第六話 彩の逡巡と偶然の再会
返事をどう伝えるか、彩は一週間考えた。
考えた、というより引きずった。
仕事の合間に思い出し、帰り道に考え、眠る前に一度整理して、翌朝また最初から考え直す。
そういう繰り返しだった。
手紙で返すことは早い段階で除外した。
神田諒の問いは「私の手紙を最初に読んでいるのはあなたですか」という、ひどく直接的な問いだった。
その直接さに対して、手紙という迂回路を使うことが彩には誠実でない気がした。
かといって、連絡先を知らない。
局に来てもらうことはできる。
でも彩から「来てください」と伝える手段がない。
答えが出ないまま、木曜日が来た。
その日の午後、彩は外回りの予定があった。
来月の番組改編に向けたスポンサーとの打ち合わせで、局から二駅離れた広告代理店のオフィスまで一人で行く。
打ち合わせは一時間で終わり、彩は地下鉄には乗らずに歩いて帰ることにした。
十一月の午後三時、空気は冷たいが陽が出ていた。
歩ける距離だし、少し頭を冷やしたかった。
帰り道は代々木公園の脇を通る。
池のそばのベンチに、人が座っているのが見えた。
コートの襟を立てて、少し前傾みになって、膝の上に何かを置いている。
遠目にもわかる、その背の高さと、内側に向かっているような姿勢。
彩は足を止めた。
神田諒だった。
膝の上にあるのはA4サイズのノートで、万年筆を持っている。
書いているのか、考えているのか、この距離ではわからない。
でも彩の方にはまだ気づいていない。
公園の人の流れから少し外れた場所に、一人で静かに座っている。
声をかけるべきか、通り過ぎるべきか。
彩は三秒考えて、歩き出した。
通り過ぎる方向ではなく、ベンチの方へ。
近づいていくと、諒が顔を上げた。
彩を認識した瞬間、一度だけ瞬きをした。
驚いている。でも立ち上がろうとはしなかった。
ノートを閉じて、膝の上に置いたまま、彩が来るのを待った。
「こんにちは」彩は言った。
諒は会釈した。
隣、と彩はベンチの空いている側を指さした。
諒が小さく頷く。
彩は座った。
二人の間に、少し間隔がある。
池の方から風が来て、枯れ葉が数枚、足元を転がった。
諒がコートのポケットからスマートフォンを取り出した。
こんな場所で会うとは思いませんでした。
「私も」彩は言った。
「いつもここに来るんですか」
諒は少し考えてから打ち込んだ。
手紙を書くときに来ます。部屋より、外の方が言葉が出る気がして。
彩はその文面を読んで、池の方を見た。
水面が風で細かく揺れている。
十一月の光は低くて、池の表面を斜めに照らしている。
なるほど、と彩は思った。
この場所なら、言葉が出る気がする。
開けていて、でも人の声が遠くて、音の輪郭がはっきりしている。
「手紙、書いていたんですか。今」
諒は頷いた。
「誰に」
少し間があった。
諒はスマートフォンではなく、膝の上のノートに目を落とした。
それから顔を上げて、彩を見た。
何も打ち込まなかった。
その沈黙が、答えだった。
彩は視線を池に戻した。
心臓が少し速くなっているのを感じた。
それを顔に出さないようにしながら、平静を保つための言葉を探した。
「一つ、答えます」彩は言った。
「先週の手紙の問いに」
諒がこちらを向く。
「最初に読んでいるのは私です。全部。最初の一通から」
諒はしばらく彩を見ていた。
それからゆっくり、スマートフォンを取り出した。
知っていました。なんとなく。
「なんとなく、どうして」
手紙を読んでもらえているとき、何かが届いている気がするんです。
届いている、というのが誰なのか、わからないはずなのに。
彩は返す言葉を探した。
でも見つからなかった。
見つからないまま、それでも黙っていることが何か大事なものを取りこぼしそうな気がして、彩は正直に言った。
「届いていました。ちゃんと」
諒はまた、目だけで笑った。
初めてロビーで見た、あの笑い方だった。
声も口元も使わずに、目の端だけが少し動く。
でも今日の光の中で見ると、ロビーの蛍光灯の下で見たときより、その笑い方がずっと穏やかに見えた。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
沈黙が来て、彩は反射的に何かを話そうとした。
でもその衝動を、少しだけこらえた。
この沈黙は怖くない、とどこかで感じたから。
埋めなければならない種類の静けさではない。
ただそこにあって、二人を等しく包んでいる、そういう沈黙だった。
池の水面が揺れている。
遠くで子どもの声がして、犬が吠えて、また静かになった。
諒がノートを少し動かした。
彩の方に向けるように。開いているページに、万年筆で書きかけの文章があった。
全部は見えなかったが、冒頭の数行が目に入った。
十一月の光は、十月より低い場所から来る。同じ公園の、同じ池が——
諒はすぐにノートを戻した。
見せるつもりではなかったのかもしれない。
あるいは少しだけ、見せてもいいと思ったのかもしれない。
彩にはわからなかった。
ただ、その書きかけの一文の続きが何だったのか、少し知りたいと思った。
「続き、気になります」彩は言った。
諒は少し目を細めた。
完成したら、送ります。
手紙で、という意味だと彩は受け取った。
それが嬉しかった。
直接会って話せる距離にいるのに、手紙で送ると言う。
それはこの人にとって手紙が、不自由の代替手段ではないということだ。
声が出ないから書くのではなく、書くことがこの人の言葉の形なのだと、彩はあらためて思った。
日が傾き始めていた。
公園の光が橙色に変わる。
池の水面の揺れが、その色を受けて鈍く光る。
彩はコートの前を合わせた。風が少し強くなっていた。
「そろそろ戻ります」
彩は立ち上がった。
「局に」
諒も立ち上がった。
ノートをコートのポケットに入れ、万年筆のキャップを閉めた。
その一連の動作が、丁寧で、静かだった。
彩はその手元を一瞬だけ見た。
諒がスマートフォンを取り出した。
来週、また来ます。この場所に。
彩は少し考えた。
考えながら、自分の中に迷いがないことに気づいた。
迷いがないことが、少し意外だった。
こういうとき彩はいつも、一歩引いた場所から自分の感情を確認する。
大丈夫か、と問いかける。
でも今日は、その問いかけが来る前に答えが出ていた。
「私も、来るかもしれません」彩は言った。
「同じ時間かどうかはわからないけれど」
諒は頷いた。
二人は公園の出口の方へ歩いた。
並んで歩くのは初めてで、諒の歩幅は彩より少し大きかった。
でも速度を合わせているのか、二人の歩調は自然に揃った。
話さなくていい。
スマートフォンを取り出さなくていい。
ただ並んで、十一月の夕方の中を歩いた。
出口のところで、道が分かれた。
諒は左へ、彩は右へ。
諒が小さく会釈した。
彩も会釈した。
それだけだった。
余分な言葉はなかった。
でも別れた後、彩は右へ曲がりながら、自分の歩く速度がいつもより少し遅いことに気づいた。
急ぐ必要はないのに、さらに遅くなっていた。
来週、また来ます。
その言葉を、彩は胸の中で一度だけ繰り返した。
十一月の夕暮れが、街をゆっくり橙色に染めていた。




