表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
18/19

18

 夕暮れがロドキス領を、燃えるような残照で染め上げていた。

 執務室の机には、影護官ミラが置いていった報告書が一通。だが、俺はそれに指一本触れなかった。昨夜、深夜の狂気に駆られて書きなぐった「潜在的犯罪因子リスト」――テッサに近づく男たちを片っ端から断罪しようとしたあの醜悪な紙片を暖炉で焼いた時の、焦げ付くような羞恥がまだ胸に張り付いている。


 俺は何をやっていたのだ。

 俺がやっていたのは、権力という暴力を振るい、一人の女性の周囲を更地にするだけの、最低な独裁者の真似事だ。


「……今日、すべてを終わらせよう」


 俺は立ち上がり、剣も持たず、華美な装飾も外した。ただの「アリアス」という一人の男として、彼女に真実を告げる。領主としての立場を盾にせず、一人のパン仲間として、あるいは一人の男として、彼女の意志を問う。それが、俺に残された唯一の矜持だった。


────


 下町へ向かう足取りは、いつになく重く、それでいて奇妙に澄み渡っていた。

 マルザの店は、いつもと変わらない佇まいでそこにあった。夕闇が迫る中、パンの焼ける幸せな香りが漂っている。この香りが、どれほど俺の荒んだ心を救ってくれたことか。


 店の裏手に回ると、案の定、テッサが窯の様子を見ていた。赤々と燃える炎が彼女の横顔を照らし、散る火の粉が星のように舞う。


「あ、アリアス様……! こんばんは。どうされたんですか、そんなに険しい顔をなさって」


 テッサが駆け寄り、心配そうに俺を見つめる。その曇りのない瞳を見るたび、俺の胸は締め付けられた。


「……テッサ。少し、話があるんだ」


「はい。あ、その前にこれ、どうぞ。今日も暑かったですから」


 彼女が手渡してくれた冷たい水の入ったコップ。俺はそれを、喉を鳴らして一気に飲み干した。心臓の鼓動を鎮めるための、時間稼ぎでもあった。

 

 さあ、言え、言うんだ、アリアス。

 俺が君を、ただの職人としてではなく、一人の女性として慕っていること。君を誰にも渡したくなくて、汚い手段まで考えたこと。すべてを告解し、君の裁きを仰げ。


「テッサ、俺は――」


「あの、アリアス様! 実は、私からもお話があるんです」


 俺の言葉を遮るように、テッサが身を乗り出した。その頬は、窯の熱のせいだけではない、柔らかな朱色に染まっている。


「……お話?」


「はい。……あの、私、ずっと誰にも言えなかったんですけど。……ずっと待っていた人がいるんです。幼馴染で……」


 俺の思考が、真っ白に停止した。


「彼、あの場所で生きていてくれたんです。私を逃がしてくれる為に、命を張って守ってくれた彼が!その時、 絶対に戻ってくるって約束してくれて……。そうしたら、今日のお昼、彼がボロボロになりながら、この店に辿り着いたんです! 本当に、無事に帰ってきてくれて……私……私……」


 テッサの声は、歓喜に震えていた。彼女の瞳に宿っているのは、俺がこれまで見たどの「熱」よりも強く、深い愛情の光だった。


「今、お店の中でマルザさんとお話ししているんです。故郷の事とかで。でも、私……どうしたらいいか分からなくて。領主様に、こんな相談をするのは無礼だって分かっているんですけど……」


 テッサは申し訳なさそうに、だが縒り代を求めるように俺を見上げた。


「お店の前にいつもいる、パン好きの衛兵さんたちが言っていたんです。領主様は、この領地で一番の『恋のプロ』だって。……私、彼を一生支えていきたいんです。でも、パン屋の仕事も続けたい。私、欲張りでしょうか? 領主様、私はどうすれば、彼と幸せになれるでしょうか……?」


 沈黙が、永遠のように長く感じられた。

 

 俺が用意していた真実と愛の告白。独占欲に塗れた数々の計画。それらがすべて、音を立てて崩れ去っていく。

 テッサは、俺を「恋のプロ」だと信じ、純粋な助言を求めている。彼女の人生の中に、俺や他の者達が「男」として入り込む余地など、最初からまったく存在しなかったのだ。


 驚きと絶望で固まっている俺を見て、テッサが青ざめた。


「ア、アリアス様……ご、ごめんなさい! 私、なんて無礼なことを……! 領主様にこんな個人的な相談を押し付けるなんて、どうかしていました! 忘れてください、今の話は!」


 猛烈に謝り、涙目になる彼女を見て、俺の心にふっと静かな風が吹いた。

 

 ああ。そうか。

 俺が愛した彼女は、こういう娘だった。

 真っ直ぐで、懸命で、一途に誰かを想う。

 俺が彼女の「平穏」を守るために、あんなに必死に構築した「公式な伝統」や「職人保護」。それらが、もし俺の個人的な感情のために使われれば、彼女のこの純粋な幸福を壊す「暴力」に成り果てる。


「……いいんだ、テッサ。謝る必要はない」


 俺は、精一杯の優しさを込めて微笑んだ。それは「恋愛のプロ」が作る偽物の笑みではなく、敗北を認めた男の、清々しい諦観として……。


「君の想いは、何も間違っていない。……もし、私が君の立場なら。……そして、その人を心から大切に想っているのなら。ただ、その人の幸せを一番に願うよ」


 俺は自分の恋心を、彼女への助言という形に昇華させて、永遠に葬り去ることに決めた。


「パン屋は続けた方がいい。君の焼くパンが、彼にとってもこの領地にとっても、生きる糧になる。……彼を大切にしろ。それが領主としての、助言だ」


「……アリアス様。……はい! ありがとうございます!」


 テッサの満開の笑顔。

 それが、俺がこの場所で見る、最後の一番美しい景色だった。


────


 城に戻った時、夜気は冷たく、俺の全身を貫いていた。

 自室のソファに深く身を沈める。怒りも、絶望も、悲しみすら湧いてこない。ただ、巨大な穴が胸に開いたような、果てしない虚無感だけがそこにあった。


 俺は何のために、今まで足掻いていたのだろう。

 

 そこへ、ノックの音もなく、扉が静かに開いた。

 レティアだった。

 

 彼女は、俺の服についた下町の土埃や、魂の抜けたような表情を、まるですべて予見していたかのような足取りで近づいてきた。


「どこへ行っていたの?」


 その問いに、棘はなかった。

 

「……視察だ。少し、長く歩いてな」


「……そう。おかえりなさい。少し……お疲れのようね、アリアス様」


 レティアは俺の隣に座り、そっと俺の手を取った。

 冷え切った俺の手を、彼女の温かい掌が包み込む。

 

 その温かさが、不思議なほど心に染みた。テッサの焼きたてのパンでも、あの裏庭で飲んだ水でも届かなかった、心の最深部まで。


「あなたは外の光ばかり見ていたけれど。……私はずっと、あなたの背中を見ていたのよ」


 レティアが、囁くように言った。

 その言葉には、俺が隠し続けていたテッサへの横恋慕も、独占欲も、見苦しい足掻きも、すべてを分かった上で受け入れるという、圧倒的な「許し」が込められているようだった。

 

 彼女は最初から知っていたのだ。

 俺が自由を求め、恋を追いかけ、迷走していたことを。

 それでも彼女は、俺を責めず、見捨てず、ただ俺が戻ってくる場所として、この「家」を守り続けていた。


「レティア……」


「お茶を淹れましたわ。王都の、あなたの好きな茶葉よ」


 差し出された紅茶を一口飲む。

 下町で飲んだ冷たい水よりも、ずっと熱く、ずっと深く、身体の芯まで染み渡っていく。

 

 俺は悟った。

 俺が追いかけていた「恋」は、一瞬の情熱だった。

 だが、この目の前の女性が与えてくれるのは、一生をかけて守り、償い、育てていくべき「愛」なのだと。

 

 レティアは『ベルシュタイン』の名を背負い、俺という未熟な男を支える覚悟を、最初から持っていた。それに比べて、俺はどうだ。領主として、貴族として、そして一人の男として、彼女の足元にも及ばない器ではないか。


「……すまない、レティア。俺は、あまりにも愚かだった」


 俺は彼女の手を握り返し、その曇りのない瞳を真っ直ぐに見つめた。

 

「許してくれ。……そして、君を、心から愛し続ける」


 レティアは一瞬、驚いたように目を見開き、それからすべてを溶かすような、慈愛に満ちた笑みを浮かべた。


「ンフフ♪ ……私も愛していますわ。アリアス様」


 窓の外、夜のロドキス領は静まり返っている。

 下町の小さなパン屋では、きっと二人の恋人が再会を祝っているだろう。

 そしてこの城でも、一人の愚かな男がようやく、本当の帰るべき場所を見つける事ができた。

 

 失った恋の代わりに、俺は一生をかけて守るべき、あまりにも贅沢で、強固な愛を手に入れたのだ。

 

 「恋愛のプロ」という滑稽な看板は、今夜、ようやく下ろされた。

 これからは、ただ一人の男として、この隣にいる女性と共に生きていく。

 夜の静寂の中、俺は心地よい疲労感と共に、レティアの肩にそっと頭を預ける。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ