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君の声が聞こえる場所 ――深夜ラジオに届いた手紙は、声を失った男からだった 声がなくても、届く言葉がある。沈黙にも、愛がある。  作者: かーすけ
声なき手紙

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2/10

第一話  三通の手紙との出会い

 九月の東京は、まだ夏の匂いがする。

 アスファルトが昼間の熱を手放さないまま夜になり、風が吹いても生ぬるく、駅の改札を出るたびに彩は自分の体が街に馴染んでいないような感覚を覚えた。

 馴染んでいないというより——もうずいぶん長くここにいるのに、いつまで経っても体が都会の温度を自分のものにできない、そういう感覚だ。


 局のビルは渋谷から歩いて七分、緩やかな坂の途中に建っている。

 エレベーターで六階に上がると、廊下の突き当たりに『音の縁側』の編集室がある。

 夕方の五時過ぎ、彩がドアを開けると、三浦俊平がソファに寝転がって天井を見ていた。

「あ、ディレクター来た」

 三浦は体を起こしもせず言った。

 三十五歳、この番組のパーソナリティを二年やっている。

 声がいい。

 それだけで食べていける種類の声だと、彩は担当になった最初の週から思っていた。

 低くも高くもなく、ただ聴いていると肩の力が抜けるような声。深夜番組には似合っている。

「今週の構成、確認した?」

「しました」

「感想は」

「普通にいいと思います」

 三浦はようやく上体を起こした。

「あ、でもBブロックの流れ、曲と曲の間にもう一通手紙挟んだほうがよくない? ちょっと音楽多くなってる気がして」

 彩は資料を机に置き、構成表を広げた。

 三浦の言うことは大抵正しい。

 この男は理屈ではなく耳で判断する。

 数字や根拠を求めても出てこないが、その代わりほとんど外さない。

「ここか」

 彩は鉛筆でBブロックの余白に印をつけた。

「手紙は何通か来てる。読んでみて、使えそうなものを選ぶよ」

「ありがとうございます」三浦は立ち上がり、コーヒーメーカーに向かった。

「ディレクターも飲む?」

「いらない」

「そっか」

 三浦はそれ以上何も言わなかった。

 彩もそれ以上何も言わなかった。

 この番組のスタッフはみんな、沈黙を埋めようとしない。

 それが彩にとって、この職場を続けられる理由の一つだった。


 今週届いた手紙の束を取り出し、彩は一通ずつ開き始めた。

 リスナーからの手紙は、週に三十通から多いときで五十通来る。

 はがきが大半で、便箋はそのうちの四分の一ほど。

 彩はすべてに目を通した上で、三浦と一緒に放送で読むものを選ぶ。

 選ばれなかった手紙も、彩は捨てない。

 専用のファイルボックスに入れて、編集室の棚に並べておく。

 誰かが言葉を費やして送ってきたものを、読まれなかったからといってゴミ箱に入れることが、彩にはどうしてもできなかった。

 そのとき、一通の封筒が出てきた。

 白い洋封筒に、万年筆の筆跡。

 差出人の欄に「神田諒」とある。

 彩はその名前を、すでに知っていた。

 先月と先々月、同じ筆跡の手紙が届いている。

 内容は放送の感想ではあるのだが——普通の感想ではない、とその都度彩は感じた。

 うまく言葉にできないまま、二通ともファイルボックスに入れてある。

 今回が三通目だった。

 封を切る。便箋一枚。

 文字は少ない。


 今週の放送中、ふと気づいたことがあります。

 三浦さんは話すとき、言葉の前に必ず小さな息を吸う。

 たぶんご本人も気づいていないと思います。

 でもその息の音が、マイクにかすかに乗っている。

 私はそれが好きです。

 声よりも先に届く、その小さな準備の音が。

 神田諒


 彩は便箋を持ったまま、少しの間そこに書かれた言葉を見ていた。

 声よりも先に届く、小さな準備の音。

 三浦の呼吸のことを、彩も知っている。

 知っているどころか、収録のたびにモニターしている。

 あれはマイクの距離と角度をほんの少し調整すれば消せる音だ。

 消すべきか毎回考えて、結局消さないでいる。

 理由を聞かれたことはないし、理由を説明しようとしたこともない。

 ただ、消すと何かが失われる気がして——そう思っているだけで、それが正しいのかどうかもわからなかった。

 この人は、そこを聞いていた。

「三浦」

「ん」

「あなたが話す前に息を吸う音、知ってる?」

 三浦はコーヒーカップを口から離し、少し考えた。

「……してる?」

「してる」

「恥ずかしいな」

 三浦は苦笑した。

「消した方がいい?」

「いや」

 彩は手紙から目を上げずに言った。

「このままで」

 三浦は何か言いかけて、やめた。

 彩の視線の先にある便箋をちらりと見たが、何も聞かなかった。

 その夜、彩は構成作業が終わったあとも少し編集室に残り、ファイルボックスから神田諒の一通目と二通目を取り出して読み返した。

 一通目は八月の終わり。内容はこうだった。


 先週の放送の選曲について。

 最後の曲、タイトルを教えていただけますか——と書こうとして、やめました。

 調べればわかることだし、たぶん知りたいのは曲名ではないのだと思います。

 知りたいのは、あの曲があの場所に置かれた理由の方です。

 でも、それは聴いた人間が自分で考えることなのかもしれない。

 だから、質問はしないことにします。

 神田諒


 二通目は九月の第一週。


 夜中の二時に、この手紙を書いています。

 眠れない夜というのが、以前より増えました。

 理由はわかっています。でも書きません。

 ただ、眠れない夜に聴くものが番組であることは書いておきたかった。

 それだけです。

 神田諒


 三通の手紙を並べて、彩は少し考えた。

 この人は何かを抱えている。

 それは文面を読めばわかる。

 でも何を抱えているのかは、わからない。

 手紙の文体は抑制されていて、感傷に流れない。

 言いすぎず、しかし言わなすぎもしない。

 自分の輪郭を保ちながら、ぎりぎりのところで言葉を選んでいる——彩にはそう感じられた。


 こういう文章を書ける人間が、世の中にいるのか。

 そう思ったことが、彩には少し意外だった。

 編集室の窓の外で、九月の夜が続いている。

 どこかで救急車のサイレンが鳴り、遠ざかり、また静かになった。

 彩は三通の手紙をファイルボックスに戻し、照明を落として部屋を出た。

 廊下を歩きながら、頭の中でさっきの一文が繰り返された。

 声よりも先に届く、その小さな準備の音が。

 好きです、とこの人は書いた。

 声ではなく、その前の息が好きだと。


 エレベーターのボタンを押しながら、彩は自分が今夜初めて、誰かの言葉に少し揺れたことに気がついた。

 揺れた、というより——長いあいだ動かなかった場所が、ほんのわずかに動いた、そういう感触だった。

 扉が開く。

 彩は乗り込んで、一階のボタンを押した。

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