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折れた羽ペンの先から、黒いインクがじわりと羊皮紙を汚した。
俺としたことが。
執務室のソファに深々と腰掛け、扇を弄んでいるのは、我が妹ミカーラだ。彼女は兄である俺に似て、人の心の裏側を覗き見る悪癖がある。
「……はぁ。また文通の返事がないわ。殿方って、なぜ『承知した』の一筆すら届けられないのかしら? 指の骨が腐り落ちてでもいるの?」
俺は汚れた羊皮紙を傍らに除け、努めて冷静に答えた。
「公務、お疲れ、ミカーラ。その騎士はきっと、脳内の『洞窟』に籠もって、無意味な狩りか御前試合の空想で精神の浄化作業中なんだよ。そこに『追い文』なんて投下してみな? 領地の門を鉄格子で固く閉ざされるぞ」
「出た、男の『巡礼期間』。都合のいい言葉よね。女はね、返信の速さを『私への忠誠度』だと思ってんの。それを無視するのは、自分の爵位を剥奪させてるって自覚、男にはないのかしら。兄様だって、婚約者に愛想尽かされるわよ?」
「残念だが、俺は『君が今日見つけた珍しい野花の話』に、まるで聖遺物を発見したかのような驚きと敬意をセットで返せる、高等な教育を受けた貴族だからな。女心なんて、結局は『自分の感情という大聖堂』をどれだけ豪華に飾り立てて、膝を屈してくれるかを求めているだけだろう?」
「……性格悪。でも、その通りすぎて反吐が出るわ」
ミカーラは忌々しげに鼻を鳴らした。俺たちは知っている。男女の駆け引きなど、互いのエゴをいかに美しくラッピングして押し付け合うかの競技に過ぎない。俺はその競技において、常に「勝者」の席に座ってきた自負があった。
「じゃあ、聞くけど、男が『今の領地のままで十分幸せだよ』って言うとき、あれ、100%『これ以上、面倒な遠征をさせないでくれ』って意味でしょ?」
「正解だ。あれは『現状維持』という名の怠慢の宣言。だがな、君たちも『どちらでも良いわ』と言いながら、実際は『私の正解を当ててみなさい。外したら火刑よ』と、死の遊戯を強いるじゃないか。参加費まで男持ちなのは、教会に訴えられてもおかしくない慣習だぞ」
「それは『私の尊厳を測るための供物』なの。男が『美しいね』って言うとき、心の中じゃ8割、別の下心か、沈黙が怖くて言ってるだけなくせに。あ、そういえば兄様の今の婚約者、レティアがネイルを変えたの気づいた?」
「(一瞬、記憶を走らせる)……あー、あれだろ? 爪に塗る……色が、ちょっと……テカテカした、王都の流行だろ?」
「ほらね。男の目は、獲物を追うための動体視力はあっても、隣にいる女の数ミリの変化を見る機能はついてないのよ。そのうち『私と領地、どっちが大事?』っていう無理問答を突きつけられて、石像のように固まればいいわ」
「その時はこう答えるさ。『君と領地、どっちを失う方が、君に飢えを経験させずに済むか思案している』ってね」
「……うわ、きっしょ。男の『理論武装』って、本当に騎士道精神の欠片もないわね」
「それは、お互い様だろう。女の『直感』っていう名の『異端審問』も、冤罪を生み出す装置としては一級品だ。……で、その返事をくれない彼、どうする気なんだ?」
「……もう一通だけ早馬を出すわ。『死罪にでもなったの?』って」
「それは、門を塞がれるどころか、籠城戦に突入されるパターンだぞ」
「……心配ご無用よ。っていうか、兄様。さっきネイルのこと『テカテカしたやつ』って言ったけれど、もし、レティアが魔女みたいなロングポイントの、ゴテゴテ埋め尽くしネイルにしてきたら、流石に気づくでしょ?」
「ああ、あれな。武器かよって思うやつだ。……正直、男の本音を代弁させてもらうと、あれは『気付く』っていうより『警戒』するんだ。刺されたら痛そうだな、とか。刺繍できるのかな、とか」
「出た、『刺繍できるの?』攻撃。男のその発想、本当に古臭くて嫌。女は自分のテンションを上げるために、数センチの爪に数百銀貨かけてんの。男に媚びるための道具じゃないわよ」
「わかってるって。でもな、君達も『男受け』っていう言葉、都合よく使いすぎだろ。清潔感のあるピンクとかベージュなら『無難すぎてつまんない』って言うくせに、いざ男が『その魔女みたいな爪、正直怖い』って本音を漏らすと、『流行の否定』だの『センスがない』だの言い出すじゃないか」




