第八話 聞かなくていいことは聞かない
彩からの手紙が届くまで、どのくらいかかるだろうと諒は考えていた。
いや、そもそも返事が来るかどうかも、わからなかった。
あの三枚は、書きすぎたかもしれない。
送った翌日、諒はそれを何度も思った。
声を失ったことを書いた。
事故のことに触れた。
番組が深夜に自分を繋ぎとめていたと書いた。
これまでの手紙には書かなかったことを、一度に書きすぎた。
受け取った人間が戸惑っても、当然だ。
でも書かずにいることが、もうできなかった。
公園で、あなたが「届いていました、ちゃんと」と言った。
その言葉が、諒の中で何かを動かした。
長いあいだ、自分の言葉が本当に誰かに届いているのかどうか、諒にはわからなかった。
声を失ってから、言葉は紙の上にしか存在できなくなった。
書いて、送って、それきりだ。
相手の表情も、声も、返ってこない。
届いたかどうかを確認する術が、諒にはなかった。
それがあの午後、公園のベンチで、届いていたと言われた。
だから書いた。書かずにいられなかった。
返事が来たのは、五日後だった。
郵便受けを開けると、見慣れない筆跡の封筒が入っていた。
差出人の欄に「藤沢彩」とある。
諒はしばらくそれを手に持ったまま、玄関に立っていた。
部屋に入って、コートも脱がずに封を切った。
便箋が二枚、入っていた。
神田さんへ。
手紙、読みました。三枚、全部。
四度書き直してくれたことが、文面を読む前から伝わっていました。
便箋の紙が、少し強く押さえられていたから。
万年筆の線に、いつもより力が入っていたから。
そういうことに気づいてしまうのは、職業柄、音だけでなく細かいものに敏感になっているせいかもしれません。
あるいは、あなたの手紙をたくさん読んできたせいかもしれない。
声を失ったことを書いてくれました。
事故のことは、詳しく聞きません。
聞かなくていいことは、聞かない方がいいと思っているので。
ただ一つだけ言わせてください。
あなたが声を失ってから言葉が丁寧になったと書いていました。
私はその言葉を読んで、少し考えました。
私は声を扱う仕事をしています。
毎日誰かの声を聞いて、声の質を測って、声が届く場所を作ることを考えている。
それなのに、自分の言葉がどれだけ丁寧だったか、正直自信がありません。
あなたの手紙を読むようになってから、私の番組が変わったと同僚に言われました。
やわらかくなった、と。
私にはその自覚がなかった。
でも今は少し、わかる気がします。
あなたの言葉が、私の中で何かを動かしていたのだと思います。
最後に、一つ聞かせてください。
来週の木曜日、公園に行きます。
同じ時間に。
藤沢彩
諒は便箋を持ったまま、窓の外を見た。
十二月が近い空は低く、灰色がかっていた。
でも部屋の中が、さっきより少し明るくなった気がした。
気がした、というより——体の芯のどこかが、静かに温まった。
便箋の紙が、少し強く押さえられていたから。
そんなところを読んでいたのか、と諒は思った。
音を聞く仕事をしている人間は、紙の圧力も読む。
万年筆の線の力も読む。
諒が三度書き直して四度目に辿り着いた逡巡を、文面からではなく紙の手触りから受け取っていた。
それが諒には、言葉で届くより深く、刺さった。
聞かなくていいことは、聞かない方がいいと思っているので。
この一文で、諒は長く息を吐いた。
声を失ってから、人と会うたびに感じる重さがある。
相手が気を遣っているのがわかる。
何があったのかと聞きたいのを、堪えているのがわかる。
その堪えている重さが、諒には時々、直接聞かれるより苦しかった。
この人は聞かない、と書いた。
聞かないと決めていると書いた。
その決定の軽やかさが、諒には深い場所まで届いた。
木曜日は晴れた。
十一月の最後の週、空気は冷たかったが陽が出ていた。
諒は約束の時間より少し早く公園に着いて、いつものベンチに座った。
ノートを取り出したが、今日は何も書く気になれなかった。
ただ池を見ていた。
水面が光を受けて揺れている。
鳩が一羽、岸を歩いている。
人が通るたびに少し羽を広げて、それからまた歩き始める。
その繰り返しを、諒は眺めていた。
足音が近づいてきた。
顔を上げると、彩がコートのボタンを一番上まで留めながら歩いてくる。
諒に気づいて、小さく手を上げた。
その動作が自然で、以前のような緊張が、お互いにもうなかった。
「待ちましたか」彩はベンチに座りながら言った。
諒はスマートフォンを取り出した。
少し。でも待つのは好きです。
「なぜ」
待っているあいだ、いろんなことを考えるから。
「何を考えていたんですか、今日」
諒は少し考えて、打ち込んだ。
手紙のことを。あなたが便箋の圧力を読んでいたという話。
「恥ずかしかったですか、あれ」
いいえ。うれしかった。
彩は少し黙った。
池の方を見て、また諒を見た。
「私も」彩は言った。
「来週の木曜日のことを書いて、送ってから、少し恥ずかしかった。来ます、じゃなくて、来週の木曜日に行きますって、まるで待ち合わせを申し込んでいるみたいで」
諒は画面を見た。
何かを打ち込もうとして、やめた。
代わりに、目だけで笑った。
彩はそれを見て、少し眉を上げた。
「笑いましたね、今」
待ち合わせだと思っていました。
「……そうですね」彩は池の方に目をやった。
「そうか、待ち合わせか」
独り言のように言って、それから小さく笑った。
声に出して笑うのを、諒が初めて聞いた笑い方だった。
短くて、少し照れているような、でも隠しきれない笑い方。
諒はその笑い声を、記憶した。
耳ではなく、もっと深い場所で。
二人はしばらく並んで池を見ていた。
話すときもあったし、黙っているときもあった。
黙っているとき、以前より沈黙が軽かった。
軽い、というのは中身がないということではなく——重力の方向が、二人の間で揃ってきた、そういう軽さだった。
日が傾き始めた頃、彩が言った。
「神田さんは、音響の仕事をしていたんですよね」
諒は頷いた。
「どんな音が、好きでしたか」
諒はスマートフォンではなく、コートのポケットからノートを取り出した。
万年筆で、ゆっくり書いた。
書き終えてから、彩に渡した。
彩は受け取って、読んだ。
録音が終わって、機材を止めた後の静けさ。
音楽が消えた直後の、空気がまだ振動を覚えている時間。
あれが好きでした。誰も気にしない、二秒か三秒の間。
彩は顔を上げた。
諒を見た。
諒も彩を見ていた。
二秒か三秒、と書いてある。
それは最初の手紙に書いてあった言葉と同じだった。
三浦が原稿に目を落とすのが遅れた、あの二秒か三秒。
諒が「自分がどこにいるのかを忘れた」と書いた、あの沈黙。
繋がっている、と彩は思った。
最初からずっと、この人は同じ場所を聞いていた。
音楽の中ではなく、音楽が終わった後の、誰も気にしない時間を。
声の中ではなく、声が来る前の、小さな準備の音を。
「私も」
彩は言った。
「好きです。その二秒か三秒が」
諒はノートを受け取り、万年筆で一行だけ書いて、また彩に渡した。
知っています。
だから手紙を書き続けました。
彩は二度読んだ。
返す言葉を考えて、でも言葉にしなかった。
言葉にしない方が正しいと、初めて自分から思えた。
ノートを諒に返した。
池の水面が揺れている。
光が傾いている。
十一月が今日で終わろうとしている。
二人は並んで、その終わりをしばらく見ていた。




