天国からの新築祝い
「こんなところに四葉のクローバーが……」
新居に引っ越してきてすぐ、妻が「なによりお義母さんよ」と言って、ぼくの母の仏壇の荷を解き、きれいに掃除してくれている時のことだった。
隣りでダンボールを束ねていたぼくに、妻が一冊の古ぼけたノートを開いて見せた。
なにも書かれていない、その黄ばんだ白いページの上に、ちょうど押し花のようになった四葉のクローバーがあった。
「あ、このノートは!」
ぼくは、咄嗟に妻の手からノートを奪い取った。
四葉がひらひらと床に落ちた。
「あれ、なんかありそうね」
妻がそれを拾いながら、興味を示した。
「いや、楽しい話じゃないよ。今日は2人の門出の日だしさ」
夜、仏壇の前でゆっくりと思い出すつもりの話だった。
「なら、余計に聞きたいわ。あなたのことはすべて知っておきたいもの。門出の日にこそね」
「せっかくの新居が湿っぽくなるぞ」
妻は「どうぞ」という風に微笑んだ。
仕方なくぼくは話し始めた。
あれは、ぼくが小学2年生の時だから、いまから19年前のことになる。
キミも知っているように、ぼくの母さんは、ぼくを女手ひとつで育てていたんだ。ぼくの父は、ぼくが幼い頃にひき逃げ事故で亡くなっていたから。
当然、ぼくの家の暮らしはラクではなく、子供の頃、どこかへ出かけたり、おもちゃを買ってもらったなんていう記憶はほとんどなかった。
洋服もそりゃあボロボロなものを着ていた。その頃、古着ファッションっていうのが、たぶんもう流行っていたんだよね。だから、考えようによっては、流行の最先端だったかも。
「脱線はいい」
妻がいっぱいに開いていた窓を閉め、フローリングの床に正座した。
ぼくも放り投げていた足をあぐらに組んだ。
それでもね、母さんはやさしかったんだ。大好きだった。
いつも、夜はぼくをダッコして寝てくれた。ギュッて。
いまでも忘れられないなあ、あの母さんの温もり。
「四葉のクローバーを早く登場させて」
早くも涙腺の緩んだ妻が言った。
「ああ、ごめん、ごめん」
でさ、前にも話したけど、母さん、肺が悪くてさ。だけど、お金がないから病院にも行けなくて、家で内職とかしてたんだよ。
そんなある日、母さん、とうとう血を吐いて、倒れちゃって。病院に運ばれたら、緊急入院で。
母さん、親戚とかいなかったからさ。なんか近所のおばさんがいろいろやってくれて。
で、お医者さんが、ダメだって言ったんだって。そのおばさんに。
きっと、いい病院で手術とかすれば、助かったんじゃないかな。でもお金ないしね。
その時ぼくは、必死になって四葉のクローバーを探したんだよ。
おかしいよね。
でも、小学2年生のぼくに出来ることは、それしかなかったんだ。
お母さん、死んじゃやだ、死んじゃやだって。
病院の裏庭を一生懸命探したよ。
何時間ぐらい探したかなあ。
あたりが真っ暗になった頃、外灯の下でようやく見つけたんだ。
いまでも忘れないよ。あったー!って、叫んだこと。
これでお母さんは死なないって。
で、喜んで病室に行って、母さんに見せた。
母さん、苦しそうな顔してたのに、無理して、ニコリとしてくれて、ありがとうって。
大丈夫だよって。
「そうなんだ……」
妻がぼくの方を向かずに言った。
四葉のクローバーって、幸運のシンボルだろ。
でも、ぼくのなかでは、それ、不幸のシンボルだ。とにかく悔しかったなあ。
みんなの家は父さんも母さんも元気で、兄弟だっていて、おじいちゃんやおばあちゃんまでいる家もあるのに、ぼくはひとりになっちゃったんだからね。
なんで母さんまで奪うんだよって、憎んだよ、神様を。
それからぼくは施設に預けられて、荒れたんだけど、ここから先の話はすでに妻は知っていた。
「ありがとう。話してくれて。さ、掃除、掃除と。がんばらないと飯抜きだぞ〜」
妻は立ち上がると、洗面所へ入って行った。
それにしても、よくこんなにきれいなまま、残っていたものだ。あれから何度かこのノートを開いたけど、こんな後ろのページに挟まっていたとは……。
ぼくは、四葉のクローバーをいろんな角度から見て、あの頃のことを思い出した。
特別に病室に折りたたみ式のベッドを置いてもらい、母さんの横で暮らしたこと。
病室から学校へ通ったこと。
看護婦さんがみんなやさしくて、ぼくにたくさんお菓子や果物をくれたこと。
母さんがぼくのこといっぱい触りたがったこと。
頬擦りばかりして、いつも最後は頬が涙で濡れたこと。
そして、この四葉のクローバーが母さんの病気を治してくれると信じていたこと……。
母さんは、ベッドの横にいつもこのノートを置いて、ぼくにいろんなことを書き残してくれていた。
そのノートに四葉のクローバーも大切に挟んで、「息子が探してくれた宝物なの。私もこれ見ると、治りそうな気になれる」と看護婦さんにうれしそうに話していた、その時の笑顔こそぼくの一番大事な宝物になった。
ぼくのしたことがこんなに喜んでもらえて、すごくうれしかった。
それでも、母さんは死んだ。
ぼくが学校に行こうとすると、いつもよりいっぱい頬擦りして、いつもよりいっぱい涙を流して、母さんは「ちゃんと勉強してくるんだよ」って、ぼくに言って、昼ごろひとりで逝っちゃった。
ぼくが学校から呼び戻された時は、霊安室に寝かされていた。
四葉のクローバーはぼくを裏切った。
それからぼくが接した大人たちも、ことごとくぼくを裏切った。
だからぼくは荒れた。
立ち直らせてくれたのは、このノートだった。
あるページが、「ごめんね、ごめんね、ごめんね、ごめんね……」と、一面に書かれた母さんの「ごめんね」で埋め尽くされていた。
母さんの人生は、散々苦労して、それでも最後まで息子のぼくに謝りつづけなきゃいけない、そんな人生だった。
ぼくが大人になろうとしていた頃、このノートを開いて、ぼくは幸せになることを決意したんだ。
ぼくが幸せなら、母さんはぼくに謝る必要なんてないから。
それからぼくは新聞販売店で住み込みで働き、夜学に通って、大学を卒業した。
まだ小さかったIT企業に就職し、いまでは曲がりなりにも取締役という肩書きが付いている。
よき伴侶も得て、新居も建てることができた。
待ってて、母さん。掃除が終わったら、大好きだった霞草を山ほど飾って、ちゃんとありがとうって言うからさ。
ぼくは、母さんの遺影にそう話しかけた。
「ね、ね、あなた、ちょっと来て」
妻の声に、ぼくは庭に下りた。
「ジャ〜ン」
妻の手の平に、四葉のクローバーがあった。
「いまそこで見つけたの。今度こそ、幸運のシンボルよ」
まだ造成したばかりの土が剥き出しの庭なのに、ちらほらと雑草が目立ち、クローバーの一群もあった。
「あっ!」
ぼくも目をやった瞬間に四葉を見つけた。
「どうやら我が家は幸運がいっぱいのようね。お義母さんからの新築祝いかな」
初夏の澄んだ青空を見上げて、照れながら妻がそう言ってくれた。