17.コソ泥とマジ蹴りと
「う、ううぅ~ん……」
ライコウは寝息を立てていた。が、突然夢にでも魘されているかのように、息苦しそうに唸り始める。
彼は深い眠りの底から徐々に引き上げられていくなかで、自身の上に何か大きく重いものが乗っていて、しきりに生臭く生暖かい風が顔に吹き付けられ続けているのを感じ始めた。
「うう、くせえ。なんなんだ……いったい……」
寝惚け眼をこすり、うっすら目を開ける。
部屋は室内用ガスランプの僅かな灯りによって照らされて薄明るい。その薄明るい中で、彼の目の前に大きな黒い影がじっと横たわっていた。
ライコウが見つめる視線の先――彼の腹の上にいたのは、灯りに僅かに耀く2つの紅玉の瞳の持つ白銀の狼。そう、彼の眠りを妨げた犯人はハクだった。
「……何してるんだ……重いし臭いぞ」
「ヴヴヴゥ。顔、見てた」
「はあ……今何時だと思って……」
ライコウは眉間を寄せたまま、彼を覗きこむハクから視線を外し窓に目をやる。風通しのために開けておいた窓の向こうは静かで、まだまだ暗いままだった。
「なんだ。まだ暗いじゃないか……」
ライコウはそう言ってハクを押し退ける。彼としてはもう一度眠りたい気持ちだったが、いざ二度寝をしようと試みるも寝られない。目を瞑り寝返りを打ってみるも無駄だった。不本意ながら、気持ちとは裏腹に頭の方は覚醒してしまったようなのだ。
「はぁ~……仕方ない。起きるか」
ライコウは諦めたようすで、ベッド端に脱ぎ捨てていたカジュアルパンツをむんずと掴み、溜め息混じりに外用の衣服に着替える。
顔を洗い洗面所から戻ると、ハクは何が嬉しいのか尻尾を振り出迎えた。そんなハクを少し恨めしく思い大きな頭をこねくり撫で回した。
「……やっぱり、誰も居ないよなあ」
ハクを連れ一階食堂へと降りてみた。食堂には灯りが点いていたが、そこに人の姿は見られない。
昨夜のような賑わいは当然ながら無く閑散としていた。厨房は灯りが点いておらず、人の気配も感じられない。
ひとまず自室に戻って日の出を待つか。と思っていたところへ、ミシ……ミシ……小さく床板を踏み抜く音が耳に入った。音がしたのは誰も居ないはずの厨房からだ。
「誰かそこにいるのか……」
厨房の出入口まで近づき、覗きこむ。真っ暗な部屋には人の気配どころか、何の気配もない。もしかしたら鼠の立てた音だったのかもしれない。
「聞き間違いだったか?」
おかしいな。そうライコウが首を捻ると、
「ヴヴゥ、いるよ。コウ」
傍らに立つハクが何かの臭いを嗅ぎとったのか、鼻をひくつかせ、ギロリと暗闇を睨んでいる。唸り声こそあげていないが、いつ獲物に飛びかかってもいいように臨戦姿勢をとっていた。
(これはもしかすると……)
依然として物音ひとつしない暗闇を睨み、ライコウはスキル『闇視』を発動する。するとどこに何があるのかも分からなかった厨房内が、たちまちクッキリハッキリと彼の視界に映し出された。そして―――。
(こいつ……)
厨房の食器棚の奥。
男と思われる人物が、棚にある重ね皿の隙間から息を圧し殺してライコウらの出方を窺っていた。男の方は気づいて居ないようだが、ばっちりライコウと視線があっている。
この男は誰なのか。それは厨房の中央にある料理台を見れば明らかだった。
(コソ泥め……店の食料に手を出していたのか)
料理台にはハムやら腸詰め肉、ナンが並べられ、今まさに軽食を作っていましたと言わんばかりに散らかっていた。
このコソ泥が宿の客ならば、何も暗闇のなかでコソコソと作らずとも、宿の者に声をかけ何か作ってもらうだろう。ちょっと割高な宿に泊まっているのだ。客もそれなりの常識は持ち合わせているはずだ。
そうでなかったとしても、この男が店に断りなく食料を漁るコソ泥であることは間違いない。
「コウ、どうするの……やっちゃう?」
「まぁ待て。俺に考えがある。ハクは俺の後ろに下がっているんだ」
ライコウはハクを下がらせ、出入口で仁王立つ。
今ここでハクとふたり掛かりでこのコソ泥を捕らえるのもやぶさかではないが、この部屋は厨房。当然金属製の調理器具や陶器の皿が多数あるのだ。
ここでの一悶着で、ぐっすり寝息を立てる他のお客さんたちを叩き起こすのも、皿が無惨に割れ散り宿に迷惑をかけるのもぞっとしない。
幸い、ライコウらが出入口に現れてから男は一度も動かずじっとしている。この静けさを保つには、このコソ泥を捕まえる際出来るだけ音を立てず、静かに取り押さえなければならない。
彼にそんな小難しい真似が出来るのかと言えば、出来るのだ。
ふとライコウは、おもむろに片手を掲げた。まるで厨房の大部分を占める影に――部屋いっぱいに満ちる闇に触れようとするかのように、彼はその片手を突き出しながら小さく唇を動かした。
「――――、――――、――――」
ライコウの口元から、ごく小さく空気が漏れる音が聞こえる。確実に何かを言っているが、厨房の奥で潜む男の耳には全く聴こえない。が、ライコウの傍に控えていたハクだけには聞きとれていた。その言葉は子守唄のようであり、聞き心地のよい詩のようだった。
だが彼が発していた言葉は普段使う言語――この世界で広く使われるグリニッシュ語とは異なった。人の使うものとは思えない、不思議な言語を呪文に用いているようだった。
短い詠唱が終わり、詠唱の間掌に灯っていた淡い光が弾けるように厨房内に拡散した。と同時に、食器棚の向こうでドサッと物が倒れる音がした。
「よし、これで大人しくなったぞ」
ライコウは倒れ伏す男に歩み寄り、顔を軽く叩いて確認すると、厨房の外へと引きずり出す。
「ちっ……重い……世話が焼ける……」
死んだようにピクリともしない男を抱え、食堂中央まで引きずっていると、
「……何を……しているの?」
「あっ……」
震えるような声が聞こえ、後ろを振り返る。そこには真っ青な顔で口元を押さえながら、呆然と彼を見つめるマリアの姿があった。
◇◇
陽が昇り、宿屋が表に面する路地に地元住人だけが行き交っている頃。
路地に照らされた朝日を窓越しに背中で浴びるライコウは、食堂の丸テーブルで朝の軽食を摂っていた。同じテーブルにはニコニコとおかしそうに笑うエリーと、頬を膨らませぷりぷり怒るマリアが同席していた。そしてそんな三人の足元では、ハクががつがつと大盛りの羊のカバヴを貪っている。
「も~~、本当にビックリしたんだから!」
「ははは、驚かせてゴメンな」
「それで、マリアはてっきりライコウが死体を運んでいると早合点したんだ?」
そう訊ね、からかうように笑うエリーに対し、マリアは仕方ないじゃない! と顔を赤らめ恥ずかしそうに反論する。
「あれを見て、誰も爆睡する泥棒を捕まえていたなんて思わないんだから!」
そんなマリアの心からの叫びに、その場に居合わせていた他の客から思わずといった笑い声が上がる。そんな理不尽な反応をされて彼女は半分涙目だ。
「ううう……」
「そもそも」
哀れなマリアを気遣い、周囲の笑い声につられないようエリーはどうにか笑い堪えるも、彼女の口元はにやけたままだった。
「なんでこんな騒ぎになったの?」
今朝の顛末はこうだ。
最近この近くを荒らし回っていたコソ泥は、今朝はたまたま腹が減っていたらしく、最後にこの宿に入ることを選んだ。
彼は馴れた手つきで厨房勝手口を抉じ開け侵入し、食堂の灯りを点けて食料を漁ると、軽食のカバヴサンドを作り始めた。
そこへ偶然にも、食堂に降りてきたライコウらが現れる。コソ泥はすぐに物陰に隠れたが、男の存在に気づいたライコウが機転を利かし、呆気なく捕らえられてしまった。
更にそこへ朝の準備をしようと、階段を降りてきたマリアは、何故か食堂の灯りが点いているのに気づく。不審に思いそっと食堂内を横切ったところで、厨房から男を引きずるライコウに出会したのだった。
ライコウとしては、彼女とばったり会ってしまった時までは良かった。食堂での大人びた接客を見せる彼女ならば、冷静に事情を聴いてくれて、事を穏便に済ませられると思ったのだ。
ところが、力もなくだらりと伸びる男の姿を見た彼女は何を思ったのか、空気を切り裂くような甲高い悲鳴を上げてしまった。
今思えば無理もない。彼女は男を死体だと思ったのだ。
「ど、どうした! 大丈夫か! 何があった!」
当然宿屋にいたお客さんたちを叩き起こし、ドタドタと騒がしい足音を立てながら、腕に覚えのある客たちが真っ先に駆け降りてきた。ここに泊まる客層は多くが冒険者や傭兵ばかりだ。当然彼らは剣やら斧やら短銃やらを手にして現れた。
だがライコウにしてみれば、物騒な獲物を片手に取り囲む者たちよりも、折角の配慮が無駄となってしまったことが気掛かりだった。
「無事か! マリアちゃん!」
「下がって……いったいどうしたって言うの?」
「そ、それ……」
驚く客たちは、それぞれマリアが怯えたように指を指す先にいる、困った顔をするライコウと足元に捨て置かれた男を見た。
「そいつは?」
「あんた、何を……」
客の間で、驚きの空気がたちまち警戒と不信の空気に変わる。いよいよ、思いもよらない窮地に立たされてしまった。ライコウがそう思ったその時――。
「ぐががっ、ぐぶっ、ひゅううう」
「えっ」
突然鳴り響く奇妙な音に、思わず驚いた声を上げるマリア。
「ぐががっ、ぐぶっ、ひゅううう」
死体が息を吹き返した。
否。
「ぐがががっ、ぐぶっ、ひゅううう」
「……こいつ……」
客たちが困惑するなか、彼らのうちの一人が呆れるように呟いた。
「ただ寝てるだけじゃねえか……」
こうして、男のかいた鼾のおかげか、マリアの勘違いだということですぐに誤解がとれた。また、案の定男が宿泊客に居ない侵入者であることもはっきりし、早速呼ばれた衛兵たちに引き渡されたのだった。
当事者であるライコウらから経緯を聴き、ふんふんとエリーは頷くと、
「大筋は聞いてたけど、そんなに騒ぎになってたのね」
「……あれでよく起きなかったな」
「あなたも知ってるでしょう? 昨日は酷い目に遭ったもの。すごく疲れていたの」
あの騒ぎの中、泊まっていた宿泊客のほとんどが目を覚ましていたらしい。そんな中、エリーは貪るように熟睡していたらしく、鐘が鳴る朝まで全く気づきもしなかったそうだ。
この話を聞いたのもつい先程で、顔見知りの女性宿泊客から初めて聞かされたそうだ。
「もう終わった話だし、大して何も取られなかったからいいんだけど……」
マリアはエプロンの裾をぎゅっと握り締め、不満そうに口を尖らせる。
「なんで私が笑われなきゃいけないのよ! おかしくない??」
「そういえばそうだ」ライコウは相槌を打ち、「なんで彼女を笑うんだ? あの反応は至極まっとうな反応だと思うぞ」
「そうそう! もっと言ってやって! ライコウさんは分かってくれてるのに、みんなは酷いわ!」
本気ではないにしろ、ぷんぷん怒るマリアに対し未だに笑い声が絶えない。だが笑い声といっても、馬鹿にしたような『嗤い』声ではない。どちらかというとアットホームな雰囲気だ。
「そいつはだな」
と、隣のテーブルに座る客から声をかけられた。にかにか笑うこの男は、今朝の駆けつけてきた客のひとりだ。
「マリアちゃんの普段の言動に原因がある」
「? というと?」
「あんたは知らないようだから教えてあげよう。マリアちゃんは俺たち冒険者の話を聞く度にいつも強気な態度をとっていたんだ。『わたしなら蹴飛ばしてやるわ!』とか、『情けないわね、わたしならへっちゃらよ!』とかね」
「あれは!」マリアは言われて反論しようとするも、「その……」と口をつぐんでしまう。
「普段調子に乗っておきながら、いざその場に居合わせるとビビっちまう。俺たちゃ、おかしくてしょうがないんだよ。普段の威勢と今朝の悲鳴を思い出せば、特にな」
「…………」
「他にも……」
「いい加減にしなよニック。言いすぎよ。マリアが可哀想じゃない」
更にからかおうと、話を続けたがる男にエリーが噛みつく。それにニックと呼ばれた男は反論した。
「エリーだって笑ってたじゃないか」
「私が笑ってたのは、今朝の勘違いに恥ずかしそうにしてたマリアが可愛いからよ。たぶんここにいる皆もそうだわ。意地の悪いあんたと一緒にしないで」
「んだと……」
「おいおいお前ら、喧嘩してないでマリアを見ろよ! ニック、おまえマリアに言うことがあるだろ?」
他の客から言われてマリアの様子に気づくと、ニックは少しばつが悪そうに、悪かった。と謝った。
それでもなお俯く彼女に、苦笑するライコウは慰めるように優しく声をかける。
「そんなに落ち込まなくてもいいよ。普段の君がどうだかは知らないけど、誰もがそんなものさ」
彼女の頭をぽんぽんっと優しく撫で、
「むしろそれがいい。君のような人が怖いことに慣れておく必要はないんだ。だいたい、君を怖がらせてしまったのは俺だしね」
ライコウは叱るようにニックを一瞥し、視線を戻す。
「俺が言われるのは当然だけど、君が悪く言われる謂れはないし、気にすることはまったくないんだよ。だからさ……」
「だから……?」
顔を上げたマリアにライコウは悪戯っぽくニンマリと笑いかけ、
「意地悪な奴は、思い切り蹴飛ばしてやればいいんだ」
「……うん。うん。そうする。ありがとう」
にぱーっと笑い、元気を取り戻したマリアはニックに向かって振り返る。
彼女の表情は、ライコウに向けていた十代の少女らしい可愛らしい笑顔から、ちょっと恐い不敵な笑みに変わっていた。
「なあっ!?」ニックは思わず立ち上がる。
「調子に乗ってたってことは認めるし、反省もするけど……」
「ちょ、ちょっと、待ってくれ」
「今朝だって恥ずかしい思いをしたのに……こんなかたちで……またライコウさんの前で……よくもわたしに恥かかせてくれたわね……」
「わ、悪かったってば! えっ、あっ、ちょっと。マリアちゃんのマジ蹴りはマジ洒落にならないから……ひぃっ!」
「待ちなさいっ! 往生際が悪いわよ!」
バタバタと、ニックは必死にマリアから逃げるも、面白がる他の客らに妨害に遭い、食堂の隅へと追い込まれる。
そして、楽しげな笑い声に包まれるなか―――。
「おい、やめ、やめような? やめ……」
「お母さん直伝! 食・ら・えええっ!」
「う、わ、ああああっー!」
食堂内に響く鈍い打撃音と情けない悲鳴。
意地悪なニックは、彼女に思いきり尻を蹴飛ばされた。
◇◇
朝食を食べ終え、注文した紅茶を飲んでいると、隣に座るエリーが今日の予定について切り出してきた。昨日約束した通り、今日は一緒に街を巡る予定があるのだ。
「最初は教会に行こうかと思うんだ。その次はこの街の市場とか防具屋とか」
「教会?」エリーはキョトンとした顔で「何しに行くの?」
「まあ、野暮用があってね。そんなに長くはかからないと思うけど」
「そう。それじゃあ……」
早速行きましょうか。と言って立つエリーに続きライコウが席を立とうとしたところへ、盆を脇に抱えたマリアが現れた。
彼女はニックの尻を思い切り蹴飛ばした後、スッキリした様子で仕事に戻っていたのだ。因みに蹴られたニックはというと、仲間に両脇を抱えられ部屋に戻っていった。
「ライコウさん、お客さんだよ」
「客? 誰だろう」
「サファイアさんよ。あっちにいるから」
マリアの視線をなぞるように、玄関へと視線を移すと、そこにはサファイアがにっこり笑って立っていた。エリーに向かって小さく手を振っている。
「おはよう。昨日はよく眠れたかしら」
「おはよう。よく眠れたよ。ただ、睡眠妨害に遭って……」
「?」
「いや、別に何でもないんだ。それで、俺に何か用か?」
「ええ。ちょっと貴方にお願いがあるんだけど、いいかしら」
「お願い? 俺でいいなら別に構わないが……ここでは何だから、あっちで話さないか?」
と、ライコウは再び座り直したエリーのいるテーブルを指したが、サファイアは首を小さく横に振る。
「ありがとう。でもごめんなさい。ここで済む話じゃないの」サファイアは少し声を落とし、「今から貴方に支部所に来て貰いたいのよ」
「支部所に?」ライコウは少し眉間を寄せ、「なぜ……」
「支部長が貴方に会って話をしたいって言ってるの。……樹海の件でね。続きは支部所に着くまでの道中で説明するわ」
「支部長が……」
サファイアの突然の話に、彼は少し考える素振りをみせる。
(俺が樹海に入ったことが耳に入ったのか? いやいや、それでわざわざ人を迎えに寄越すとも思えないか……)
理由は判らないが、それならば、と考えを切り替える。
(もしかすると、昨晩のうちに支部の方で何か動きがあったのかもしれない。
今支部長に会えば、会話のなかで何かしらの情報が得られるかもしれない。得られれば、少しでも教会の手助けになる……か)
そう考え至った彼はすぐにでも了承しようとするが、ふっと、この後の約束ごとを思い出した。
「……分かった。行くよ」
「ありがとう」
「でもその前に。ちょっと待っててくれないか」
と、サファイアに一度断りをいれ、少し待っていてもらうと、すぐにエリーの元へと戻る。
会話する二人の様子をじっと見ていた彼女は、ライコウ越しにサファイアをちらり見て、「どうしたの? 何かあった?」と戻ってきた彼に向かって疑問を口にする。
「ごめん。急に支部長に呼び出されたらしくて、今は行けそうにないんだ」
「呼び出された? あなた、何をしたの……」
「別に何も。ただ、樹海の話をしたいらしい」
「そっか。ならしょうがないわよね」
帰って来たら改めて行こう。と話をつけつつ、エリーにひとつ頼みごとをする。テーブル下でじっと伏せているハクについてのことだ。
「こいつをちょっとの間、預かっててくれないか」
名を呼ばれたハクは、ライコウの顔を見つめると、キューン……と不満気に鳴く。ハクとしてはついて行きたいようだったが、そういう訳にはいかなかった。
ハクのような大きな狼では、いくら広いあの支部所でも他人の迷惑になり、無用なトラブルを招き兼ねないのだ。ならば昨晩のように、外で待たせればいいか、というと更に駄目だ。昨晩は三十分もない短い時間だったから良いが、今回もそうだとは言えない。
結局は、ここに預けておくのが一番無難な選択なのだ。
「良いわよ。任せて」エリーは快く了承し、「ハクちゃんはわたしが責任を持って面倒をみるわ」
そう目を輝かせて言う。しばらくの間、ハクを自由にできると知って喜んでいるようだ。彼女に限って悪いことにはしないだろうが、何かやらかさないか若干心配ではある。
((キューン……コウ……))
「ハク、くれぐれも良い子にしてるんだぞ。帰りに串焼きを買ってやるから」
((……分かった。良い子にしてる。たくさんだよ?))
「ああ。分かってる」
ハクに言い聞かせるように頭を撫でると、エリーに任せ、サファイアとともに宿を後にした。
「ハクちゃん」
たまたま姿を表した女将に部屋の鍵を預け、宿を後にするライコウとサファイアの二人の背中を見送ると、エリーはハクの視線に合わせるようにしゃがみこむ。
「大丈夫だよ~。お姉ちゃんがちゃんと面倒見るからね~」
「ワフッ」
「ふふっ」エリーは楽しそうに笑い、「あっ、そうだ。ハクちゃん?」
「?」
小首を傾げるハクの様子に、エリーは満面の笑みで告げる。
「ハクちゃん凄く獣臭いし、今からお風呂に入れてあげよっか」
宿泊する宿屋から離れ、サファイアと二人で昨晩通った支部所までの通りを歩いていた。
もうだいぶ陽が昇っているというのに、路地に行き交う人の数は疎らだ。昨晩とそう変わらないと言っていいだろう。
ライコウはふと疑問に思う。ここらは大通りと違って、いつもこんなにも少ないのだろうか、と。
「いいえ、違うわ。大通りもそうだけど、昨日より随分と減った方よ」
ライコウの表情から考えを読み取ったのか、隣を歩くサファイアはそう答える。
今日の彼女の服装は、ゆったりとした青のストライプシャツに、白ジーンズといった姿だ。美人でスタイルの良いサファイアにはよく似合う。
エリーや道行く人の服装もそうだが、この国の名産であるメソルドローズが咲き誇る、ほどよい暑さのこの時期にピッタリ合ったラフなスタイルだ。
「それはやっぱり樹海の影響が?」
「たぶんそうね。しばらくは続くでしょうね……」
そう寂しそうに答える彼女の横顔を見ながら、少し話題を切り替える。と言っても、結局は樹海に関連する話だが。
「それで……なんで支部長が俺に会いたいって言い出したんだ? 俺の友人知人に冒険者協会の支部長なんてお偉いさんは居ないぞ」
「ごめんなさい。実は……私が貴方のことを話したの」
「どういうことだ? なぜ俺のことを……」
「支部長と会ったときに説明されるかも知れないけど……」
そう言って、彼女は支部長に話すまでに至る大まかな経緯と事情を説明してくれた。ただ、詳しい話はここでは避けたいというので、『困った状況に追い込まれて、方々人員を探している』という旨だけが伝わった。
「なるほど、それでか。サファイアさんは俺が巨人を倒せるほどの魔獣を操る、優秀な調教師かなんかだと思ったんだ?」
「ええ、それもあるわね」
「合点がいったよ。……ただ、ひとつ疑問が残るな………」
「分かってる。なぜ支部長が会いたいって言い出したか、でしょう? 私から話を持ち出しておいてなんだけど、正直分からないわ……」
ここでサファイアは昨晩の父エメラルドとの会話のなかで、彼のことを知ってる風だったことを敢えて伏せた。
それは父が『今頃死んでいる』といった言葉と、ライコウが『友人知人に支部長なんて知り合いはいない』と言った言葉を受けてのことだった。双方ともに相手を知らないとも言えるので、言う必要はないと判断したのだ。
しかし、そんなことを知らないライコウは、否定するように手をひらひら振り、
「違う違う。そうじゃなくて」
「えっ?」
「なんでサファイアさんと支部長が食事に行ったのか、だよ。もしかして恋人?」
「っ!?」
サファイアはあまりの予想外の指摘に、驚きのあまりひどく咳き込んでしまった。その様子に彼は、あー、図星なんだー。という表情をとってしまう。サファイアは咳き込みながらも、必死に首を振って否定する。
「ちっ……ゲホゲホッ……ちがっ……ゲホッ……うの……」
「あー、いいよいいよ。俺あんまり他人の恋愛とか興味ないから。なんかごめ……」
「違うからっ!」
サファイアは顔を真っ赤にしながら、ライコウの腕をガシィッ! と掴む。掴まれた腕は、まるで大蛇に締めつけられているかのようだ。
このあまりの必死さと、龍人ならではの怪力にライコウは内心タジタジだった。
「違うの……違うのよ……」
「お、おう……」
「支部長はね、私の……」一度深呼吸して息を整え、「私の父なの。父なのよ。決して恋人とかじゃないわ」
「そ、そうなんだ。勝手に勘違いして申し訳ない」
「いいえ。ちゃんと説明しなかった私が悪いのよ。認識をちゃんと正してくれるならそれでいいわ」
ふぅ。と溜め息吐くサファイアに、ライコウは必死に笑いを堪えた。ここで笑ってしまえば、ほぼ間違いなくただでは済まないだろう。
とめどなく込み上げてくる笑いたい衝動をどうにか飲み込むと、ライコウは彼女に、親父さんはどういった人物なのか、と訊ねてみた。
これから会う人物だ。人物像くらいはある程度掴んでおきたい。
「どんな人? ということは貴方はここら辺の人じゃないのね」
「ああ。俺はファヌムから来た」
「ファヌム? そんな遠くから……いえ、いいわよねその話は」
えーっと、と言いつつ、自身の父についてこれまた大まかに語ってくれた。
「……といった感じね」
「凄いな。《都市守護者》……英雄か」
「ええ。私の自慢の父よ」
と嬉しそうに言う。紹介時も彼女は終始笑顔だった。娘に誇りに思われるなんて、彼女の父親は幸せものだ。とライコウは思った。
そうしてふと、疑問に思ったことを口にした。
「なあ、なんでサファイアさんの親父さんが英雄扱いされるようになったのか、聴いてるかい?」
「えっ? えーっとそれは確か」彼女は記憶から引っ張り出すように思いだしながら、
「三百年前、父が一介の冒険者だったころに、『津波』の防衛戦に参加したのが始まりなの」
「ふんふん」
「それで当時、『大津波』級に匹敵する……十万、二十万ともいわれた大規模な魔物の群れを、父が組んでいた七人のパーティのうち、たった三人で耐えきったの」
「ふんふん……ふん?」
「当時その三人は、身に纏っていた防具から、《黒紫の魔道士》、《白風の老剣士》、《龍青の鋼戦士》と呼ばれていたらしいわ」
「…………」
「その三人のうちの《龍青の鋼戦士》が……って。聴いてる? どうしたの?」
「あっ、いや。聴いてるよ。何でも、何でもないんだ。あははは……」
「?」
ライコウはサファイアに変に思われないように、冷や汗を隠しながら何とか取り繕う。そうして話を切り上げるように、前方に見える三階建ての立派な施設を指差した。
彼女の話を聴いているうちに、いつの間にか支部所のすぐ近くまで来ていたのだ。
サファイアは先に入り口の前に立ち、ライコウの方へと振り向くと、
「それじゃあ、ここから支部長の執務室まで案内するわね」
「ああ。よろしく頼むよ」
颯爽と支部所へと向かうサファイアに続きながら、ライコウは内心に抱く驚きを隠し通した。
彼は、左右に小さく揺れる彼女の美しい長髪のように揺れる己の心の動揺を抑えるべく、じっと彼女の背中を見つめていた。
(まさかまさか。サファイアさんは……マジか!)
彼女が口にした間違えようもない事実に未だ驚きながらも、
(これ以上のことは、これから会うだろう支部長から直接聞き出そう……)
と、そう心に決めたのだった。




