第五話 七通目の手紙
七通目の手紙を読んだのは、翌朝だった。
前夜は結局、封を切れなかった。
編集室の椅子に座ったまま十分ほど封筒を手にしていて、それから鞄にしまって帰った。
開けられなかったのではなく、開けるのに適した時間と場所がある気がして、その夜のロビーの余韻の中ではないと思った。
翌朝、自宅の台所でコーヒーを淹れながら開けた。
手紙を直接お渡ししたくなりました。
自分の言葉が声になった夜に、その声を届けてくれた場所へ行きたかった。
それは、私にとって自然なことだったと思います。
一つだけ、聞いてもいいですか。
私の手紙を最初に読んでいるのは、あなたですか。
神田諒
彩はコーヒーカップを置いた。
私の手紙を最初に読んでいるのは、あなたですか。
読んでいる、と彩は思った。
全部読んでいる。
番組に届く手紙はすべて彩が最初に目を通すから、という業務上の理由もある。
でもそれだけではないことを、彩は自分でわかっていた。
返事を書くべきか、一瞬考えた。
でもこの問いへの答えは、手紙ではなく直接伝えた方がいいと思った。
根拠はない。ただそう感じた。
その週の木曜日、本番は深夜一時からだった。
収録ではなく生放送だ。『音の縁側』は基本的に録音で作るが、月に一度だけ生放送の回がある。
十一月は第二木曜日がその日にあたっていた。
生放送の日の編集室は、録音の日とは空気が違う。
同じ机、同じ機材、同じスタッフなのに、どこかが張っている。
ミスが取り返せない、という事実が空気に染み込んでいる。
彩は生放送が嫌いではなかった。
むしろこの緊張感の方が、自分には向いている気がしていた。
取り返せないからこそ、今この瞬間に集中できる。
本番三時間前、スタッフが揃い始めた。
音響担当の堀内が機材チェックを始める。
三十八歳、無口で仕事が速い。
マイクのレベルを一本ずつ確認しながら、モニタースピーカーから短いテスト音を出す。
その音が編集室に響くたびに、彩は自分の集中が一段上がるのを感じた。
いづみは構成表のコピーを人数分用意して、一枚ずつ配っていた。
「藤沢さん、Bブロックの尺、少し変わりましたよね」
いづみが言った。
「修正版に差し替えました」
「ありがとう」彩は受け取りながら確認した。
「堀内さんにも渡した?」
「はい、さっき」
「三浦は」
「まだ来てないです」
彩は時計を見た。
本番まで二時間四十分。
三浦の到着予定は一時間後。問題ない。
構成表を広げ、今夜の流れを頭に入れる。
Aブロックはリスナーの手紙二通と音楽三曲。
Bブロックは特集コーナー、今月のテーマは「音の記憶」だ。
彩が提案したテーマで、三浦は「いいね、俺も好き」と即答した。
Cブロックは音楽中心で締める。
音の記憶。
テーマを決めたのは一ヶ月前だったが、今夜このテーマで放送することが、どこか必然のように感じられた。
神田諒の手紙を読んでいなければ、このテーマは出てこなかったかもしれない。
そう思って、彩はすぐに打ち消した。
仕事と個人的な感情を混ぜるのは、彩の流儀ではなかった。
でも打ち消しながら、完全には消えなかった。
三浦が来たのは本番九十分前だった。
「お疲れ」三浦はコートを脱ぎながら編集室を見渡した。
「今夜は生か。なんか空気違うな」
「毎月同じ空気だよ」
「わかってるけど、毎回そう感じる」
三浦はコーヒーメーカーに直行した。
「ディレクター、今夜のBブロック、俺どのくらい喋っていい?」
「構成表通りで。十二分」
「短いな」
「短くない。音の記憶、話し始めると長くなるから意識して」
「了解です」三浦は神妙に頷いた。
「自分の音の記憶ってさ、何がある? ディレクターの」
彩は構成表から顔を上げずに言った。
「仕事中」
「そっか」三浦は笑った。
「俺はさ、祖父ちゃんが将棋の駒を打つ音なんだよね。カチって小さい音。あの音聞くと今でも祖父ちゃんの家の畳の匂いまで来る」
彩は何も言わなかった。
でも手のペンが少し止まった。
音が記憶を引き連れてくる、という感覚を、彩も知っている。
母親がアイロンをかけるときの、シュッという蒸気の音。
それを聞くたびに、実家のリビングの夕方の光が戻ってくる。
もう何年も帰っていない場所の、確かな感触。
「本番前に余計なこと考えさせないで」彩は言った。
「ごめんごめん」
三浦は笑いながらコーヒーを飲んだ。
本番三十分前、最終確認に入った。
堀内がマイクレベルの最終調整をしている。
いづみが進行時計をセットする。
彩はモニター画面で音声ラインを確認しながら、構成表に最後のメモを書き込んだ。
三浦がブースに入り、ヘッドフォンをつける。
マイクの前に座り、構成表を見ながら口の中で何かを呟いている。
本番前の三浦の習慣で、原稿を声に出さずに唇だけで動かす。
それが終わると三浦は目を閉じて、数秒そのままでいる。
彩はその様子をモニター越しに見ながら、いつも同じことを思う。
この人は本番前に、どこかへ行く。
どこへ行くのかは知らない。
でも目を閉じて戻ってきたときの三浦の声は、それ以前とは少し違う。
余分なものが落ちた、静かな声になる。
「堀内さん、レベルどうですか」彩はインカムで確認した。
「問題ないです」堀内の声が返ってくる。
「三浦さん、テスト一回お願いします」
三浦がマイクに向かった。
「はい、テストです。十一月の夜は、どこまでも静かで」
モニターのレベルメーターが滑らかに動く。
堀内が細かく調整する。
彩は音を聞きながら、三浦の声の状態を確認した。
良い。
今夜の三浦は声が落ち着いている。
「オッケーです」堀内が言った。
「ありがとう」三浦がブースの中で親指を立てた。
本番十分前。
彩は構成表を最後にもう一度見渡した。
変更点はない。
流れは頭に入っている。
あとは本番だ。
こうなると彩の中で余計な思考は消える。
神田諒のことも、七通目の手紙のことも、ロビーでの短い言葉も——全部、どこか別の場所に静かに収まって、今夜の放送だけが前に来る。
これが彩にとって、この仕事を続けてきた理由の一つだった。
本番前のこの感覚。
自分の中の余計なものが削ぎ落とされて、必要なものだけが残る。
日常の中でこれだけ研ぎ澄まされる瞬間が、彩にはここ以外になかった。
「本番五分前です」いづみが言った。
声が少し上ずっている。
彩はいづみを見た。「大丈夫」
いづみは小さく頷いた。
本番一分前。
カウントが始まる。
堀内が無言で指を折る。
三浦がマイクの前で姿勢を正す。息を、吸う。
その小さな音が、モニターに乗る。
彩は消さなかった。
ゼロ。
三浦の声が、深夜の電波に乗った。
「おはようございます、こんばんは、それともおやすみなさい。あなたが今夜どの時間にいるのかはわからないけれど、ここは『音の縁側』です。今夜も、しばらく付き合ってください」
いつもの出だし。
でも生放送の夜の三浦の声は、録音より少しだけ体温が高い。
彩はモニターの前でそれを聞きながら、今夜の電波がどこまで届くかを考えた。
深夜の東京。
眠れない人間が、ラジオをつけている部屋。
神田諒が、今夜聴いているかどうかは知らない。
でも届く場所に、声は出ていく。
放送が終わったのは深夜三時過ぎだった。
三浦が「Bブロック、一分オーバーしました」と言った。
彩は「知ってる」と言った。
三浦は「ごめんなさい」と言って、まったく反省していない顔をした。
いづみが進行記録をまとめている。
堀内が機材を丁寧に片付けている。
彩は放送後のデータを確認しながら、今夜の流れを頭の中で反芻した。
Bブロックの一分オーバーは次回への課題だが、全体の質感は悪くなかった。
三浦の「音の記憶」の話は、少し長かったが温度があった。
「藤沢さん」
堀内が声をかけてきた。
無口な堀内が、収録後に話しかけてくることは少ない。
彩は顔を上げた。
「今夜、良かったと思います」堀内は機材ケースを閉めながら言った。「最近の放送、なんか聴きやすくなってますよね。音の作り方が変わったわけじゃないのに、どこかやわらかい」
彩はすぐには答えなかった。
いづみに言われたのと、同じ言葉だった。
やわらかい。
堀内は音を聞いて仕事をしている人間だ。
機材のレベルを耳で測り、空気の変化を音で感じ取る。
その堀内が、言葉ではなく音として、番組の変化を聞き取っていた。
「そうですか」彩は言った。
「ええ」堀内はケースを持ち上げた。「お疲れ様でした」
それだけ言って、堀内は部屋を出た。
三浦が彩の方を見ていた。
目が合った。
三浦は何も言わなかった。
少しだけ口の端が動いたが、それが何を意味するのか、彩にはわからなかった。
わかりたくない、という気持ちもあった。
三浦に何かを見透かされることは、この男への信頼と表裏一体で、だからこそ時々、落ち着かない。
三浦はコートを手に取った。
「お疲れ、ディレクター。今夜も良い放送だった」
「お疲れ様」
三浦が出ていって、編集室に彩一人が残った。
やわらかい、と二人に言われた夜。
彩は窓の外を見た。
深夜三時の東京は、それでも完全には暗くならない。
遠くのビルに明かりが灯り、高速道路の光が流れている。
どこかで誰かが、まだ眠らずにいる。
机の引き出しを開けた。
七通目の封筒が入っている。
私の手紙を読んでいるのは、あなたですか、と書いてあった手紙。
返事を書くかどうかではなく、直接伝えようと思っていた。
でもどこで、どうやって。
彩はしばらくそれを考えてから、引き出しを閉めた。
まだわからない。でも、答えは持っている。
それで今夜は、十分だった。




