【三題噺】誰もNを知らない。
「私のことはNって呼んで」
蝋燭の明かりの向こうで白い顔がそう笑った。
口が三日月のように弧を描く。
地下室へと続く階段は暗く湿っていて、いつ足を踏み外すかと気が気ではない。
僕は振り返ってみせた彼女に投げやりに返事する。
「なにそれ、窒素のこと?」
高校になってから覚えた原子記号表を思い出す。
あの頃は毎日が10円ガムだった。
つまりは、小さな当たり外れに一喜一憂する毎日だったということ。
そんな例えをしたら、旧友に大爆笑されたが。
「窒素?そんなのちっとも知らないなぁ」
げらげらと品のない笑い声が、階段に反響して不気味に響く。
蝋燭のぼうっとした光が、彼女が体を揺らす度に揺れ動いた。
それが妙に不快で苛立たしくて、声を尖らせる。
「いいから、早く進んでくれ」
「はいはーい」
彼女はまたくるりと前を向くと、スキップのような軽やかな足どりで歩き出す。
後ろをついていく僕のことをまるで忘れたみたいに。
小さい頃に読んだ絵本。暗い森に迷い込んだ小さな兄妹の話。
そういえば、あの2人はあの後どうなったんだっけかな。
彼女の後をついていきながら、そんなことを考えた。
「ほら、ここよー」
ぼやけた炎に照らされたのは、古びた扉。
彼女は僕に蝋燭を渡すと、じゃらりと鍵束を取り出す。
変な形の鍵ばかりが20本ほど、鈍く光る。
「えい」
やる気の感じられない掛け声で、彼女はひとつの鍵を選びだし、鍵穴に差し込む。
カチリとこれまた呆気ない音。
「どうぞどうぞぉ」
ギィと開けられた部屋は暗い。
蝋燭で照らしてみても、奥は見えなかった。
「明かりは?」
「そんなものないよー」
「ない?」
「ここは闇に屠られた場所。沈黙の柩。そんなものいらない」
げらげらげらげら。彼女がまた笑い出す。
頭の中がぐにゃりと歪んだ気がした。
「うるさい黙ってくれ」
強い言葉で命令したつもりだった。
でも、彼女は笑うのを止めない。
そして、狂ったように体を揺らし始める。
蝋燭に照らされた彼女の影が、暗闇のなかで化け物のように動く。
彼女の声が頭に響き、揺れる影に追い詰められる。
「お願いだ。黙ってくれ」
かすれた声で懇願する。
彼女がピタリと笑うのを止めた。
無表情の白い顔が能面のように照らし出される。
「この奥にいるよ」
ひたと指された部屋の奥は、化け物の口を思わせる。
僕は自ら破滅に向かうのか。
「行く?」
「……行こう」
彼女に問われ、小さく頷く。
今さら、ただで帰るわけには行かないのだ。
思い出した。あの兄妹は魔女の家に着いたのだ。
部屋の一番奥に無造作に置かれた机の上。
硝子ケースに収められたひとつの卵。
その白さは人間の骨を思わせた。
「これが……?」
「あなたの求めたもの?」
僕は尋ね、彼女は首を傾げた。
ひどくどうでもよさそうに。
「こんなものが欲しいの」
ふぅんと彼女が手を伸ばした。
僕はその手を叩き落とす。
「触るな」
「私は卵の番人」
「これが何かも知らないくせに、なんでお前が番人なんだ」
今までの苛立ちをこめた皮肉のつもりだった。
けれど、その瞬間に彼女が俯く。
「違う。私はN、偽物違う。番人N、本物になる。違う。私は本物」
「お、おい」
壊れた機械のように彼女が繰り返す。
本物、偽物、N、違う。
蝋燭が手から滑り落ち、音をたてた。
「私は選ばれた、成功。Nになれた、成功」
顔に爪をたて、彼女は頭を振る。
狂ったようにぶつぶつと言葉を吐き出しつづける。
「ちっ」
小さい舌打ち。もうこいつは使えない。
彼女に背を向け、硝子ケースから卵を取り出す。
その冷たい感触にぞっとした。
蝋燭はもう使い物にならない。
明かりがないままで元来た道を戻れるだろうか。
「私は……」
不意に彼女が背後で沈黙した。
呪詛のような言葉の羅列が止んで、安堵の息をつく。
「大丈夫か?」
振り返って絶句する。僕の顔が目の前にあった。
「私はその卵から生まれ、た」
彼女の声がだんだんと低くなる。
手から卵が音もなく零れ落ちた。
「私はNじゃない。誰かの代用品」
彼女が僕になっていく。顔も背丈も声も。
短い悲鳴が喉から洩れる。後ずさり、後ろの壁に背中がついた。
「だから、ねぇ?わかったよ」
彼女、いや僕が嗤う。
その手に光るのは、鈍い銀色の―――――
「僕はあなたになればいいんだね」
衝撃が痛みに変わる瞬間、僕は見た。
僕が泣いているのを。
そして、僕の意識は途絶えた。
「早くあいつ帰って来ないかなー」
「今回って何の仕事でしたっけ?」
女がぼやいて、男が腕組みする。
研究室の一角で彼等は休憩がわりにコーヒーを飲んでいた。
「今回はヤバい仕事だろ?敵チームからクローンデータを奪取してくるとか」
「あぁ。そのデータ媒体が卵の形してるとか言ってた気がしますね」
「卵か。クローンのデータが卵型とは、あちらさんも趣味が悪いな」
女が嘲笑うように唇の端を吊り上げる。
男はそれに肩を竦めた。
「でも、その技術が恐ろしいらしくて。噂ではもう20体は試作品があるそうで」
「失敗作はどうしてるんだろうな」
「またまた噂では他の人間に成り代わらせるとか」
「それは……怖いな」
眉を潜めて女はコーヒーを飲み干す。
「研究者は自分の娘を作りたかったらしいですよ。なんでも奈々とかいう一人娘だって」
さぞかし可愛かったんでしょうね―――しみじみと男がため息を零す。
「ま、何はともあれあいつが無事に帰って来てくれればいいんですよ」
「そうだな」
男と女は互いに頷いて、仕事に戻る。
「無事に帰って来たか」
「よかった、よかった」
女と男に肩を叩かれる。
それに笑って応じる。
ふと、女が言う。
「あれ?お前なんか変わった?」
僕は苦笑して答えた。
「えぇ、生まれ変わりましたから」
三題噺として書きました。
お題:卵、蝋燭、窒素