評定
北条氏綱の号令の元、急ではあったが小田原城内で評定が開催されようとしていた。既に多くの家臣達が着席する中、氏康は些か遅れて着席する。乳母子である清水吉政と話し込んでいたためだが、幸い最後ではなかった。
氏綱は氏康を窘めるかのように軽く睨みつけるが、口に出して注意はしなかった。無駄に遅れたのではなく、大方、吉政辺りと事前に話しあっていたであろうと分かっているのだ。氏康が千代丸と呼ばれていた頃のまま育ってれば、父や家臣達を怖れ、正確さだけを重視して誰よりも早く評定の場に来たであろう。
早いことは悪いことではない。
「巧遅は拙速に如かず」と、孫子も語る。
だが、時間ばかり早く正確なだけでは意味がない。事前になにも考えず評定に来るような愚鈍な者に北条家の嫡男たる資格はない。家臣なら節目の正しさも重要だろうが、氏康は北条家の嫡男なのだ。次期当主となる人物が思索の一つもできないような小さな男では話にならない。
遅れて来た嫡男に眉を顰める家臣もいたが、臆することのない姿勢を氏綱は内心評価していた。人からどう思われようとも、臆することのない胆力こそ武将には必要なのだ。
氏康が千代丸と呼ばれていた頃は臆病愚鈍と囁かれ、あまりの不甲斐なさに一度は廃嫡を考えたものだが、早まらずに良かったと氏綱は思う。我が息子ながら中々に良い男に育ったものだ、と。
全員が着席したのを確認すると、氏綱は家宰である松田盛秀に目で評定を開始するように合図する。
「各々方、急ながら集まってもらったのだが、今朝、川越に動きがありとの報があった。上杉朝興とは先代様の代より幾度となく刃を交え、今年の一月には小沢、瀬田の両城を奪われておる。これ以上の侵攻を許せば江戸城は孤立しかねず、分けても領有してから歳月を重ねていない南武蔵の諸豪族に侮られかねない。各々方、この度は是が非でも勝たねばならぬ戦である」
盛秀の声に一月の戦いで敗れた記憶を呼び覚まされたのか、家臣達に威勢の良い声が次々上がる。
(流石は盛秀、人の壺を心得ておるわ)
武勇では笠原や大道寺や富永等に後塵を拝すが、その能力を買って氏綱は盛秀を家宰に抜擢していた。
氏綱は今でこそ北条氏を名乗っているが、先代早雲公の頃は伊勢氏を名乗っていた。北条氏も伊勢氏も同じ平氏の流れを汲む一門ゆえ、北条氏とまったく縁がないとまでは言えないが、先代早雲公は関東には縁も所縁もない備中の出であった。
本来他所者であるが故に、坂東武者の中には毛嫌いする者が多いのは事実。そのための配慮が北条の名跡を名乗ることであり、盛秀のような人心掌握に長けた人物の家宰への抜擢であった。
戦に強いだけでは人は付いて来ない。戦の勝ち負けは兵家の常であり、戦い続ければいつかは負ける。戦の強さに惹かれたり武名の恐ろしさだけに付き従う者など、いずれ離れていく。
武に奢らず頼りきらず。
北条家は人の和を重視する一門で有り、人は石垣と語った武田信玄より遥かに固い絆で家臣達と結ばれていたのだ。家臣達の北条家との一体感、あるいは利益の共有化を図る観点から北条家では評定の場を重視していた。その配慮からか家臣の離反がほとんどなく、無駄に刻と力を浪費することなく東へ東へと勢力を伸ばして来れたのだ。
それこそが北条家の強さの秘密である。
「殿。此度の戦は、是非、この笠原信為に先陣をお命じ下され」
「出過ぎたことを申すな、信為。此度の大事な戦は御由緒六家の一人である、この大道寺盛昌にお命じ下され」
早雲の代から家臣である笠原、大道寺の二人が口火を切ると、それまで有力家臣に遠慮していた若い者達も次々に名乗り出る。
(流石、宿老。評定の流れを創るのが巧みだ。まあ、あの二人は半ば本気で先陣を争っているのだろうが、それでも有難い存在に違いない。御爺様は本当に良い家臣達を残されたものだ)
既に何度も評定に出ている氏康であるが、家臣達の活発な発言にはいつも感心させられる。自分も負けていられないと思い直すと、未だ語られていない重要な点を父氏綱に問い質さなければいけないと、自らを奮い立たせる。
いつであるなら叔父である北条長綱が、弟である気兼ねなさから問いそうなのだが、今日は何故か発言しようとしないのが少し気にはなった。
「父上。川越から打って出て来る者達と兵力は如何程でありましょうや」
評定の場が一瞬静まる。
決戦を意識する皆が気にはなっていたが、氏綱も盛秀も語ろうとしないので聞くに聞けなかったのだ。
「敵の総大将は当主、上杉朝興。従うは難波田弾正少弼忠行、上田蔵人政盛」
盛秀は語る。
朝興配下の家臣団の中でも音に聞こえた有力家臣の名。評定の場に集まった者達は皆思った。此度は決戦で間違いないと。
「その総兵力は五百余」
盛秀は間を置くとその兵力を告げる。
決戦を意識していた家臣達は、一瞬、なにを告げられているのか理解出来なかった。北条の総兵力は二万余、上杉は八千余。兵力差に倍ほどの開きがあり数の上では北条の有利は揺るがないが、上杉は江戸城を奪われはしたものの寡兵ながらよく持ち堪えていた。その策の一つが甲斐武田との同盟である。
北条の弱点は領土の広さからくる兵力の分散であり、上杉に限らず安房の里見もその点を突き、水軍を率いて鎌倉に強襲を仕掛けてきていた。
一敗地にまみれた里見は直ぐに動けないと思うが、甲斐武田は別である。領土拡大の野心に燃える武田信虎のことだ、横っ腹に襲いかからないとは決して言えなかった。此度は甲斐武田の抑えに兵を残さなければいけないことを考えても、少なく見積もっても半分の一万は動員できる。
まして防衛戦の理から、砦で戦うか野戦をするかはこちらが選べるのだ。
只でさえ倍の兵力差があるにもかかわらず、上杉朝興が率いる軍勢が五百とは、俄かには信じ難い。誰もが聞き間違いかと思ったが、家宰である松田盛秀に聞き返す勇気と資格がある者は少なかった。
場の空気を読んだ信為は、家臣達を代表する形で発言をする。
「盛秀殿。それがしは歳を喰いすぎて耳が遠くなっているもので良く聞こえなかったのじゃが、上杉朝興の率いる兵は五百で間違いないのですかな」
「信為、耄碌するのはまだ早いぞ。盛秀の報告に間違いはない。敵の兵力は五百だ。それも只の五百ではない。総兵力八千は下らない軍勢から、朝興が選りすぐりの家臣と共に率いる五百だ。その意味は分かるな、信為」
「ははっ」
多少の無礼を許されている信為だが、氏綱の語る意味を理解すると畏まって引き下がる。
そう、ただの五百ではない。勇猛果敢な坂東武者の中から選りすぐりの精鋭五百なのだ。
戦は数である。
誰もが理解する戦の真理だが、当主自らが精鋭とはいえ寡兵で討って出るなど余程の勝算がなければ出来ない行為だろう。胆力のなせる技なのか深慮遠謀の結果なのか。
氏康はおろか氏綱さえも、朝興の真意を測りかねていた。