第十三話 散り際の方が好き
好きだ、と思った夜から、彩の中で何かが整理され始めた。
整理、というのは感情が収まった、ということではない。
むしろ逆だった。
名前をつける前は輪郭が曖昧だったものが、名前をつけた途端に重さと形を持ち始めた。
持ち始めると、持て余すようになった。
木曜日が近づくたびに、その重さを感じた。
公園で諒の隣に座るとき、諒がノートを渡してくるとき、目だけで笑うのを見るとき——好きだという感情が、じわりと前に出てくる。
それを顔に出さないように、声に出さないように、彩は静かに抑えた。
抑えながら、抑えていること自体が、この感情の本物さを証明している気がした。
本物だから、簡単に出せない。
三月に入った週の木曜日、公園の梅はすでに散り始めていた。
花びらが風に乗って、池の水面に落ちる。
白い花びらが水に触れて、ゆっくり広がる波紋。
諒がそれを見ていた。
彩も同じものを見ていた。
同じ方向を向いて、同じものを見ている。
その当たり前のことが、今日は少し、胸に沁みた。
「梅、散り始めましたね」彩は言った。
諒が頷いた。
スマートフォンを取り出した。
散り際の方が好きです。
咲いているときより、散るときの方が、花の重さがわかる気がして。
彩はその文面を読んで、少し考えた。
「重さ、というのは」
咲いているときは軽い。
散るときに初めて、それが確かにそこにあったとわかる。
彩は池の水面を見た。
花びらがまた一枚、落ちた。
白い小さな花びらが、水に触れる瞬間だけ、重力を持つ。
この人は、こういうことを考えている。
散るときに初めて、重さがわかる。
失ってから、確かにあったとわかる。
それは美咲のことでもあるのだろうと、彩は思った。
思いながら、それを言葉にしなかった。
言わなくていいことは、言わない方がいい。
代わりに、彩はこう言った。
「私は咲いているときに、ちゃんと見ていたいと思います」
諒が彩を見た。
彩は池の方を向いたまま言った。
「散ってから気づくより、今ここにあるうちに、確かめておきたい」
沈黙があった。
長い沈黙だった。
でも彩は焦らなかった。
この沈黙の中で、諒が何かを考えていることがわかったから。
諒がノートを取り出した。
ゆっくり、いつもより時間をかけて書いた。
あなたは、今ここにいる人ですね。
私はずっと、失った後のことを考えながら生きてきた気がします。
失う前に確かめる、という発想が、私にはなかった。
彩は受け取って、読んだ。
読みながら、胸の奥で何かが静かに疼いた。
失った後のことを考えながら生きてきた。
声を失ってから、美咲を失ってから、この人はずっとそうやって生きてきたのだろう。
喪失を起点にして、そこから時間を数えてきた。
それがどれほど重い生き方か、彩には想像しかできない。
でも想像しながら、彩の中で何かが決まった。
決まった、というより——自分が何をしたいのかが、はっきりした。
「神田さん」
諒がこちらを向く。
「今ここにいる神田さんを、私はちゃんと見ています」
諒は何も打ち込まなかった。
ノートも取り出さなかった。
ただ彩を見ていた。
その目が、いつもより少し揺れていた。
揺れているのに、逸らさなかった。
彩も逸らさなかった。
二人は少しの間、真正面から見合った。
それだけだった。
それだけなのに、今日という日が、彩の中で小さく光った。
その週の金曜日、彩は局で遅くまで作業をしていた。
来月の番組改編に向けた構成の見直しで、机の上に資料が広がっている。
三浦が「ディレクター、今夜も遅い?」と顔を出したので「遅い」と答えると、「コーヒー置いていきます」と言って一杯置いていった。
作業が一段落した深夜、彩は椅子の背に寄りかかった。
窓の外の三月の夜を見ながら、今週の木曜日のことを思い返した。
今ここにいる神田さんを、私はちゃんと見ています——あの言葉を口にした瞬間のことを。
言いすぎたかもしれない、と思った。
思いながら、後悔はしていなかった。
言いすぎることと、言うべきことを言うことは、紙一重のところにある。
あれは言うべきことだったと、今でも思う。
ドアをノックする音がした。
「開いてます」
入ってきたのは三浦だった。
コートを着ている。
帰るところだったのか、でもソファに腰を下ろした。
「まだいたんですか」彩は言った。
「うん、ちょっと」三浦は彩を見た。
「なんか顔色いいね、最近」
「そうですか」
「うん。なんか、こう——」三浦は言葉を探した。
「前より、今ここにいる感じがする」
彩は少し止まった。
今ここにいる。
昨日、自分が諒に言った言葉と、同じだった。
「三浦さん、それどういう意味ですか」
「うまく言えないけど」三浦は天井を見た。
「前の藤沢さんって、いつもちょっと、どこか遠くを見ている感じがしてた。仕事はちゃんとしてるし、能力も高いし、でも何かこう、ガラス一枚向こうにいるような。それが最近、そのガラスがなくなった気がして」
彩は何も言わなかった。
「余計なこと言いましたか」
「いいえ」彩はコーヒーカップを持った。
「正直に言ってくれてありがとう」
三浦はしばらく彩を見ていた。それから立ち上がった。
「例の万年筆の人、でしょ」
彩はカップを置いた。
三浦は彩の返答を待たずに「お疲れ様です」と言って、ドアを閉めた。
足音が廊下を遠ざかっていった。
彩は三浦がいなくなったドアを見ていた。
否定しなかった。
肯定もしなかった。
でも三浦には、それで十分伝わったはずだ。
この男はいつもそうだ。
核心に触れて、でも追わない。
触れたことで十分だと知っている。
ガラス一枚向こうにいるような。
その言葉が、彩の中で静かに沈んだ。
ガラスがあることに、自分では気づいていなかった。
気づいていなかったガラスが、今はないと言われた。
それがいつからなくなったのか、彩にはわかっていた。
十二通目の手紙が届いたのは、三月の半ばだった。
藤沢さんへ。
先週、あなたが言ってくれた言葉を、何度も思い返しています。
「今ここにいる神田さんを、私はちゃんと見ています」
この言葉を最初に読んだとき、うまく受け取れませんでした。
受け取り方がわからなかった、というより——受け取っていいのかどうか、わからなかった。
私には美咲がいます。
いた、と書くべきかもしれませんが、今もいる気がしています。
心の中に、確かに。
その人がいる状態で、あなたの言葉をそのまま受け取ることが、誰かへの裏切りになるのではないかと思いました。
美咲への。
あるいはあなたへの。
でも何度も考えて、気づいたことがあります。
美咲はいつも、今を生きている人でした。
過去を引きずらず、未来を恐れず、今ここにあることだけを見ていた。
笑うのが得意だったのも、そういうことだったと思います。
今ここで笑える人だった。
あなたが「今ここにいる」と言ったとき、私は美咲のことを思いました。
似ていない、と書きました。
それは本当のことです。
でも今ここを生きるということにおいて、あなたと美咲は同じ場所にいる。
そのことが、私には不思議な静けさをくれました。
裏切りではない、と思えた。
それからもう一つ、正直に書きます。
手術のことを、少しずつ、考え始めています。
まだ決めていません。
でも以前より、遠いことではなくなってきました。
神田諒
彩は便箋を読み終えて、しばらく動かなかった。
美咲と自分が、同じ場所にいる。
その言葉の意味を、彩はゆっくりと受け取った。
美咲を消して自分が入る、のではない。
美咲がいた場所の隣に、彩がいる。
それは諒の中に、二人分の場所があるということだ。
悲しくなかった。
むしろ、不思議な安堵があった。
美咲がいることを、彩は今日から怖れなくていい。
美咲の存在は、彩の場所を脅かすものではない。
それどころか——美咲を深く愛した人間が、また誰かに言葉を送り始めた。
その事実の重さを、彩は今更のように感じた。
この人は、愛することをやめなかった。
声を失っても。大切な人を失っても。
便箋の最後の一行を、もう一度読んだ。
手術のことを、少しずつ、考え始めています。
彩は便箋を丁寧に折り、封筒に戻した。
返事を書こうと思った。
でも今夜はまだ、書かないことにした。
この手紙を、もう少し自分の中に置いておきたかった。
窓の外で、三月の風が鳴っていた。
春が来ようとしている音だと、彩は思った。
冬の終わりの風は、いつも少し急いでいる。
早く暖かくなろうとして、でもまだ冷たい。
その中途半端さが、今夜の彩には、どこか自分に似ていた。
まだ冷たいけれど、確かに春へ向かっている。
彩はやかんに水を入れながら、手術、という言葉を胸の中で静かに転がした。
怖い、と思った。
諒が怖いと書いていた声が戻った後の不用意さではなく——リスクがある、という医師の言葉が、彩の中で小さく光った。
成功するかもしれない。
でも、しないかもしれない。
その「しないかもしれない」が、今夜初めて、彩の中でリアルな重さを持った。
やかんが鳴り始めた。
彩は火を止めながら、静かに決めた。
諒が手術を選ぶなら、そのそばにいたい。
選ばないなら、選ばない諒のそばにいたい。
声が戻っても、戻らなくても——今ここにいるこの人の隣に、いたい。
それが全部だった。
それだけで、十分だった。




