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作者: 小竹是助

最初は小さな罅割れだった。




夜にキシキシという音が耳に入った。

何かをひっかく様な音。


ソファーに座り、先ほどまで見ていたテレビを消した所、その音が耳に入ったのだ。


「何…」


塔子は小さく自答する。

一人で暮らして三年。

今更誰がいるわけでもない事はわかっている。

だが、自答せずにはいられなかった。


「キシキシキシキシキシ」


どこから、どこからこの音はするのだろう。

クーラーの音以外、部屋に聞こえるものはない。

よく耳を澄ませば、冷蔵庫のモーター音が聞こえるかもしれないが、よほど耳が良いわけでもない。

ではこれは何の音。

出所を探すように、首をひねる。


壁だ。


出所は壁なのだ。

キシキシと軋んだような、ひっかく様な、耳の奥に残って剥がれない厭な音。


築30数年を経ているマンションの一室の白壁は薄く汚れている。

だが、あんなもの、あっただろうか。

小さな、罅割れ。

ソファーから立ち上がり、壁を見る。



壁だ。

あの罅割れ、いつからー。



「目が、あったそうだ」

便利屋の三縄耕平は、同僚の水谷洋次郎にそう告げられた。

部屋に向かうマンションの階段を上りながら、三縄は振り返る。

「目、って、壁からか?」

そう、声と共に頷いた水谷の顔を思わず覗きこんだ。

鼻がかすりそうな位置で、嗤う。

「そんな訳ねぇだろ、壁だろ?そこ死体でもあったっつーのかよ」

「朝になったら何もいなかった、でも確かに、そこから、目が視ていた、そうだ」

まぁ、と、水谷は三縄の隣を通り過ぎ、薄く白さが抜け始めた壁を掌で叩いた。

そこには何もない。

罅割れ一つ。


依頼人は25歳、波根 塔子、三縄の好みからいけば、かなりの角度で範囲内である。

黒の肩口程の髪を束ねているのは、飲食業だからだろうかー、目は大きくぱっちりしていて、可愛らしい。男好きそうなぽってりとした唇は、そんな彼女の部屋に行けるーという三縄の心を弾ませたものだ。

写真一つでここまで盛り上がられる三縄に、水谷の冷たい視線が一緒についてきたのだがー。


彼女からの依頼はこうだ。


「壁のひび割れを治して欲しい。」と

管理会社はあてにならないと繰り返す依頼人は、この「罅割れ一つない壁」を指さしてこういったのか。


「割れて、割れて、割れて割れて!一杯覗いているの、たくさんの目が」


依頼を受けたらそれを直しに行くのが仕事であるが、これはもう本分ではない気がしてならない。

三縄は水谷の方を向いた。

「依頼人、俺たちより、精神科を進めた方がよかないか?」

壁には罅割れなど一つもない。普段から余り表情のない水谷を振り向くと、片眉が跳ねていた。

腕を組み、何かを見ている。

壁の隅だ。

染みが薄らと浮かび上がる、ただそれだけの壁。

「目々漣…?いや…どうだろう」

「彼は一つ目で」

「二つ目で」

「怪異だ」

「石燕の言葉を見れば、碁盤の目、しかしあれは洒落かね」

どちらかと言えば無口の部類に分類される水谷が言葉を重ねて重ねて行くことに三縄は思わず口をあける。

あけたまま一言も発せないまま、白い壁を見やった。

勿論そこには、何もない。

水谷もそれに気が付いたのか、三縄を見れば、そうか、見えないんだな、と囁くように言う。

一人納得をしたまま、三縄の右側に立てば、手を伸ばした。

状況に追いつけるはずもない三縄の左耳を何も言わずに思い切り引っ張る。

「って?!お前、さっきから何…を…?」

頭から、滲むような感覚が這いより、三縄は声を止めた。


それは、目。


壁のあらゆるところからはみ出て覗く「目」「目」「目」「目」「目」「目」「目」

そして、足元の、目。


「左側は死の世界、右側は生の世界。」

言葉など発せられるわけがない。

足元を這う目の数にただ、恐怖する。

芯が冷えた。

足元から、現実感が覚めていく頃まで、胸の奥をわしづかみにされた小鳥のように、全く動けなかった。

「目目連か」

だから水谷の声が聞こえた時、ぎょっとした。

こんな状態で喋れるのか、と。

応えはない、当たり前だと、三縄は思う。

「二つ目か」

また声がした、何のことか意味がわからずに、ただ、必死にこの時が去るのを待つ。


異常、が最初の壁に戻った時に、漸く息を吐く。

それまで息すら、失っていたのだ。

額から、汗が噴き出て、零れて落ちる。

皮膚から、湧き出たようにすら感じる程の急速に訪れた現実感に、腰が抜けかけた。

水谷の手のひらが、自分の肩を支えていたのに気が付かないほど。

刹那、制服の胸ポケットに入れていた携帯が振動を発した。

「…ぉ」

口から出たのは力の抜けるような声で、慌てて、まだ自分の思い通りにいかない体をもたつかせながら着信元を確認すれば、社長からだ。

「はい、三縄…です、はい、はい?…はい。わかりました。」

水谷はいつの間にか三縄に距離を置き、今は何もない壁を撫でている。

三縄は電話を切り、息を吐いた。

「依頼人が倒れたそうだ」



皿を一枚洗うたびに、疲労した。

いつもなら、こんな事気にならないのに。

仕事先の厨房で塔子は息を吐く。


大丈夫、家に帰ったらあの壁の「ひび」は直っているはず。

管理会社に何度も訴えたのに、「壁にひびなんてありません」という。

どうしてーどうしてそんな風な嘘を吐くのだろう。


罅が直れば晴れやかな気分になれるのに。


そうしたらー、戻って来るんじゃないの。


掌を見ると、あかぎれが出来ていた。

こんなところにー、飲食業だから、仕方ないとは言え、いやなものだ。

昔はできなかったのにー。

掌の節と、節、指の関節の間。


あの、罅割れーそっくりに。





そう思ったその隙間から、目が覗いていた。



「それで…私、気が付いたら…」

依頼人の顔は白に近かった。

もう声にならないー、そう言った風がにじみ出ている。

部屋に戻っても壁を見ようとしない依頼人に付きそえと社長から連絡を受けた三縄は、一人だけの恐怖はもう嫌だと、水谷を引っ張って部屋に同室させていた。

社長からは一人でも良い、と言われたものの、三縄が耐えられなかったのだ。

「あれは、何なのでしょう」

声は思ったより確りしていたが、抑揚のない、酷く沈んだ様子が伺え、疲労の深さを知る。

一度、あれを見ただけの三縄が「この部屋に一人で居たくない!」と思うのだ。

この部屋で毎日「アレ」を気のせいかも、と思いながらも視界に入れたりしていたら、これだけ疲労していくことだろう。

「…1か月程…前の事でした。アレが見えるようになったのは」

彼女の話によれば、アレは一か月程前から、部屋の「罅割れ」に顕れるようになったそうだ。

最初は、幻かと思う程度。

徐々に視界にうつるそれは「疲れているから」の許容を割って出てき、そうして「顕現」した。

「気が…狂ったのかと思って、精神科に通院もしてみました。でもー薬を飲んでも見えるのです」

気を、強く持てばー何も考えなければ


「切欠は?」


水谷の声に彼女が顔をあげた。

はい?と答える依頼人に水谷は、その冷静は目で、静かに見返した。

きっかけ、と再度問われると、今度は少し考える。

何かを思い出すようにー。

切っ掛け、と問われても、人と言うものは思い出せない事が多い。

その日常的な仕草を始めたのは、いつでしたか?と言われて覚えている事の方が少ないだろう。


だがーこんな特殊な現実の始まりなのだー


「覚えて…いません」

「…通り物の時は全く貴方に縁がない場合がある、でもーあれは」


「貴方を見ている」


ヒっと小さな声をあげた依頼人が顔を覆った。

水谷はずっと壁を見据えている。その眼は動かない。

切っ掛けがない場合があるのかー、三縄は別の意味で怖くなった。

切っ掛けがなくても、こんな事に、巻き込まれる可能性があるのだと。

日常が密やかに壊れて行く切欠が、ない、それは、とても怖い。


「だがあなたは今「覚えていません」と言いましたね。「知らない」ではなかった。…思い当たる事があるんじゃないんですか?」


三縄の恐怖を気にもーいや気が付いていないのかもしれないがーせず、水谷は言葉を続ける。


「…一目、見たい、とー…」


依頼人の言葉は、端的でーそれでいて、切なくーなのに、妙にのっぺりとしていて、無感動だった。


「あの人を一目見たかっただけなの。」

「毎日、毎日帰りに後をついて帰っただけ」

「傍に居たくて、傍に居たくて、あの人が持っているものを知りたくて」

「何もかも小さな事でも」

「それで、私、」


「ゴミを」


「漁ったのか」


続いたのは水谷の言葉だった。

水谷の言葉は普段の調子と何も変わらない。

だが、静かで、拒否権が存在しないように感じた。


「…それで、見られてー」

「あの人に、そんな姿を見られて」

「見られてしまった」

「しまってー」


言葉が断続的に途切れる。

両の手のひらを上に向け、小さく手を震わせる依頼人を三縄は茫然としてみていた。

怖いー、得体が知れなくて怖い。

そう思ったのだ。

同じ人間として理解できない対象に出会った時の怖さ。


「自分がいけない事をしているとわかっていましたね、では、大丈夫、その眼は消えます」


水谷の伸ばした掌が、上を向けていた手のひらにかぶせられた。

依頼人が酷く疲れた顔をして、頷くのが三縄に見える。

何が行われているのか、何も見えない。

だがそこに、確かに「あの時」見たような光景があるのかと。


水谷の掌が、彼女の手のひらの上から一つ撫でるようにして引く。

また、片方の手のひらも。

依頼人は暫くその光景を見ていたが、無感動な、無表情なまま、涙をこぼした。

最初は、一つ、二つ、数えきれないほど掌に落ちて行くのを、水谷は最後まで見つめていた。



「まぁ、これで彼女はもう、目が視えるとは言わなくなると思う。」

水谷があれから暫く彼女と話して落ち着いてから、二人は部屋を後にした。社用車に乗り込めば、差し込む夕日が目をさす。

昼の喧騒からゆっくりと夜に傾く時間帯。

「結局あれは何だったんだ?」

水谷はその言葉に暫く黙った。

それからちらり、と横目で三縄を見ると口を開く。

「怖かったろう、彼女が。」

図星だった三縄の表情を見てとれば、水谷は言葉をつづけた。

「得体のしれない理解できない何かを見ているようで。自分の持っている常識の範囲外、そんな事ありえないと思っている部分の何かに踏み込んでしまった人を見た時ー怖いと思うのは人間当たり前だ。漠然とした不安の中には「もしかしたら自分もそんな事をしてしまうかもしれない」という根幹的な恐怖も含まれているしな。今回彼女が「見出した」または「見出してしまった」 あの怪もそう言う事だよ。」

早口にも近い、低い声を聴いた三縄が、追いつけない思考で水谷を見る。

視られた水谷が少し笑った。

「人からの奇異の目」

「愛してしまった人をいつまでも視て居たかった彼女が、その愛する人から奇異なる目で見られる、という現象に呼ばれたんだよ。彼女が視る度に、一つ、また一つ、ストーカーされていた相手に募っていった思い、それが全部自分自身に向いたんだ。それが怪の正体。目、という対象が形になって、怪異となった。ただ、彼女の思いだけで形成されたものでなくて、そこらあたりに居た、そう言う部類が彼女の「少し」の隙間に入り込み、気持ちを増長させて、あぁなったんだろう。…真怪を見極めた後に残るのは、愛するものを思う切ない気持ちだけだ。それも、やがて常識の範囲内に収まる。…どうした。」

水谷に問われ、少しだけぽかんとしていた三縄が、我を取り戻したように、首裏を撫でた。

「……あ、いや、お前も笑うんだなぁと」

「………お前、今晩ラーメン奢れよ。でないともう一回「アレ」見せるぞ」

水谷が、三縄の言葉に普段のムスっとしたようにも見える表情に戻ればシートベルトを着用する。

「あっ、って言うか、アレってなんだったんだ、あんときビビッてアレだったけど、アレって、アレなの?」

「…俺にはお前が一番謎だよ。」

三縄の能天気な言葉に呆れたように水谷は息を吐いた。


日常の区切りはどこにもないー、そこかしこに、怪異の隙間は空いている。

そう、今、貴方の後ろにも。

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