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君の声が聞こえる場所 ――深夜ラジオに届いた手紙は、声を失った男からだった 声がなくても、届く言葉がある。沈黙にも、愛がある。  作者: かーすけ
沈黙の言語

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12/18

第十一話 神保町の古いレコード店で

 待ち合わせは、神保町の交差点だった。

 木曜日の午後二時。

 彩が地下鉄の出口を上がると、諒がすでに来ていた。

 コートのポケットに両手を入れて、交差点の向こうを見ている。

 彩が近づくと気づいて、いつものように小さく頷いた。

「遠いんですか、ここから」

 諒は首を振った。スマートフォンを取り出した。


 歩いて五分です。


 二人で歩き始めた。

 神保町の街は古本屋が軒を連ねていて、どの店の前にも棚が出ている。

 背表紙が並ぶ光景を、彩は歩きながら眺めた。

 知っている街ではあるが、目的もなく歩いたことはなかった。

 諒の歩幅に合わせて歩く。

 その速度が、今日はいつもより遅かった。

 遅い理由がわかった。

 諒は歩きながら、両側の本屋の棚を見ている。

 本を探しているのではなく、確かめるように、一軒ずつ見ながら歩いていた。

 この道を、一人で何度も歩いてきたのだろうと彩は思った。


 路地を一本入ると、街の音が遠くなった。

 古い雑居ビルの一階に、小さなレコード店があった。

 手書きの看板に「音盤堂」とある。

 ガラス戸の向こうに、レコードが壁一面に並んでいるのが見えた。

 諒がドアを開けた。

 店内に入った瞬間、空気が変わった。

 外の十二月とは別の時間が、ここにはあった。

 古いレコードの匂い。

 紙とビニールと、埃の層が重なった匂い。

 天井から小さなスピーカーが吊るされていて、何かが低い音量で流れている。

 ジャズだった。

 音数が少ない、静かな演奏。

 店主らしい老人が奥でレコードを仕分けしていた。

 諒に気づいて、小さく顎を引いた。

 常連と店主の間にある、言葉のいらない挨拶だった。

 諒は彩をレコードの棚の前に連れていった。

 ジャズのコーナーだった。

 諒は一枚を取り出して、彩に渡した。

 古いジャズのアルバムで、モノクロの写真がジャケットになっている。

 ピアニストが鍵盤に向かっている後ろ姿。

「誰ですか」彩は小声で言った。

 諒はスマートフォンに打ち込んだ。


 ビル・エヴァンス。

 声を失ってから、よく聞いていました。

 音数が少ないのに、沈黙が豊かで。


 彩はジャケットの写真を見た。

 後ろ姿のピアニストは、鍵盤に少し前傾みになっている。

 その姿勢が、諒の立ち方に似ていると彩は思った。

 内側に向かっているような、でも確かにそこにいる姿勢。

「音数が少ないのに、沈黙が豊か」彩は繰り返した。

「それ、神田さんの手紙みたいです」

 諒は少し止まった。

 それからノートを取り出して、書いた。


 そう言われたのは、初めてです。


「本当のことだから」

 諒はノートを閉じた。

 閉じる前に、その一言の下に何か書きかけて、止めた。

 書きかけた言葉が何だったのか、彩にはわからなかった。

 でも止めたことは、見えた。

 止めた言葉が、ノートの中に残っている。

 彩はそれを聞かなかった。


 しばらく二人で棚を見て回った。

 諒は時々一枚を取り出して、彩に渡した。

 彩が受け取って、ジャケットを見て、返す。

 言葉は少なかった。

 でも棚の前に並んで、同じものを見ている時間が、彩には心地よかった。


 店の奥に小さな試聴コーナーがあった。

 椅子が二脚と、古いターンテーブルがある。

 諒がビル・エヴァンスのアルバムを持って、店主に目で問いかけた。

 店主が顎を引く。諒がレコードを盤に乗せた。

 針が落ちる。

 音が出た。

 ピアノの音だった。

 最初の一音が、思ったより柔らかかった。

 硬い音を想像していたが、違った。

 丸みがあって、でも輪郭が確かにある。

 一音鳴るたびに、その余韻が次の音が来るまで空気の中に浮いていた。

 彩は目を閉じた。

 音と音の間にある静けさを、彩は聞いた。

 沈黙が豊か、と諒は書いた。

 その意味が、今わかった。

 音符の外側に、もう一つの音楽がある。

 鳴っていない時間が、鳴っている時間と同じだけ語っている。

 隣で、諒も聞いている。

 目を閉じているかどうか、彩は確かめなかった。

 確かめなくても、この音楽を今、同じように聞いていることがわかった。

 一曲が終わった。

 彩は目を開けた。

 余韻が空気に残っている。

 彩はその余韻の中で、この場所を諒が一人で来ていた時間を想像した。

 声を失ってから、何度もここへ来て、この椅子に座って、この音楽を聞いていた。

 その時間がどれほど静かで、どれほど孤独で、それでもここへ来ることが諒の何かを保っていたか。

 胸の奥が、静かに痛かった。

 痛い、という感触を、彩は久しぶりに感じた。

 自分が傷つく痛さではなく、誰かの時間を想像して痛い——そういう痛さを、彩はいつから感じなくなっていたのだろう。

 諒がスマートフォンを取り出した。


 どうでしたか。


「良かったです」と言いかけて、彩は日本語を探した。

「ここへ、よく来ていたんですね」

 諒は頷いた。

「一人で」

 また、頷いた。

「今日、連れてきてくれてよかった」

 諒は少し間を置いてから、スマートフォンに打ち込んだ。


 一人で来るより、良かった。

 あなたと聞いた方が、音が違って聞こえました。


 彩は画面を見た。

 音が違って聞こえる。

  同じレコードで、同じ針で、同じスピーカーから出ているのに——隣に誰かがいるだけで、音が変わる。

 その「誰か」に、自分がなっていることが、彩の中で静かに、でも確かに響いた。


 帰り際、店を出ると冷たい空気が戻ってきた。

 路地を歩きながら、諒が立ち止まった。

 彩も止まった。

 諒がノートを取り出した。

 立ち止まって、路地の中で書いた。

 書きながら、少し手が止まった。

 それからまた書いて、彩に渡した。


 一つ、話しておきたいことがあります。

 美咲のことです。

 亡くなった、私の恋人です。

 今日、この店に来て、あなたと音楽を聞いていたとき——美咲もこの音楽が好きだったことを、思い出しました。

 あなたに話しておきたかった。

 隠しておくことが、あなたへの誠実さに欠ける気がして。

 不快にさせたなら、すみません。


 彩はノートを持ったまま、少しの間動かなかった。

 美咲。

 その名前が、路地の冷たい空気の中に、静かに立った。

 不快ではなかった。

 不快とは全く違うものが、彩の中にあった。

 でもそれが何なのかを、すぐには整理できなかった。

 温かさと、少しの揺らぎと——何か別のものが、混ざっていた。

 彩はノートを諒に返した。

 諒は彩の表情を、静かに読もうとしていた。

 申し訳なさと、でも話してよかったという確信と、その両方が諒の目にあった。

「話してくれてありがとう」

 彩は言った。

 それだけ言った。

 それ以上は言わなかった。

 今夜は、それで十分だと思った。

 諒は小さく頷いた。


 二人はまた歩き始めた。

 神保町の交差点まで戻って、地下鉄の入り口のところで別れた。

 電車に乗り、座席に座ってから、彩は窓の外の暗いトンネルを見た。

 美咲、という名前が、まだ胸の中にあった。

 不快ではない。でも——何かが、少し変わった。

 変わった、というより、今まで見えていなかったものが、見えてきた感触。

 この人の中には、まだ誰かがいる。

 その誰かを、彩は今日初めて、輪郭として感じた。

 揺らぎ、と呼ぶのが正確かもしれなかった。

 彩はその揺らぎを、打ち消さなかった。

 打ち消すより、持ったまま帰る方がいいと思った。

 揺らいでいることを、自分に許した。


 電車が駅に滑り込む。

 扉が開いて、冷たい空気が入ってくる。

 彩は立ち上がりながら、今日の音楽を思い出した。

 音と音の間にある、豊かな沈黙。

 鳴っていない時間が語ること。

 美咲という名前も、今夜は沈黙の中に置いておこうと思った。

 まだ、言葉にしなくていい。

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