ホワイトクリスマス
何年かぶりに雪が降った。
地球温暖化がどうのこうのとテレビニュースで取り沙汰されてから、雪らしい雪など降らなかったのに。
「…冷たい」
直接手のひらに乗せれば、舞い落ちる白いかけらは透明なしずくに変わる。
彼女は街を歩いていた。目的地はない。
周りにはカップルが溢れ、降り出した雪に誰もが星空を仰いでいた。
「ホワイトクリスマスだね」
「珍しい」
「綺麗」
「道理で寒いわけだ」
「あたたかいものが食べたいね」
周りから溢れる声、こえ、コエ。
彼女の耳に入り込んでは解体されていく会話の数々。
「…寒い」
周りの温かさに、自分の冷たさがより際立っている気がして、マフラーを巻きなおす。
だが、冷たいと感じるのは体温だけではなかった。
彼女にとって、クリスマスは楽しいばかりのものではない。
一人で過ごすクリスマス、という寂しさ以上に、彼女にとってクリスマスは、後悔と悲しみに満ちた一日だった。
気付けば彼女は、街の中心にある広場に来ていた。
広場の中央には毎年雑誌で紹介される大きなツリーが、今日を最後とばかりに輝いている。
今年のイメージカラーは赤。イルミネーションやオーナメントも、赤を基調に装飾がされている。
ツリーの周りには恋人を待つ者や、二人でツリーを眺め寄り添うカップル、ケーキらしき白い箱を下げ帰路を急いでいるサラリーマン、楽しげな家族連れ…誰もが幸せに満ちているように見えた。
その中で、彼女だけが表情なくツリーを見上げる。
「あの時も、このツリーは赤だったね」
このツリーは毎年色を変える。去年は青、その前は黄色だった。そのずっと以前、ツリーの色が赤だった年に、彼女は恋人と離れ離れになった。
彼が仕事の関係で、三年を海外で過ごさなければならなくなったのだ。
彼女も職を手にしていたので日本を離れることはできず、必然的に二人は長距離恋愛を続けることになった。
初めは頻繁に交わしていたメールも、時間が経つにつれ間があくようになり、お互い仕事が軌道に乗り始めて時間が合わなくなり、すれ違いが何度か起きた。
それでも二年は続いていた。その時もまだ大丈夫だと、まだ我慢できると思っていた。
二年目の冬、ちょうどクリスマスのその日に、彼からあと一年では帰れそうにないと言う連絡が来るまでは。
終わりの見えない状況に、彼女の心が先に折れた。
もう待てないと、泣きながら訴えた。
彼は静かに、分かった、とだけ告げた。
そして二人の関係は終わった。
その時から彼女は仕事に全てをかけた。できるだけ何もない時間を作らないようにした。空いた時間ができれば、きっと彼を思い出す。自分から手放したのだ、未練は見せまいと、彼女はただひたすらに仕事に没頭した。
それでもふと我にかえったその瞬間、頭に浮かぶのは彼のことだった。
「…こんな私を、あなたは笑うかしら」
海の向こうにいるかつての恋人。本当は待っていたかった。お帰りを言いたかった。でも、できなかった。
彼は今頃海の向こうで新たな恋人と過ごしているのだろう。あれから何度かの冬が過ぎた。彼が未だに独り身であるとは考えにくい。
だからこの想いは消してしまわなければならない。一方的なこの想いは、彼には迷惑以外のなにものでもないのだから。
「…この雪みたいに、溶けて消えてしまえばいいのに」
そうすれば。こんなにも苦しむことはない。
それなのに、想いは溶けることなく降り積もる。まるで作りものの雪のように。
「…ごめんなさい。一方的にあなたを傷付けた。私のわがままで。許してとは言わないから、どうか幸せになってね」
届かない願い。届かない言葉。
それでも彼女は口にする。まるで自分に言い聞かせるように、ツリーを見上げながら小さくつぶやいた。マフラーの下から響くくぐもった声は、周りには響くことなく、彼女の中に落ちていった。
こらえていた気持ちが膨れる。イルミネーションが目に染みて、視線を下げた。
「それは無理だよ」
用事は済んだと帰ろうとした彼女に、その声は響いた。
信じられなくて、俯いた顔を上げられなかった。
「だって、隣に君がいない。…なんて、ちょっとクサすぎるかな」
変わらない声の色、変わらない言い回し。
分かっているけれど、それでも信じられず、恐る恐る顔を上げた。
そこには、以前と変わらぬ彼の笑顔があった。
「……なん、で」
「だって、待てないって言ったから」
ドキリとした。彼を傷付けたひと言。彼に非はなかった。ただ自分の心が弱すぎただけ。
彼女は、彼が自分に最後の言葉を告げに来たのだと思った。よくよく考えたらちゃんとした別れの言葉を交わしていない。
「ごめんなさい。あなたが悪かった訳じゃないの。私が弱かったの。だから…」
これ以上彼といられない。視線をそらして彼女は彼から遠ざかるように後ずさる。
一緒に居れば、消したはずの想いがまた溢れてしまうから。
少しでも早くここから立ち去ろうと言葉を重ねた彼女に、彼は慌てて待ったをかける。
「ちょ、ちょっと待って!」
後ずさりかけた彼女の手を掴んで彼は彼女を覗き込んだ。
「僕は別れ話をしに来たんじゃないんだよっ! ていうかさっき僕が言った言葉、もしかして聞き流されてる?」
きょとんと彼を見返した彼女に、彼はため息とともに繰り返す。
「だから、君が隣にいなきゃ、僕は幸せになれないって言ったの。何で大事なところ聞いてないんだよ…」
結構勇気がいるんだぞ、あのセリフ。
小さな声で拗ねるように繰り返す彼を、彼女は信じられない思いで見返した。
「何で…だって私、酷いこと言ったのに」
茫然とつぶやいた彼女に、彼は姿勢を少し正した。
「酷いこと?」
「待てないって」
「あぁ、それ」
彼女がずっと気に病んでいたのはその一点のみだ。あの時電話の向こうから聞こえた声が、酷く切なげだったから。
けれど彼は違った。
「当然そうなるだろうとは思ってたし、ならなきゃおかしいよ。僕の勝手で君に無理させてたんだし」
「無理じゃなかった!」
彼女は吠えた。
確かに距離があるというのはとても不安だった。彼が変わってしまうことも、自分が変わってしまうことも怖かった。離れ離れでいる間に、自分は彼の好きだった自分ではなくなってしまうのではないかと、そう思うと怖くて怖くてたまらなかった。
だが、無理をしていたのではない。相手が彼だから、自分が頑張りたかっただけなのだ。
「違う、ちゃんと待っていたかった。帰ってきたあなたにお帰りって、言いたかった。ずっと大好きでいたかったし、好きでいてほしかった」
わがままなのだ、全て。自分の。
だからこれは、彼に無理をさせられていたわけではない。
「…それでも、待たせてる僕からしたら、やっぱり押し付けてる気がしてならなかった」
「そ…」
「聞いて。…いつか、君から言われるのを待っていたんだよ、心のどこかで。早く帰ってきてって。会いたいでもよかった。そうすれば僕は何をしてでも君に会いに行けると思ってた。でも現実は違ったんだ。君は待てないと言った。僕は全てを投げ出して君に会いに行けなかった。ずっと後悔してた。何であの時、日本に飛ばなかったんだろうって」
困ったように彼は笑った。難しいねとつぶやきながら。
「日本に帰ってきて、君の姿を見ておきたかったんだ。あれから君がどうなったかが気になってたから。本当は年が明けてからにしようと思ったんだけど…偶然そこで見かけて、我慢できなくなった。君に新しい人がいれば身を引くつもりだったよ。あれから連絡取ってなかったし、君を狙ってる連中を知ってたから。でも、さっきの言葉を聞いちゃったから」
幸せになってと言った。それはまだ、彼を嫌っていないからこそ出てくる言葉だ。
「なぁ、僕は自惚れても良いのかな。…君がまだ、僕を好きだって」
否定はできなかった。
なぜなら彼女も、彼と同じだったから。
「うん。…うん、いいよ、自惚れていいよ。ずっと、あれからもずっと、一人の時に思い浮かべるのはあなただったから」
忘れたくても忘れられなかった人。消したくても消せなかった想い。
「何だか僕ら、すごく遠回りしたみたいだ」
照れたように微笑む彼に、彼女は溢れる涙をこらえきれなかった。
積もるだけだった想いは風を受けてしずくに変わる。
それはまるで、春風に雪が溶けていくように。
クリスマスも終わり間際になってしまいました。
いかがだったでしょうか。
作者はこんな話が大好物です。
少しでも楽しんでいただけたのなら幸いです。