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君の声が聞こえる場所 ――深夜ラジオに届いた手紙は、声を失った男からだった 声がなくても、届く言葉がある。沈黙にも、愛がある。  作者: かーすけ
美咲という影

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第十二話 驚かなかったことが答え

 美咲、という名前を、彩はしばらく誰にも言わなかった。

 言う必要がなかった、というより——言葉にすることで、何かが確定してしまう気がした。

 神保町の路地で受け取ったあの揺らぎを、まだ自分の中で動かしたままにしておきたかった。

 固定するには、まだ早い。

 でもその揺らぎは、日常の中で時々、不意に顔を出した。

 収録の帰り道、コンビニの棚の前で手が止まったとき。

 好きだと言いそうになって、その「好き」の向かう先を確認してしまうとき。

 木曜日が近づくにつれて、気持ちが前に傾いていくのを感じるとき——そのたびに、美咲という名前が、波紋のように広がった。

 この人の中には、まだ誰かがいる。

 その事実を、彩はもう一度、静かに確かめた。


 十一通目の手紙が届いたのは、神保町から一週間後だった。


 藤沢さんへ。

 先週、美咲のことを話しました。

 帰り道、話してよかったのかどうか、ずっと考えていました。

 あなたは「話してくれてありがとう」と言ってくれた。

 その言葉の受け取り方が、私にはまだわからないでいます。

 安心していいのか、申し訳なく思うべきなのか。

 ただ一つだけ、正直に書きます。

 美咲とあなたは、似ていません。

 声の仕事をしていること、深夜に一人で何かと向き合っていること、言葉を丁寧に扱うこと——そういう部分が少し重なることはあります。

 でも、あなたはあなたです。

 私がこうして手紙を書き続けているのは、あなたが美咲に似ているからではない。

 それだけは、伝えておきたかった。

 神田諒


 彩は便箋を読み終えて、台所のテーブルに置いた。

 美咲とあなたは、似ていません。

 この一文を、諒はどのくらい考えて書いたのだろう。

 何度書き直しただろう。

 彩には想像できなかったが、この一文が手紙の中で最も重い場所にあることは、読んだ瞬間にわかった。

 彩は立ち上がって、窓を開けた。

 二月の夜気が入ってきた。

 冷たかった。

 でも今夜はその冷たさが、頭を少し整理してくれる気がした。


 似ていない、と諒は書いた。

 彩はその言葉を受け取りながら、自分の中を確認した。

 嬉しい、という感触があった。

 あった、と認めてから、その感触の輪郭を丁寧に触ってみた。

 これは何だろう。美咲と比べられなかったことへの安堵か。

 それとも、諒が彩をきちんと別の人間として見ているという確認か。

 どちらでもあって、どちらでもないような気がした。

 強いて言えば——この人は誠実だ、という確信だった。

 亡くなった恋人を持つ人間が、新しく誰かと向き合おうとするとき、最も誠実な態度は何か。

 美咲を消すことではない。

 美咲との記憶を薄めることでもない。

 美咲は美咲で、藤沢彩は藤沢彩だと、はっきり書くことだ。

 この人はそれができる。

 その誠実さが、彩には何より深く届いた。

 揺らぎが、少し凪いだ。

 凪いだ、というのは揺らぎが消えたということではない。

 揺らぎはまだある。

 でもその揺らぎの中に、確かな場所が一つできた。

 嵐の中に、踏める地面が一つある。そういう感触だった。


 翌週の木曜日、公園に行くと諒がすでに来ていた。

 いつものベンチに座って、ノートを膝に置いていた。

 書いているのかと思ったが、近づくと書いていなかった。

 ただ膝の上に開いたノートを置いて、池を見ていた。

「待ちましたか」

 諒は首を振った。

 彩は隣に座った。

 今日は距離を、いつもより少し詰めた。

 意識してそうしたのではなかった。

 座ってから気づいた。

 諒も気づいているはずだが、何も言わなかった。


 しばらく、池を見ていた。

 二月の池は静かだった。

 水鳥が一羽、岸を歩いている。

 先週も同じ鳥がいた気がした。

 同じ鳥かどうかは確かめようがないが、彩はなんとなく、同じ鳥だと思うことにした。

「手紙、読みました」彩は言った。

 諒がこちらを向く。

「美咲さんのこと、もう少し聞いてもいいですか」

 諒は少し止まった。

 彩はそれを見て、聞きすぎたかと思った。

 でも取り消さなかった。

 聞かなくていいことは聞かないと、彩は自分で書いた。

 でも今日聞きたいのは——美咲を知りたいのではなく、諒が誰かをどう愛せる人間かを、知りたかった。

 諒はノートを取り上げた。ゆっくり書いた。


 美咲は、笑うのが得意な人でした。

 悲しいときも、怖いときも、笑って受け流せる人。

 私にはできないことでした。

 音楽が好きで、特に静かな音楽が好きで、レコード店には二人でよく行っていました。

 事故の日も、帰りにあの店に寄ろうと話していました。


 彩はノートを読んだ。

 読みながら、胸に静かな痛みがあった。

 事故の日も、帰りにあの店に寄ろうと話していた。

 それが叶わなかった。

 諒が一人で何度もあの店に通ったのは、そういうことだったのか。

「神田さんは」彩はゆっくり言った。

「あの店に一人で行くたびに、美咲さんのことを思い出しながら聞いていたんですね」

 諒は少し考えてから、頷いた。

「それでも行き続けた」

 また、頷いた。

「それは」彩は言葉を選んだ。

「美咲さんへの、手紙みたいなものだったのかもしれない」

 諒は顔を上げた。

 彩を見た。

 その目に、何かが動いているのがわかった。

 動いて、揺れて、でも溢れなかった。

 この人は泣かないのだろうと、彩はその目を見ながら思った。

 泣けない、ではなく——泣くことを、どこかで自分に許していない。

 諒がノートに書いた。


 そうかもしれません。

 考えたことがなかった。

 でもそうかもしれない。


「手紙は、届いていたと思います」

 彩は言った。

 根拠はなかった。

 でも言いたかった。

 言いながら、これは美咲への言葉であると同時に、諒への言葉でもあると思った。

 届かないかもしれない場所に、それでも言葉を送り続けること。

 その行為の誠実さを、彩は誰より知っていた。

 諒はしばらく、ノートを見ていた。

 それから顔を上げて、池の方を向いた。

 二人の間に、静かな時間が流れた。


 美咲の話をした後の沈黙は、いつもの沈黙より少し深かった。

 でも重くはなかった。

 深い、ということと重い、ということは違う。

 井戸の深さが、水の重さではないように。

 水鳥がまた岸を歩き始めた。

 彩はその鳥を見ながら、今日自分が諒に聞いたことを振り返った。

 美咲を知りたかったのではない、と思っていた。

 でも今は少し違う気がした。

 美咲を知ることで、諒を知った。

 誰かをどう愛したか。

 その人を失ってどう生きたか。

 それでも言葉を送り続けたか。

 その全部が、今目の前にいる神田諒という人間を作っていた。


 美咲は、障害ではなかった。

 この人の誠実さの、根っこにある人だった。

 彩はその事実を、静かに、丁寧に、自分の中に収めた。

 収めながら、胸の奥の熱が、揺らいだ後でむしろ前より強くなっていることに気づいた。

 揺らいだから、消えなかった。

 揺らぎに耐えたから、本物だとわかった。


 帰り道、彩は駅のホームで電車を待ちながら、ふと思った。

 諒は美咲への手紙として、あの音楽を聞き続けた。

 では彩にとって、あの深夜番組は何だったのか。

 仕事だ、とすぐに答えが出た。

 でもその答えの下に、もう一つの答えがあった。

 父親の台所のラジオ。

 日曜日の朝の匂い。

 届くかどうかわからないのに出ていく声。

 自分もずっと、誰かに届けようとしていた。

 届いていますか、と問いながら、声を出し続けていた。

 諒の手紙が来るまで、それが誰に届いているかを、彩は確かめたことがなかった。


 電車が来た。

 扉が開く。

 彩は乗り込みながら、今夜初めてはっきりと思った。

 好きだ、と。

 誰にも言わなかった。

 声にも出さなかった。

 でも、その言葉が自分の中から出てきたとき——彩は少しも驚かなかった。

 驚かなかったことが、答えだった。

 ずっと、そこにあったのだと思った。

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