第四話 出会い
十一月に入ると、木々が一斉に諦めたように色を変えた。
通勤路の銀杏が黄色くなるのは毎年のことだが、今年はその速度が早い気がした。
先週まで緑を残していた葉が、週末を挟んだだけで鮮やかに黄変している。
東京の木々は、秋を丁寧に経由しない。
夏から冬へ向かう途中で、ほんの二週間だけ燃えるように色づいて、それからすぐに落ちる。
その短さが彩は嫌いではなかった。
長く続くものより、短く確かなものの方が、信用できる気がしていた。
六通目の手紙が届いたのは、その週の月曜日だった。
封筒を手にした瞬間、彩はいつもと違うことに気づいた。
宛名の書き方が変わっていた。
これまでは「『音の縁側』制作スタッフ御中」と書いてあったのが、今回は「藤沢彩様」になっていた。
彩は封筒をしばらく見ていた。
名前を知っていたのだろう。
番組のウェブサイトにはスタッフの名前が載っている。
それを調べて、書いた。それだけのことだ。
それだけのことなのに、自分の名前が万年筆で書かれているという事実が、彩の中で小さく、でも確かに重さを持った。
封を切る。便箋一枚。
藤沢さんへ。
初めて名前を書きます。
これまで宛名を「スタッフ御中」にしていたのは、失礼にあたるかと思っていたからです。
でも今週は、どうしても名前を書きたかった。理由はうまく言えません。
先週の放送で、三浦さんが私の手紙を読んでくれました。
放送で読まれるとは思っていなかったので、驚きました。
誰かに声で読まれるというのは、不思議な感触です。
自分の言葉なのに、声がつくと少し違うものになる。
悪い意味ではありません。ただ、違う。
三浦さんの声で読まれた私の言葉が、今夜も東京のどこかで誰かに届いているかもしれないと思うと、それが少し、嬉しかった。
神田諒
どうしても名前を書きたかった。
彩は便箋を折り直して、封筒に戻した。
文体が変わっている。
これまでの手紙は、どこか一定の距離を保っていた。
丁寧で、抑制されていて、受け取る側を意識した言葉だった。
でも今回は、その距離が少し縮まっている。
「理由はうまく言えません」という一文がそうだ。
これまでの神田諒なら、理由を言えないことは書かなかった。
言えないことは、ただ書かずにおいた。
それが今回は、言えないと書いた。
言えないと書くことで、何かを伝えようとしている。
彩はしばらくそのことを考えた。
考えながら、自分の中に生まれた感触を確認した。
落ち着かない、というのとは違う。
温かい、というのとも少し違う。
強いて言えば——緊張に似た何か。久しく感じていなかった、胸の少し上の方が収縮するような感覚。
それが何なのか、彩はすぐには名前をつけなかった。
その週の木曜日、収録が終わったのは深夜の二時近かった。
いづみが先に上がり、音響スタッフも帰った。
三浦がコートを着ながら「今夜は良かった」と言い、彩は「うん」と答えた。
三浦は手を振って廊下に消えた。
彩は一人で後片付けをしていた。
録音データの確認をして、構成表に来週分のメモを書き込んで、机の上を整える。
その作業をしながら、六通目の手紙のことを考えていた。
というより、考えまいとしていたのに、考えていた。
局の受付から内線が入ったのは、その時だった。
「夜分すみません、制作の藤沢さんでいらっしゃいますか」
「はい」
「あの、お客様がいらしていて」受付の声が少し困惑している。
「番組宛の手紙を直接お届けしたいとのことで。もうお帰りの時間かと思うのですが」
彩は時計を見た。深夜二時十分。
「今から下に行きます」
エレベーターを待ちながら、彩は深夜にわざわざ手紙を届けに来る人間のことを考えた。
郵便では間に合わない何かがあったのか。
それとも、この時間しか来られない事情があるのか。
扉が開く。乗り込む。
一階のボタンを押す。
ロビーに降りると、受付の女性が小さく会釈して、カウンターの前に立っている人物に目をやった。
男性だった。
三十代後半に見える。
コートの襟を立てて、片手に白い封筒を持っている。
背が高く、でも姿勢はどこか内側に向かっているような、少し丸みを帯びた立ち方をしていた。
彩が近づくと、男性はこちらに気づいて、小さく頭を下げた。
封筒を差し出してくる。
表を見た瞬間、彩は息を止めた。
白い洋封筒。
万年筆の筆跡。「藤沢彩様」と書いてある。
顔を上げると、男性は彩の表情を読もうとするように、静かにこちらを見ていた。
その目が、謝罪と確認と、もう一つ何かを同時に持っていた。
彩は封筒を受け取り、男性の顔を見た。
何か言おうとして、言葉が出なかった。
男性もまた、声を出さなかった。
出さないのではなく——出せないのだと、彩はすぐにわかった。
わかったというより、感じた。
男性の喉が微かに動いた。
動いて、何も出てこなかった。
男性はコートのポケットからスマートフォンを取り出した。
何かを打ち込んで、画面を彩の方に向ける。
そこには短い文字があった。
神田諒です。迷惑でしたか。
彩は画面から顔を上げた。
神田諒は、彩の返答を待っていた。
ロビーの蛍光灯の下で、少し強張った表情をしていた。
封筒を渡してしまったから、もう手の中には何もない。
手持ち無沙汰になった両手を、コートのポケットに入れかけて、やめて、横に下ろしていた。
迷惑ではない、と彩は思った。
でもそれをどう伝えるかを考えながら、彩は自分が今、何か大事な場所に立っていることを感じた。
この人は深夜に、手紙を届けに来た。
郵便でよかったはずなのに。それでも来た。
その事実だけで、十分すぎるほど何かが伝わっていた。
「迷惑じゃないです」
彩は言った。
声に出してから、それだけでは足りない気がして、少し考えた。
「来てくれて、よかった」
神田諒は何も打ち込まなかった。
ただ、表情が少し変わった。
強張りが解けて、でも笑うわけでもなく——ただ、それまでとは違う顔になった。
彩にはその変化が、長い息を吐いたあとの、静けさのように見えた。
二人はしばらく、ロビーに立っていた。
受付の女性は気を利かせて、カウンターの奥に引っ込んでいた。
深夜のロビーには、空調の音だけがある。
外では風が吹いているのか、自動ドアのガラスが微かに軋んでいた。
神田諒がまたスマートフォンを取り出した。
手紙を声で読んでもらえると思っていなかったので、来てしまいました。おかしいですか。
おかしくない、と彩は思った。
おかしくないどころか、彩にはその衝動がわかる気がした。
自分の言葉が誰かの声になって、夜の電波に乗って、東京のどこかへ出ていく——それを書いた人間に伝えたくて、深夜に来てしまうことの、その真っ直ぐさが。
「おかしくないです」彩は言った。
「私も、あの手紙を読んでほしかった」
神田諒は少し目を細めた。
それが彼の笑い方なのだと、彩はその瞬間に知った。
声も、口元の動きも使わずに、ただ目だけで笑う。
その笑い方が、これまで読んできた手紙の文体と、どこか同じ質感を持っていた。
言いすぎず、でも確かに届く。
神田諒は軽く会釈して、自動ドアの方へ歩き始めた。
彩は見送りながら、手の中の封筒を少し強く握った。
自動ドアが開いて、十一月の夜気が流れ込んできた。
神田諒はコートの襟を立て直しながら外に出た。
振り返りはしなかった。
でも出ていく直前に、歩く速度がほんの少し落ちたように、彩には見えた。
自動ドアが閉まる。
ロビーに、空調の音が戻った。
彩は手の中の封筒を見た。
七通目だった。
中を読むのは、ここではない場所でと思った。
この静けさの中で開けてしまうには、今夜の自分は少し、落ち着きがなさすぎる。
エレベーターに乗り、六階に戻った。
編集室のドアを開けると、部屋はまだ彩が残していた照明のままだった。
机の椅子に座り、コートを脱がずに封筒を手にした。
外では風が続いている。
窓ガラスの向こうで、十一月の夜が深く、静かに冷えていた。




