第十話 この人の重さを半分こちらに
その日、諒が公園に来たのはいつもより遅かった。
彩がベンチに着いてから十五分ほど経って、諒が公園の入り口から歩いてくるのが見えた。
いつもより歩幅が狭い。
コートの襟を立てて、少し前傾みになって——それはいつものことだが、今日はその前傾みの角度が、違った。
疲れている、と彩は思った。
思ったというより、見た瞬間にわかった。
「寒かったですか」
諒が来ると、彩は言った。
諒は首を振った。
スマートフォンを取り出した。
待たせてすみません。病院に寄ってきました。
「体調が悪いんですか」
定期検診です。声帯の。
彩は少し間を置いた。
声帯、という二文字が、画面の中で静かに重さを持っていた。
「そうですか」
彩は言った。
それ以上は聞かなかった。
諒はベンチに座った。
いつも彩との間に少し距離を置くのだが、今日はその距離が、心なしか近かった。
気のせいかもしれない。
でも彩は気のせいにしなかった。
池を見ながら、しばらく黙っていた。
十二月の池は、夏や秋より静かだ。
水鳥の数も減り、水面の揺れも穏やかになる。
世界が少し内側に向かっていくような、そういう静けさ。
諒がノートを取り出した。
書いて、彩に渡した。
病院の帰り道はいつも、少し気持ちが重くなります。
悪い結果が出るわけでもないのに、なぜか。
自分の声帯のレントゲン写真を見るたびに、あそこに声があったんだと思い出すから、かもしれません。
彩はノートを読んだ。
読み終えて、膝の上に置いた。
返す言葉を考えた。
慰めは違う。
励ましも違う。
この人が今必要としているのは、言葉ではないかもしれない。
彩はただ、池の方を向いたまま言った。
「私も、たまに自分の声を聞いて、変な感じがすることがあります。録音した自分の声って、違和感があるじゃないですか。あれ、本当に私の声なのかって。声って、自分のものなのに、一番自分から遠い気がして」
諒は何も打ち込まなかった。
でも彩の言葉を、受け取っていた。
それは気配でわかった。
諒がこちらに意識を向けているとき、二人の間の空気が少し変わる。
変わる、というより——密度が上がる。
その感触を、彩はここ数週間で覚えていた。
「うまく言えないけれど」彩は続けた。
「声があることと、声が届くことは、別のことだと思う。神田さんの言葉は、ちゃんと届いています。今もここで」
諒はしばらく黙っていた。
それからゆっくりノートを取り上げ、万年筆で一行書いた。
ありがとうございます。
今日、ここに来てよかった。
彩はその文字を見た。
ありがとうございます、は諒がよく書く言葉だ。
でも今日のそれは、いつもより筆圧が低かった。
丁寧に、でも力を抜いて書かれた文字。
力を抜けるようになった、ということかもしれない、と彩は思った。
帰り際、公園の出口まで並んで歩いた。
道が分かれるところで、諒が足を止めた。
いつもの場所だ。
いつもなら会釈して別れる。
でも今日、諒は少しだけ躊躇った。
躊躇いが、わかった。
諒がスマートフォンを取り出した。
来週も、来ますか。
毎週来ている。
それは二人ともわかっている。
それでも諒は聞いた。
彩はその問いの意味を、ちゃんと受け取った。
来週も会いたい、という言葉の代わりに、来週も来ますかと書いた。
直接言えないのではなく、こういう言い方をする人なのだと、彩は今なら知っている。
「来ます」彩は言った。
「来週も、その次も」
諒は頷いた。
会釈して、左へ歩き始めた。
彩は右へ曲がりながら、さっきのベンチでの時間を思い返した。
病院の帰り道に寄ってきた、と諒は書いた。
気持ちが重くなる、と書いた。
それでも来た。
重い気持ちのまま、ここへ来た。
そのことが、彩の中でじわりと温かかった。
重いときに、来る場所になっていた。
自分たちのあの場所が。
それは気遣いとは、少し違うものだった。
年が明けた。
元日を彩は一人で過ごした。
実家には帰らなかった。
母親から電話が来て、短く話した。
父親は相変わらずラジオが好きで、正月もNHKをつけているらしかった。
それを聞いて、彩は少し笑った。
三が日が明けると、街はすぐに日常に戻った。
東京の正月は短い。
人の流れが戻り、電車が混み始め、局も四日から動き始めた。
九通目の手紙が届いたのは、仕事始めの週だった。
藤沢さんへ。
年末年始は静かでした。
人が減った街というのは、普段とは別の音がする。
遠くの音が近く聞こえて、近くの音が遠くなる。
そういう音の入れ替わりが、毎年少し好きです。
一つ、伝えようかどうか迷っていたことがあります。
昨年の暮れ、病院で医師から話がありました。
声帯の状態について、手術という選択肢があると。
成功すれば声が戻る可能性がある。
ただし確率は高くない。リスクもある。
今すぐ決める必要はないと言われましたが、考えてほしいと言われました。
あなたに話すかどうか、年末ずっと迷っていました。
迷った末に書くことにしたのは、あなたが「聞かなくていいことは聞かない」と手紙に書いてくれたからです。
聞かないと決めている人になら、話せると思いました。
まだ、決めていません。
神田諒
彩は便箋を膝の上に置いた。
手術。
その言葉が、静かに、でも確かな重さで彩の中に落ちた。
声が戻るかもしれない。
でも確率は高くない。リスクもある。
彩は窓の外を見た。
一月の空は高く、青かった。
雲一つない青さで、その清潔な青さが今は少し、残酷な気がした。
迷った末に書いた、と諒は書いた。
年末ずっと迷っていた。
それはあの木曜日、病院の帰りに公園に来た日のことだ。
気持ちが重かったのは、そういうことだったのか。
彩はあの日の諒の歩幅を思い出した。
いつもより狭い歩幅。
コートの前傾みの角度。
あの重さの中に、この知らせがあった。
それでも来てくれた。
彩はしばらく、手紙を手に持ったまま動かなかった。
考えていることがあった。
でもそれを言葉にするには、まだ時間が必要だった。
今すぐ答えを出す必要はない。
諒自身が、まだ決めていないと書いている。
ただ一つだけ、はっきりしていることがあった。
どちらを選んでも、それはこの人の選択だ。
声が戻ることを、彩は望む。
でもそれは彩の望みであって、諒の選択の理由にはなれない。
なってはいけない。
その区別を、彩は静かに、自分の中に置いた。
木曜日、公園で諒に会った。
二人でベンチに座り、しばらく池を見ていた。
手紙のことは、どちらから言い出すでもなく、自然に話題になった。
「手紙、読みました」彩は言った。
「話してくれてよかった」
諒は頷いた。
「一つだけ聞いていいですか」
諒がこちらを向く。
「怖いですか」
諒は少し考えた。スマートフォンではなく、ノートを取り出した。ゆっくり書いた。
怖いです。
手術が、ではなくて。
声が戻ったとして、その声で最初に何を言うかを考えると、怖い。
二年間、言葉を書いてきた。
書くことで、伝えられることだけを伝えてきた。
声が戻ったら、考える前に言葉が出る。
その不用意さが、怖い。
彩はノートを読んだ。
読みながら、胸の中で何かが静かに動いた。
この人は声を恐れている。
自分の声を。
取り戻すことを願いながら、同時に、取り戻した先にある不用意さを怖れている。
それはとても、この人らしいと彩は思った。
丁寧に言葉を選んできた人間が、選べなくなることへの怖さ。
「神田さん」
諒がこちらを向く。
「声が戻っても、あなたはあなたですよ」
諒は彩を見た。
「二年間、書いてきた言葉は、なくならない。声が出るようになっても、この人は同じように言葉を選ぶ人だと、私は思っています」
諒はしばらく、彩を見ていた。
それからノートに、短く書いた。
なぜそう思うんですか。
「わからない」彩は言った。
「でも、わかります」
矛盾した答えだった。
でも諒は不思議と、それ以上を求めなかった。
ノートを閉じて、池の方を向いた。
並んで、冬の池を見ていた。
風が来た。
彩はコートの前を合わせた。
その動作のついでのように、自然に、二人の距離が少し縮まった。
縮まったことに、どちらも触れなかった。
触れないまま、二人は並んでいた。
一月の光の中で。
二月になった。
局の近くの梅が咲き始めた。
彩は出勤のたびにその木の前を通った。
梅の花は桜より小さくて、でも桜より先に咲く。
寒い中で先に咲く、その律儀さが彩は好きだった。
この頃から、彩の中で何かが変わっていた。
変わった、とはっきり言えるほど劇的なことではない。
ただ——木曜日以外の日に、諒のことを考えていることが増えた。
たとえば、局の帰り道に変わった形の雲を見たとき。
これを、神田さんに話したい。
そう思って、二、三歩歩いてから、気づいた。
話したい、という衝動の向かう先が、気づけばいつも同じ人になっていた。
たとえば、深夜の編集作業中に気に入った音の組み合わせが偶然できたとき。
たとえば、コンビニで見慣れない種類の栗の菓子を見つけたとき。
たとえば、電車の窓から夕暮れの富士山が見えたとき。
こういうとき、以前の彩は誰かに話したいと思わなかった。
いいものを見つけても、面白いものに出会っても、それは自分の中に仕舞い込んでおく人だった。
誰かと共有する習慣が、いつの間にか彩にはなくなっていた。
それが今、行き先を持っていた。
彩はある夜、その事実を確認して、少しの間台所に立ち尽くした。
お湯が沸いているのに、ティーバッグを入れるのを忘れていた。
木曜日、二人がいつものベンチに座っていると、諒が公園の梅の木を指さした。
彩は頷いた。
「咲き始めましたね。局の近くにも一本あって、毎朝通っています」
諒がノートを出した。
梅は律儀な花だと思います。
桜が来る前に、寒い中で先に咲く。
誰も期待していない時期に、一人で咲いている。
彩は少し笑った。
「私も同じことを思っていました、この花を見て」
諒は目を細めた。
同じことを考えていた、という事実が、二人の間で静かに温かかった。
このところ、こういうことが増えていた。
別々の場所で別々に何かを見て、木曜日に会うと、同じことを感じていたとわかる。
その一致が来るたびに、彩は小さく驚いて、そして温かくなった。
諒がまたノートに書いた。
一つ、お願いがあります。
来週、別の場所で会えますか。
案内したい場所があります。
彩は顔を上げた。
諒はノートから目を上げて、彩を見た。
少し、緊張しているように見えた。
この人が緊張しているときの表情を、彩はもう知っている。
目の端が、わずかに固くなる。
「どこですか」
行ってからのお楽しみで。
それを読んで、彩は少し驚いた。
諒がこういう言い方をするのは、初めてだった。
「行ってからのお楽しみ」という軽みは、これまでの諒の言葉にはなかった質感だ。
それがこの人の中に生まれていることが、彩には嬉しかった。
「わかりました」
彩は言った。
「楽しみにしています」
諒は頷いた。
目だけで、笑った。
その夜、彩は帰宅して、コートを脱ぐ前に郵便受けを確認した。
十通目の手紙が入っていた。
今日会ったばかりなのに、という感触があった。
でもその感触が、温かかった。
会った日にも書く。
会えない日にも書く。
この人にとって手紙は、会うこととは別の回路で動いている。
封を切って、読んだ。
藤沢さんへ。
来週、案内したい場所があります。
手紙でも書きましたが、もう一度書きたくなりました。
その場所は、私が声を失ってから、一人でよく行っていた場所です。
誰かを連れていったことはありませんでした。
あなたを連れていきたいと思ったのは、なぜかわかりません。
ただ、あなたと一緒に、あの場所の音を聞いてみたかった。
それだけです。
神田諒
彩は便箋を胸に、少し押し当てた。
意識してそうしたのではなかった。
気がついたら、そうしていた。
誰かを連れていったことはなかった、とこの人は書いた。
それがどれほどのことか、彩にはわかった。
声を失ってから二年間、一人で行き続けた場所。
そこへ連れていきたいと思った、と書いた。
胸に当てた便箋の薄さを、彩は感じていた。
一枚の紙に、どれほどのものが宿るのか。
彩はコートを脱ぎながら、自分の感情に、そっと触れてみた。
触れて、確かめた。
これは気遣いではない。
気遣いはもっと、外側にあるものだ。
相手を思って、相手のために何かをする。
それは彩にもある。
でも今、胸の中にあるのは——もっと内側にある、何か。
この人が一人で抱えてきたものを、自分も一緒に抱えたい。
この人が一人で聞いてきた音を、隣で聞きたい。
この人の重さを、半分こちらに寄越してほしい。
そういう感情だった。
彩は台所に行き、やかんに水を入れた。
火をつけながら、窓の外の二月の夜を見た。
梅の木は見えないが、今夜もどこかで律儀に咲いているだろう。
誰も期待していない時期に、寒い中で、一人で。
お湯が沸き始める音が聞こえた。
彩はそれを聞きながら、自分の中に生まれたものを、まだ言葉にしなかった。
言葉にしなくても、それはもうそこにあった。
名前をつけなくても、その感触は確かで、温かく、少し怖かった。
怖い、と思うことが——むしろ、その感情の本物さを証明していた。




