5.先駆け投資
二人が食べるゆずすば、私もすりおろしたのをつけて食べたことがあったので参考にしています。
これからもっと暑くなるので、冷たいおそばがおいしい季節ですよね♪
(初回掲載日6月27日19時)
「お待たせいたしました。」
先ほどオーダーを取りに来た奥さんと、もう一人の女性によって運ばれてきたおそばが盛り付けられた膳がテーブルの前に置かれた。
私が頼んだのは冷たい方のおそばに特性のつゆに摩り下ろしたゆずを漬けて食べるおそば。
社長が頼んだのは天ぷらつきのゆずそばだった。
さっき奥さんが言っていた、ゆずが練りこまれたおそばだろう。
色も風味もゆずのいい香りがしている。
同時に運ばれてきたので、社長と揃って食べることができた。
「「いただきます」」
一口食べただけだったけど、おいしい。
う~ん、やっぱり値段はうそつかないか。
普段コンビにとかで買って食べるおそばも普通にはおいしいんだけど、やっぱりこいういうお店のおそばはさらにおいしかった。
打たれたばかりのおそばは弾力があって、もちもちとしていて、それでいてのど越しがいい。
こんなおそばを食べて味を覚えてしまったら大変だ。
もう普通のコンビのおそばなんて食べられなくなる。
そのくらい目の前のゆずそばはおいしかった。
店内はファミレスのような賑わいはないが、他の席の話し声が聞こえる。
そんな中、私たち二人の間に会話はない。
あるのはそばをすする音だったり、社長が食べているてんぷらの衣のばりっとした音だけ。
二人とも特にに会話のないまま食べ始め、中盤に差し掛かったころ。
「柳井はどうしてうちの事務所の入ったんだ?」
社長から発せられた問い。
二人の間にそれらしい会話がない今、社長が何かの質問で会話を計ろうとしているのも当然の流れだと思う。
この人にその質問を聞かれるのは二回目だった。
社長は覚えてなくて当然だけど、二年前の最終面接でも聞かれて答えたその質問。
面接でありがちな『志望理由は?』ってやつで、今回は世間話の一つとして聞かれるかなって思っていたけど。
想定内の質問には想定どおりの答えで返答した。
「前勤務していた会社は…残業時間も多くて勤務が大変だったので。」
「ということは、業種全然違うよな?」
「そうですね。以前は商社でしたから。」
「なに扱ってたんだ?」
「私が担当していたのは主に服飾に雑貨系です。」
「へー、うちとはずいぶんと畑違いだな。それでどうしてうちの会社だったんだ?」
「…たしかに全然違いますけど、いけませんか?」
どうしてと聞かれて返答に困った。
『あの会社以外ならどこでもよかった。』
それがシンプルな答え。
だからってそんなことを言う気はなかったし、なによりもそれ以上聞かれたくなかった。
だからあえて『いけませんか』と質問を打ち切るように言えば、その後誰だって『いけません』とはいえないことを見越しての台詞。
それでも社長は気になるらしく理由を問う。
「いけないなんてことはないが…しかし、どうしてうちだったのかって聞いてもいいか?」」
「…。」
それは業種の違いを不思議に思う疑問?
社長に対して下手なことを答えて職を失うようなまねはしたくなくて、返答に躊躇った。
「素直に答えてくれて構わない。これは面接じゃないからな。ただの会話の一つだと思ってくれたらいい。」
「雇用保険の手続きでハローワークに行った時たまたま紹介されたので。」
履歴書にウソを書いたわけでも、聞かれたことにウソをついたわけじゃない。
どれもすべて本当のこと。
そこに付加する理由がすべてではないだけ。
仕事とプライベートなことは別物。
前職のことをもっと色々と聞かれてもうまく答えられると思う。
でもまだ聞かれたくないって思いだけは私の中にありつづけていて。
それはきっとまだ自分の中ですべてをうまく消化しきれていないから。
二年経った今もまだそれは‘なごり’として、心の中に存在している。
それはきれいな思い出になんてなりきれず、じわじわと痛みを伴うような余韻のなごり。
「そうか、そういうご縁だったのか。」
「はい。」
「そういえば、そのころ事務の女の子が寿退社で辞めるからハローワークに募集を出すと安田が言ってたな。」
社長はそのころのことを思い出したのか、独り言のように呟いた。
わかってる。
過去なんて引きづりたっていいことなんてない。
彼より幸せにならなきゃあのときの自分がみじめだもの。
だから、あのとき一つだけ決めたことがある。
彼のせいで自分が不幸になったなんて絶対思わないって。
だってそんなこと思ってしまったら、その瞬間から私は彼に負けたことになるから。
それからしばらく二人の間に会話がないまま食べ終えると、お店を出た。
レジでは当たり前のように二人分の支払いを終えた社長に、駐車場に向かって歩く途中でもう一度聞く。
「社長、私本当にお金払わなくてもいいんですか?」
「なんだ、まだ気にしてたのか?」
「社長に払っていただく義理もありませんし、私デザイン部署でもないので…。」
私の答えに足を止めた社長はこちらを振り返り言った。
「きみは知らないのか?言っておくが、これは別に俺の趣味でもましてや慈善事業でもなんでもないぞ。これはな、俺による俺の会社への先駆け投資なんだよ。」
「先駆け投資ですか?」
「あぁそうだ。きみは人事の安田にお供係りとして選ばれた。だから俺はきみに先駆け投資をする。それだけだ。」
「選ばれたというか、去年あらたに入社した人がいなかったそうです。それで遡ったところ一昨年入社したのは私だけだったそうで。…それに私歴代の方たちのようにデザイン部署でもありませんし。」
「さぁな。そこは俺も安田に聞いてみないとだが…。とにかくこの件に関しては俺は安田に全権を一任してるんでな。文句があるなら直接安田に言え。」
「文句なんてありません。でもさっきの社長の先駆け投資って言う言葉を聞いて少し安心しました。
単に社長におごっていただくだけではいやだったので。でもそういうことなら、私にできることでがんばります。」
そう言うと、社長はフッと笑った。
「きみは律儀なんだな。先週飲みに行ったヤツとは大違いだ。あいつに遠慮なんて言葉はなくてな。俺より高いメシを遠慮なく飲み食いしやがって。きみを見習わせたいよ。」
「あのそれって?」
ヤツというからには男の人のことだろう。
もしかして社内の人だろうか?
「安田だよ。あいつ俺の大学の後輩なんだ。」
「えっ、総務の安田部長ですか。」
新事実発覚。
二人って先輩後輩の仲だったんだ。
あっ、もしかして…。
社長がこの件を全権安田部長に一任してるのってそういうこと?
「社長は随分と安田部長のこと信頼してるんですね。」
「なんといっても二十年近い付き合いだからな。お供に関しての人選はあいつがランダムに選んでくるんだが、なぜかはずれがないんだよな。まぁ、そういう意味ではあいつの人選を信頼してるってことなんだろうな。」
どうして安田さんがわたしをお供係りに選んだのかしっくりしない点も多いけど。
こうして、私の社長のランチのお供係り初日は無事に終わった。
そして、私と社長は車に乗って、店を後にした。
次話もお楽しみに♪
次はあの人登場。さてだれだ?