第七話 書き直すということの意味
八通目の手紙が届いたのは、公園で会った四日後だった。
封筒を手にした瞬間、いつもと違うことに気づいた。
薄くない。これまでの手紙は便箋一枚に収まっていたが、今回は明らかに厚みがある。
封を切ると、便箋が三枚入っていた。
彩は編集室の椅子に深く座り直した。
藤沢さんへ。
公園でお会いしてから、この手紙を何度書き直したかわかりません。
最初に書いたものは、書き終えてすぐに捨てました。
言いたいことを全部書こうとしたら、収拾がつかなくなった。
二度目は短くまとめようとして、今度は何も伝わらない気がして、また捨てた。
三度目は書き出しから躓いて、便箋を丸めたままゴミ箱に入れました。
これは四度目です。
うまく書けているかどうかは、まだわかりません。
でも書き直すたびに、自分が何を伝えたいのかが少しずつはっきりしてきた気がするので、今回はこのまま送ることにします。
公園で、あなたが「届いていました、ちゃんと」と言ってくれたとき、私は何も打ち込めませんでした。
打ち込もうとした言葉が、三つも四つもあったのに、どれも違う気がして、結局何も返せなかった。
後になって思ったのですが、あのとき私が返せなかったのは、言葉が足りなかったからではないと思います。
言葉が多すぎたのだと思います。
「届いていました」というあなたの一言に、私の中でたくさんのものが動いて、その重さに言葉が追いつかなかった。
だから今、手紙で書きます。
私が声を失ったのは、二年前の秋です。
事故でした。
詳しいことはいつか話せるかもしれないし、話せないかもしれない。
ただ、声を失ってから、私は言葉というものをそれまでとは違う角度で考えるようになりました。
声があったとき、私は言葉を軽く扱っていたと思います。
考える前に口から出て、出てしまったら取り消せない。
それが怖くて、大事なことほど言えなかった。
声を失ってから、言葉は書くものになりました。
書くと、遅くなる。
遅くなると、考える。
考えると、本当に伝えたいことだけが残る。
不自由になったことで、かえって言葉が丁寧になった。
それが救いなのか皮肉なのか、今でも判断がつきません。
一つだけ、伝えさせてください。
あなたの番組が、この二年間の私の深夜にありました。
眠れない夜に、誰とも話せない夜に、自分がどこにいるのかわからなくなりそうな夜に——あの番組の声が、私をここに繋ぎとめていました。
手紙を書き始めたのは、それを伝えたかったからです。
最初はそれだけのつもりでした。
神田諒
三枚の便箋を読み終えて、彩はしばらく動けなかった。
これは四度目です、という一文が頭の中で繰り返された。
四度書いた。書くたびに捨てた。
捨てるたびに書き直した。
その時間を、彩は想像した。
部屋の中で、ノートに向かって、万年筆を持って——どのくらいの時間をかけて、この三枚になったのだろう。
彩は自分が、手紙を書くときのことを考えた。
彩は手紙を書かない。
メールは書く。
業務連絡も、短いやりとりも、指が自動的に文字を打ち込む。
でも便箋に向かって、誰かのことを考えながら、一文字ずつ書いたことは——いつが最後だったか、思い出せなかった。
学生のときに一度か二度、あったかもしれない。それくらい遠い記憶だ。
四度書き直した人間の言葉が、今、手の中にある。
最初はそれだけのつもりでした。
最後の一文の、その先を、諒は書かなかった。
書かなかったことで、その先にあるものの重さが、逆に伝わってくる。
言葉が多すぎたと諒は書いたが、この手紙もまた、書かれなかった言葉の方が多い。
その余白を、彩はゆっくりと受け取った。
窓の外で、風が鳴った。
十一月も終わりに近い。
街路樹の葉はほとんど落ちていて、枝だけになった木が窓の向こうに見える。
剥き出しの枝は、夏や秋より正直な形をしている、と彩は思った。
飾るものがなくなって、幹と枝だけになって、それでもそこに立っている。
便箋を丁寧に折り直して、封筒に戻した。
返事を書こう、と思った。
手紙で。
その夜、彩は帰宅してから引き出しの奥を探した。
便箋がどこかにあったはずだ。
もらい物の、使わないままにしていた。
引き出しを順番に開けていくと、一番奥の引き出しの底に、封筒と便箋のセットが出てきた。
薄い青みがかった紙で、罫線が入っている。
買ったのか、もらったのか、もう覚えていない。
台所のテーブルに便箋を置いた。
ペンを持った。
書き出しを考えた。
「神田さんへ」と書いて、止まった。
違う気がして、横線を引いた。
「手紙を読みました」と書いて、また止まった。
読んだことは当然だ。
消した。
「四度書き直してくれたこと」と書いて、それも止まった。
彩はペンを置いた。
こういうことか、と思った。
書き直す、ということの意味が、初めて体の中からわかった気がした。
頭で言葉を考えていると、どれも正しくて、どれも足りない。
正しい言葉と、伝わる言葉は、違う。
諒が三度捨てた理由が、ペンを持って初めて、彩にわかった。
もう一度、書き出した。
神田さんへ。
手紙、読みました。三枚、全部。
続きを考えながら書いていくと、最初は遅かった手が、少しずつ動くようになった。
考えて書くのではなく、書きながら考える。
書いた言葉が次の言葉を引っ張り出す。
そういう感覚が、途中からあった。
書き終えて読み返すと、直したいところが四箇所あった。
一箇所は書き直した。
残りの三箇所は、直さないことにした。
直しすぎると、書いていたときの自分がいなくなる気がした。
少し不格好でも、その不格好さが、今夜の彩だと思った。
便箋二枚。
封筒に入れて、糊で閉じた。
宛名を書く段になって、彩は少し考えた。
住所は手紙の差出人欄に書いてある。
でも名前の書き方を、どうしようか。
彩は万年筆を持っていない。ボールペンで書いた。
神田諒様。
封筒を手のひらに載せて、彩はしばらく見ていた。
誰かに何かを伝えようとして、書いて、封をする。
この重さが、送る前の手紙にはある。
メールの送信ボタンを押す前とは、違う種類の重さだ。
取り消せない、という感触が、封をした瞬間に来る。
でも怖くなかった。
取り消せないことが、今夜は怖くなかった。
翌朝、出勤前にポストに入れた。
駅までの道を歩きながら、彩は自分が何かを手放した感触を持った。
手放した、というより——長いあいだ閉めていた窓を、少しだけ開けた、そういう感触だった。
冷たい朝の空気が、その隙間から入ってくる。
十一月の終わりの光が、低い角度から街を照らしていた。
枝だけになった木の影が、地面に長く伸びている。
彩はその影を踏みながら歩いた。
踏んでも、影は消えない。
ただそこにあって、彩と一緒に、駅へ向かっていた。




