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激突

 伊豆、相模の二カ国を領有する後北条氏は、初代北条早雲亡き後、二代目北条氏綱の時代に移り変わっていた。

 氏綱は数年かけ領国統統治体制を確立すると満を持して南武蔵へ進出する。

 武蔵を領有するのは扇谷上杉であり、氏綱の武蔵進出の号令は後北条氏と扇谷上杉氏との前面衝突を意味していた。その扇谷上杉だが、宅間、犬懸、山内と共に室町期に関東で名をはせた上杉一門の一派である。宅間、犬懸が没落する中、名将太田道灌を家宰に抜擢することで武蔵支配を確立していた。

 名将にして名家宰であった太田道灌死去後も扇谷上杉は武蔵支配を維持し続けている。多くの坂東武者を率いるその武勇は名門に恥ずるものがなく、決して侮る事が出来ない強敵であった。 

 伊豆相模を領有する北条氏綱ほうじょううじつな、武蔵を領有する上杉朝興うえすぎ ともおき。両者は一歩も引かない一進一退の死闘を続けていた。数においては後北条は倍の兵力を擁するが、勇猛果敢な坂東武者を率いる扇谷上杉は数は兎も角質においては負けていない。なにより今は亡き名将太田道灌おおた どうかんが残した遺産の数々が後北条の前に立ちはだかる。

 両雄の均衡が崩れたのは大永四年(1524年)一月十三日。

 高縄原たかなわはらの戦いにて扇谷上杉勢を撃破したときである。敗走する扇谷上杉勢は江戸城に撤退し、態勢を立て直そうとする。野戦に敗れても扇谷上杉勢には名将太田道灌が残した堅牢な城、江戸城があった。その地に籠れば形勢逆転とまでは行かずとも後北条氏の攻勢をやり過ごせる、と誰もが思った。

 そこでまさかの事が起こる。

 江戸城に逃れる扇谷上杉勢が目にしたのは、城に棚引く北条鱗の旗。主君朝興より江戸城の留守を任されていた太田資高おおた すけたかは、祖父道灌謀殺の恨みから朝興の居城である江戸城を後北条氏に売り渡したのだ。

 主君朝興に祖父道灌謀殺の罪は無い。だが殺された側の人間は代を重ねようともその恨みを決して忘れないものだ。否、それだけではないのかもしれない。同じく扇谷上杉に使える曽我一族への反発もあったのかもしれないが、いずれにしても上杉朝興は江戸に太田資高を残すべきではなかったのだ。

 ここに至っては止むを得ない。

 怒りにまかせ江戸城に攻撃をしかけても、高縄原から追ってくる後北条勢から挟撃されれば全滅するだけである。江戸城を護る城兵は朝興の兵より少ないが、江戸城は堅城な上に攻城戦の時間は無い。

 朝興は悔しさと憎々しさから、資高の居る江戸城を睨み付けるしかなかった。

 江戸を去る扇谷上杉勢が目指したのは、もう一つの重要拠点である川越城。川越城もまた名将太田道灌が残した遺産である。自分を裏切った太田資高の動機が道灌謀殺の恨みだとしたら、自分がこれから退く川越城も道灌所縁の地。この皮肉に気付いた朝興の胸にどのような想いが去来しただろうか。

 一つだけ確かなことは、川越城は道灌が築城の名手の名に相応しく、丹精込めて創り上げた堅城であることを朝興に示した点である。後北条は高縄原の戦いの余勢を駆って岩付城を攻略、一時は川越城に迫ったが落すことは敵わなかった。

 道灌の遺産は、確かに朝興の窮地を救ったのである。

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