序章 「深夜零時の周波数」
スタジオの照明を落とすのは、いつも彩の役目だった。
パーソナリティの三浦が「お疲れ」と手を振って廊下に消え、アシスタントの子が小走りで追いかけていったあと、彩は一人で編集ブースに残る。
それが習慣になったのは、深夜番組『音の縁側』を担当し始めた三年前からで、理由を聞かれたことはなかったし、自分でも言葉にしたことがなかった。
ただ、この時間が必要だった。
放送が終わった直後の空気というのは、独特の質感を持っている。
誰かの声が溶け込んだまま冷えていくような、あるいは言葉の残滓が壁に染みついたまま静止しているような——そういう感触を、彩はブースの椅子に座って毎週確かめた。
仕事だから続けているのか、それとも続けているから仕事になっているのか、三十二歳になった今もよくわからない。
机の上に、封筒が一通あった。
局の受付から上がってきた、リスナーからの手紙だ。
住所の欄に几帳面な筆跡で「神田諒」とあるのを、彩は何度も見ていた。
最初に届いたのは、秋が始まろうとしている頃だった。
それから数えると、もう七通になる。
封を切るわけでもなく、彩はただその封筒を手のひらに載せた。
薄い。
いつもそう思う。
彼の手紙は短い。
原稿用紙一枚に満たない文字数で、毎週一つのことだけを書いてくる。
番組への感想でも、リクエストでも、近況報告でもない。
強いて言えば——彩はうまく説明できないのだが——音について書いてある、とでもいうべき手紙だった。
音そのものではなく、音の周囲にある何かについて。
コーヒーカップに手を伸ばしたが、もう冷えていた。
窓の外では、高速道路の灯りが滲むように流れている。
深夜零時を過ぎたスタジオの周辺には、それ以外に動くものがない。
彩はしばらくその光を見ていた。
誰かが今夜もどこかへ向かっている。
行き先があって、速度があって、でもここからは音が届かない。
七通目の封筒を、そっと開けた。
便箋は一枚。
万年筆で書かれた文字は、丁寧だが決して流麗ではない。
少し力を込めすぎているような、慎重すぎるような筆跡——彩はそれを見るたびに、この人は書くことに慣れていないのではなく、書くことに慣れすぎることを恐れているのだと感じた。
根拠はない。ただそう思った。
手紙には、こうあった。
先週の放送の、最後の沈黙についてです。
三浦さんが次の曲を紹介する前の、おそらく二秒か三秒の間のことです。
意図されたものかどうか、わかりません。
でも私はあの二秒か三秒のあいだ、自分がどこにいるのかを忘れました。
部屋でも、夜でも、一人でもなく——ただそこに、音が来る前の空気だけがありました。
それをあなたに伝えたくて、書きました。
神田諒
彩は便箋を膝の上に置き、天井を見た。
三浦があの間を意図したかどうか、彩は知っている。
知っているというより、あれは三浦が前の曲に聞き入りすぎて次の原稿に目を落とすのが遅れた、単純なミスだった。
放送後に三浦自身が「ちょっと間が空きすぎたな」と苦笑いしていたのを、彩はよく覚えている。
でも神田諒はあの二秒か三秒に、何かを聞いた。
彩はその夜、帰りの電車の中で何度もその一文を頭の中で繰り返した。
自分がどこにいるのかを忘れました。
それが羨ましいのか、悲しいのか、判断がつかなかった。
自分がどこにいるのかを忘れた経験が、彩にはずいぶん長いあいだない。
電車の中でも、スタジオでも、一人の部屋でも——彩は常に、ここにいる自分をきちんと意識している。
地に足がついている、と言えば聞こえはいいが、それはつまり、浮かんだことが一度もないということでもある。
誰かの声が聞こえた気がして、彩は顔を上げた。
でもブースには誰もいない。
廊下も静かだ。窓の外の高速道路の灯りだけが、相変わらず音もなく流れている。
彩は立ち上がり、照明のスイッチに手を伸ばした。
この夜から数えて、まだ四ヶ月も経っていない。
あの人の顔を知ることになるのも、その沈黙の重さを初めて正面から受け取ることになるのも、全部これからのことだ。
でも今の彩には、そのどれも知る術がない。
スイッチを落とすと、ブースが暗くなった。
窓の外の灯りだけが残る。
彩はしばらくそこに立って、高速道路の光の流れを見ていた。
誰かの声が、誰かのもとへ届いている夜。
自分にはまだ聞こえない、どこか遠い周波数の話。
そう思いながら、彩はドアを閉めた。




