彼女もまたヨナという存在によって、すんでのところで理性を繋ぎ止める。
(ヨナは大事な友人で大事な仲間。弟のような存在。守らなきゃ。ヨナを置いて逃げるなんてあり得ない!)
二人それぞれに絶望の淵に立たされながらも、懸命に互いに互いを守ろうと諦めようとはしなかった。二人は愚直に相手を想い、走り続ける。
二人はようやく迷宮のような森を抜け、アラスチア砂漠へと出た。しばらく走ったあと、脚が縺れ崩れるように砂地に倒れ込んだ。
二人の両脚はガタガタと痙攣している。これ以上は歩くことも儘ならないだろう。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ。ごほっ、げほげほっがはぁっ……」
「ここぉ……までぇ……くればぁっ……!」
満身創痍の二人の身体は、酸素をより多く取り込むべく大きく口を開かせ、目一杯空気を吸い込む。
ヨナは限界を越えていたのか、ただただ息を切らすことしか出来ない。もはや口を利くだけの力もないようだった。
エリーもヨナと同様に肩を大きく上下させる。ヨナと違い少しだけ身体を動かすだけの力が残っていたのか、苦しそうに身を捩り自分たちが出てきた森の方向へ見やった。
目にする森の方向は、あの絶えず肌で感じていた迫りくる死の気配もなく警報もなく、静かなものだった。
「やっと……まいた……やった……」
気配はない。脅威は去った。巨人族は縄張りから出ない。出ないんだ。ヨナの言っていた事は正しかったんだ。もう何も心配はいらない。
そう強く、強く願わずにはいられなかった。
だが彼女の切実な願いは脆くも崩れ去る。
ビィー…ビィー…ビィー…ビィー…
無情にも、敵性反応を示す『索敵』の警報がまたもや鳴り響く。
「あっ……ああっ……なんでよ……」
「かっはっ……はぁっ、この……やろ……!」
倒れている二人から数ムール離れた森側の方からゆっくりと、砂地の中から全身を現す死の使者の姿に、遂にエリーは絶望に染まる。
分かっていた。分からないはずがなかった。否定したかった。こんな奴に出遭わなければ。あんな依頼を受けなければ。
彼女の碧色の双眼から大粒の涙がとめどなく溢れ、砂がついた肌を濡らし伝っていく。
(ああ……もう無理なんだわ……わたし……)
口回りが赤く青く爛れに爛れて、醜悪な笑顔を見せるサイクロプスが悠然と近づいていく中、腰が抜け力が入らない自分の身体を呪った。
(……死にたくない。死にたくないのに……。ここで諦めなきゃいけないの……?)
エリーが死を突き付けられ絶望する傍ら、ヨナは満身創痍の身体に鞭打って、エリーとサイクロプスの間に入るように這って盾を構える。
(せめて……せめてエリーだけでも!)
無駄だとじゅうぶん分かっていても、彼はやらずにはいられなかった。
少しでも生き残るチャンスを。無駄でも何でもいい。エリーが逃げるだけの時間稼ぎを――――!そう最期まで足掻き続ける。
ヨナはエリーを見やる。だが彼女は顔面蒼白で涙と鼻水を流し力なく首を振る。腰が抜けて動けないようだ。
「クソッ……」
(……俺たちの命もここまでか……)
目の前で仁王立ちする怪物に睨み付けながら、ヨナは思い至る。短い命だったな、と。
目の前で大事な友人を殺されると悟ったエリーは、動けないながらも足掻こうと、涙と汗にまみれながら無意味に砂地を掻き続ける。
(ああっ……だめ……だめなの……ヨナが……だれか……だれか……)
「だれか……たすけて……!」
ここに居ない誰かに向かって、届くはずもない掻き消えるかのような悲痛な叫び。
サイクロプスは巌のような鈍重な拳を高々と掲げる。そして今まさに、二人を撲殺せんと降りおろされようとしたその時。
『ドドッ! ドドッ! ドドッ! ドドッ!
ドドッ! ドドッ! ドドッ! ドドッ!』
二人の遥か後方から、リズムを刻むように地響きが伝わる。そして「避けろ!」と男の怒号にやや遅れるように続いて、
ヴォオオオオオオオオオオ!!!
と、雷鳴のように腹の奥底まで響く轟音が、サイクロプス目掛けて、ふたりの頭上を駆け抜けていく。
「な……にが……」
と、訳が分からないまま思わず声が漏れるも、鳴り響く轟音によって掻き消されていく。
エリーはまだ分かっていなかった。彼女の救いを求める願いが、今まさに届いたことに。