表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
一目惚れしたパン屋の娘に理性を狂わされる。冷徹貴族の隠しきれない恋心。  作者: 逆立ちハムスター


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

4/6

4

 完璧な計画のはずだった。

 領主アリアスではなく、一人の男としてテッサに近づく。恋愛のプロとして培った「落とすための技術」を封印し、誠実な常連客として一歩ずつ信頼の土壌を耕す。それが、彼女の純粋さを損なわずにその心を手に入れる、最も確実な遠回りであると、俺は結論づけたのだ。


 そして俺は、普段の仕立ての良い上着を脱ぎ捨て、クローゼットの奥に眠っていた、変装用の古びた麻のシャツと、色の褪せたズボンに身を包んだ。

 鏡に映る自分は、どこからどう見てもしがない平民……に見えるはずだった。


……よし。これで俺がロドキス領の当主だと気づく者はいないだろう。


 だが、俺は失念していた。

 二十数年かけて骨の髄まで叩き込まれた「貴族の所作」というものは、ボロ布を纏った程度で消せるものではないということを。


 翌日、昼下がりのマルザの店。

 俺は行列の中に並んでいた。周囲は陽気な下町の住人たちだ。

 だが、どうも様子がおかしい。

 

 俺が背筋を伸ばし、顎を引いて「待機」しているだけで、前後の客がじりじりと距離を置く。まるで、汚れた路地裏に場違いな白馬が迷い込んだかのような、奇妙な静寂が俺の周りにだけ停滞していた。

 

 そんな折、店の入り口付近で警備に当たっているフェリックとログナーの雑談が聞こえてきた。


「なあ、フェリック。ここのパン、本当に美味すぎるな。道理で、小麦粉を盗もうとする奴が出てくるわけだ。ハッハッハ」

「まったくだ。だが本当にそう思う輩がいそうだから、気をつけないとな……。ん?」


 フェリックの鋭い視線が、行列を舐めるように動く。そして、俺のところでぴたりと止まった。

 

(よし、二人とも、パン好きの衛兵感はバッチリだ。そしてフェリック。よくぞ目を光らせている。その調子で、怪しい奴を逃すなよ……)

 

 俺は内心で部下を褒め称えながら、周囲に「怪しい奴」が紛れ込んでいないか探った。ロドレス卿の放った刺客か、あるいは執着心の強い商売敵か。

 フェリックとログナーが、抜き足差し足でこちらへ迫ってくる。列の住人たちが「関わりたくない」と言わんばかりに、ひそひそと囁き合いながら散っていく。

 

「おい、そこの怪しい奴。動くな」


 ログナーの太い声が響く。俺は咄嗟に身構え、周囲を見渡した。


怪しい奴だと!? まさか、この列の中にロドレス卿の私兵が紛れ込んでいるのか! 私でも気がつかなかったというのに、まったく、大したものだ。


有能な部下の誇らしさを噛み締めながらも俺は気になって仕方がなかった。……それで、その怪しい奴は、一体どこにいるんだ。


 俺が真剣な面持ちで周囲を見渡しているとと、フェリックとログナーは顔を見合わせた後、呆れたような、それでいて確信に満ちた目で俺を指差した。


「何をキョロキョロしている。お前のことだ」

「えっ!?」


 俺は絶句した。この俺が? 変装の極致にあるこの俺が「怪しい奴」だと!?

 まずい。ここで騒ぎになれば、テッサに正体が割れるどころか、変質者として通報されかねない。俺は喉を絞り、必死に声色を変えて取り繕った。


「ま、待ってくれ……。俺、いや私は断じて怪しい奴ではない。ただの、パンを愛するしがない市民だ」


「……その声は……か、閣下!? どうしてそんな格好を!?」


 フェリックが声を潜め、戦慄した表情で詰め寄ってくる。

 

「しっ! 声が大きい! ……こっちへ来い!」


 俺は二人をひっ掴むようにして、近くの薄暗い裏路地へと引きずり込んだ。


「か、閣下……一体何をなさっているのですか。それに、そのボロ布は」

「これは……その……変装だ。民の生活をより深く知るための、視察の一環だ」


「俺たちを、信用していないんですか? 警備に不備があると?」


 ログナーが傷ついたような顔で俺を見る。

 

「いや……そうではないんだ。俺はただ……」


 言い淀む俺の前に、休憩を終えたらしいマレリアが、ひょいと顔を出した。彼女は俺の姿を上から下まで眺めると、ぷっと吹き出した。


「閣下はテッサが気になっていらっしゃるだけよ。心配で自分も見にいらしたんでしょ?」


マレリア! 余計なことを……!


 俺の狼狽をよそに、ログナーが深く頷いた。


「ふむ、なるほど。確かに、あのパンは美味すぎる。その秘密を知りたくなるのも無理はない」


「そうか、彼女の才能は既に街の経済を支える重要な人材となっている。閣下が、その源泉を酷く気にかけるのも、無理もないことだ」


「はいはい、そうでしょ。納得したところで、あんた達、さっさと仕事に戻るわよ。パンが売り切れる前にね」


 マレリアに背中を押され、半ば強引に仕事へ戻されるログナーとフェリック。

 一人残ったマレリアは、去り際、俺の側で意地悪く囁いた。


「閣下。次は吟遊詩人のカインにでも、少し演技の指導を習ってみては如何です? その立ち姿、隠しきれない高貴さが漂いすぎて、逆に不審者感、極まってますよ。では」


 マレリアが笑いながら去った後、俺は壁に頭を預けて深いため息をついた。


 恋愛のプロ? 笑わせるな。部下にすら見破られる、三流役者ではないか。


 結局、俺はほうほうの体で再び列に並び直し、ようやくカウンターまで辿り着いた。

 目の前には、小麦粉で鼻の頭を白くしたテッサがいた。


「お待たせしました! ……あら?」


 彼女が俺の顔を覗き込む。心臓が、執務室での公務中には決して見せない速度で鼓動を刻む。


「あの……どこかでお会いしましたか?」

「い、いや。昨日、一度買いに来ただけだ」

「ああ! そうでしたか。……でも、今日はお疲れなんですか? なんだか、すごく大変な目に遭ったようなお顔をしてます」


 彼女は心配そうに眉を下げると、棚の奥から少し大きめの、黄金色に輝くパンを取り出した。


「これ、試作なんですけど。食べると元気が出る魔法をかけておきました! サービスです。頑張ってくださいね、お客さん!」


 屈託のない笑顔と共に差し出された、温かいパン。

 

 貴族社会において、「無償の提供」には必ず裏がある。権力への諂いか、将来への投資か。だが、彼女のこのパンには、俺の身分も財産も関係ない。ただ「疲れ果てた一人の客」に向けられた、純粋な善意。

 

 ……完敗だ。

 

 俺が一生をかけて積み上げてきた、打算的な恋愛のテクニックなど、この一個のパンの前では無力に等しい。

 俺は震える手でそのパンを受け取り、彼女の笑顔を瞳の奥に焼き付けた。


(テッサ……。君は、俺の心をどれだけ買収すれば気が済むんだ)


 店を出た俺の胸の中には、先ほどまでの自己嫌悪を塗り潰すような、狂おしいほどの愛しさが溢れていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ