第二話 三年前の別れ
十月になると、夜の空気がようやく変わった。
帰り道に風を受けるたびに、彩は少しだけ息がしやすくなる感じがした。
夏の間ずっと体にまとわりついていた熱が、ある朝を境に引いていく。
東京の秋はいつも唐突に来る。
昨日まで半袖だったのに、今日は上着が必要になる。
その切り替わりの瞬間を、彩は毎年ひとりで確認した。
誰かと「寒くなったね」と言い合う習慣が、いつからかなくなっていた。
同僚の木村から連絡が来たのは、その週の水曜日だった。
「藤沢さん、今夜時間ある? 軽く飲もうよ」
木村は同期だ。
制作部ではなく営業にいる。
彩とは研修のときに仲良くなり、今も年に数回、二人で食事をする。
悪い人間ではないが、話が長い。
彩はしばらく考えて、断る理由が思い当たらなかったので承諾した。
待ち合わせた店は渋谷の裏路地にある小さな居酒屋で、木村はすでに来ていた。
カウンターに座り、すでにビールを半分空けている。
「早い」彩は隣に座った。
「だって楽しみだったんだもん」
木村は笑った。
「最近ちゃんと話してなかったじゃない。元気にしてた?」
「まあ」
「まあ、か」
木村は彩の顔をじっと見た。
「それが藤沢さんの元気のMAXだよね」
彩は何も言わずにビールを注文した。
木村はその後、営業部の話をひとしきりした。
新しい上司の話、クライアントとのトラブルの話、部署の後輩の話。
彩は相槌を打ちながら聞いていた。
木村の話は細部が多い。
登場人物が多く、感情の起伏が多く、結論がなかなか来ない。
でも彩はそれが嫌いではなかった。
自分が決して持てない種類の話し方だと思うから。
二杯目のビールが来た頃、木村が言った。
「そうそう、聞いた? 松本くん、結婚するって」
松本、という名前が、彩の胸のどこかに小さく当たった。
表情には出なかったと思う。
出ていないように努めた。
「そうなんだ」
「うん。相手は外部の人らしくて——藤沢さん、大丈夫?」
「大丈夫」
「でも」
「本当に大丈夫だよ」
彩はグラスを置いた。
「もう三年経ってるし」
木村はしばらく彩の顔を見ていたが、それ以上は言わなかった。
その判断が、木村の賢いところだと彩は思った。
松本健二とは、二十九歳のときに一年半付き合った。
同じ局の別の部署にいた。
別れたのは彩の側からで、理由は今でも正確には言語化できない。
一緒にいると楽なのに、一緒にいるほど自分が遠くなる感じがした——そういう感覚を、うまく説明できないまま、ある夜「ごめんなさい」と言った。
松本は泣かなかった。
ただ「そうか」と言って、それきりだった。
その「そうか」が、今でも時々頭の中に戻ってくる。
帰り道、駅まで歩きながら、彩は夜の空気を吸った。
風が少し冷たかった。
信号待ちの間、横断歩道の向こうを見ると、カップルが並んで立っている。
二人とも前を向いていて、話してもいないのに肩と肩の距離が近い。
ああいう近さが、彩にはどういう感触なのかもうよく思い出せない。
電車に乗り、座席に座ると、バッグの中で手帳が硬い感触を主張した。
取り出すと、挟まっていたメモが落ちた。
今週届いた手紙の整理をしたときに書き写したもので、神田諒の四通目の文面だった。
今週の手紙は、短かった。
秋になりました。
音が変わったと思いませんか。
夏の音は膨張していますが、秋の音は輪郭を持ち始める。
同じ場所にいても、十月の夜は九月の夜より静かに聞こえます。
空気が引き締まって、音が遠くまで届くようになるからかもしれない。
あなたの番組も、少し変わって聞こえます。良い意味で。
神田諒
音が変わったと思いませんか。
思う、と彩は心の中で答えた。
思っているどころか、収録のたびにモニタリングしながら感じている。
十月の深夜に録音された音声は、九月のものと確かに違う。
マイクが拾う空気の質が変わる。
それを数値で説明することはできるが、数値では伝わらない何かが確かにある。
この人はそれを、ただ感じていた。
機材もなく、理論もなく、深夜に一人でラジオを聴きながら——耳だけで。
電車が駅に滑り込む。
アナウンスが流れ、ドアが開く。
乗り降りの音が重なって、また静かになる。
彩はメモを手帳に挟み直した。
秋の音は輪郭を持ち始める。
そう書いたこの人は、今夜どんな部屋にいるのだろう。
眠れない夜が増えたと二通目に書いていた。
その理由は書かないと書いていた。
窓の外の秋の音を聞きながら、便箋に向かっている姿を、彩は少しだけ想像した。
すぐに打ち消した。
勝手に想像するのは、失礼な気がした。
でも打ち消した後も、その輪郭だけが残った。
万年筆を持つ手。
慎重すぎる筆跡。
声よりも先に届く何かを好きだと言える人。
翌週の収録は、木曜日の深夜だった。
本番前、三浦がブースに入ってきてヘッドフォンをつけながら言った。
「今週の手紙、あの万年筆の人また来てた?」
彩は構成表から顔を上げた。
「読んだ?」
「うん。秋の音の話。良かった」
三浦はマイクの角度を微調整した。
「俺の息の音の人でしょ、この人」
「そう」
「なんか」
三浦は少し考えてから言った。
「ちゃんと聴いてる人だなって。音楽とかじゃなくて、音を聴いてる」
彩は何も言わなかった。
三浦の言葉は正確だと思った。
音楽を聴いているのではなく、音を聴いている——その違いは小さいようで、たぶん大きい。
音楽を聴く人は、曲に向かっている。
でも音を聴く人は、もう少し手前の何かに耳を澄ましている。
その手前の何かに、彩もずっと興味を持っていた。
それがラジオのディレクターを続けている理由の、少なくとも一部だった。
「読もうか、今週」
三浦が言った。
「うん」彩は答えた。
「Bブロックで」
本番五秒前のカウントが始まる。
三浦がマイクの前で姿勢を正した。
息を、吸う。
その小さな音がモニターに微かに乗る。
彩はレベルを確認しながら、それを消さないでいた。
深夜一時の電波が、東京のどこかへ向けて出ていく。
神田諒がこの時間、ラジオの前にいるかどうかは知らない。
いたとしても、いなかったとしても、声は届く場所に出ていく。
そのことを、彩は今夜なぜかいつもより強く意識した。
誰かの言葉が、誰かに届くかもしれない夜。
届かないまま終わるかもしれない夜。
その両方が、深夜のラジオには等しく存在している。




