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「……ところで、アリアス様。最近、この街で『魔法のパン』を焼く娘がいると伺いましたの」
――来たか。
心臓が不自然な鼓動を刻むが、俺の表情筋は一ミリも動かない。
「ああ、それか。確かに、民の間で評判になっている店がある。領主として、食糧事情の視察がてら何度か足を運んだよ。質素だが、力強い味だ。君のような高貴な口には、少々野性味が強すぎるかもしれないがね」
俺は優雅にワインを啜り、あくまで「公務の一環」であることを強調した。
「あら、そうなのですか? でも、アリアス様がわざわざ何度も通われるほどなら、きっと素晴らしい情熱がこもっているのでしょうね。……私、どうしても食べてみたくなりましたわ。そして、どのような佇まいかも、気になりますわ」
レティアは、一切の棘を感じさせない無垢な瞳で俺を見つめた。
「今から、案内していただけないかしら?」
断る理由はなかった。ここで拒絶すれば、それこそ「やましいことがある」と高らかに宣伝するようなものだ。
俺は心の中で、フェリック、ログナー、マレリア。頼むから、余計な事は言うなよと叫びながら、社交用の微笑みを崩さず頷いた。
────
下町のマルザの店。
変装もせず、豪族の正装のまま現れた俺と、王都の最先端を行く令嬢レティア。
店先にいた客たちが、護衛に騎士の元、モーゼが海を割るように道を空ける。店の中で、小麦粉で鼻を白くしたテッサが立っていた。
「あ、いらっしゃいませ! ……わあ、すごい……本物のお姫様みたい……」
テッサが呆気に取られたようにレティアを見つめる。
俺は背中に冷や汗が流れるのを感じながら、二人を引き合わせた。
「テッサ、こちらは私の……婚約者のレティアだ。君のパンを、是非食べてみたいそうでね。……レティア、こちらがこの店のパン職人のテッサだ」
修羅場。
俺の脳内では、あらゆる「最悪のシナリオ」が展開されていた。
レティアが「下賎な女が」と冷笑するか、あるいはテッサが、妙な噂のせいで、俺(変装)との歪な交流を口走るか。
俺はその瞬間に、どうやって両者の間に入り、事態を収束させるかの理論武装を整えていた。
しかし。
「……まあ! この表面の焼き色、なんて均一なのかしら。それに、この香ばしさの中に混じる、かすかな甘い香りは……もしや、東方の蜂蜜をお使い?」
レティアが、陳列されたパンをまじまじと見つめて声を上げた。
「あ、はい! よくわかりましたね! 隠し味に少しだけ。……でも、それだけじゃなくて、生地を寝かせる時に少しだけ温度を上げているんです。そうすると、蜂蜜の香りがもっと引き立つような気がして……」
「素晴らしいわ! 蜂蜜の糖分は焦げやすいはずなのに、これほど美しく焼き上げるなんて……。あなた、生地の呼吸を理解していらっしゃるのね」
……ん?
俺の存在が、一瞬で背景に溶け込んだ。
「あ、あの、レティア様、もしよければ……これ、新作の『薔薇の雫パン』なんです。薔薇のジャムを練り込んでいて……」
「薔薇!? まあ、なんて贅沢な発想。王都の菓子職人でも、パンに合わせる勇気がある人は少ないわ。……(レティアが一口食べて)……っ! 美味しい。……この、鼻に抜ける香りの残し方、どうやっているの?」
「それはですね……!」
そこからは、俺の入る隙など微塵もなかった。
美食家としても知られるレティアと、パン作りの探究者であるテッサ。
階級の壁など、焼きたてのパンの香りの前では無力だった。二人は調理場の裏側にまで入り込み、小麦の配合や発酵時間の話で盛り上がっている。
「……閣下。お取り込み中のところ失礼いたします」
背後から、ミラが憐れみの混じった声で囁いた。
「事態は収束した……ということでよろしいのでしょうか?」
「……わからん。だが、俺が今ここで『帰るぞ』と言えば、レティアにもテッサにも同時に睨まれることだけは確信している」
俺は、店の片隅で、誰にも気づかれずに置かれたままの一個のパンを見つめた。
テッサは、レティアに褒められて頬を紅潮させ、輝くような笑顔を見せている。
レティアもまた、いつもの計算された微笑ではなく、年相応の女性のような、好奇心に満ちた表情をしていた。
「……アリアス様! 聞いてください! テッサは王都の宮廷料理についても詳しく知りたいっておっしゃるの。私、しばらくこの街に滞在して、彼女とパンの研究をすることに決めましたわ!」
レティアが、キラキラとした瞳で俺を振り返る。
「……滞在、だと?」
マルザから受け取った、テッサのパンを齧っていたはずが、味がしなかった。
「ええ。お城にテッサを毎日呼ぶのは、彼女の仕事の邪魔になりますもの。私が毎日、この店に通うことにいたしますわ。アリアス様、お仕事頑張ってくださいませね!」
テッサも、レティアの手を握りしめながら大きく頷いている。
「私、精一杯頑張ります! レティア様に認めてもらえるようなパンをもっと、焼きますね!」
俺は、呆然と立ち尽くした。
独占したかった。
テッサのあの笑顔も、パンの熱も、自分だけが知る特別なものであってほしかった。
それがどうだ。
いまや、己の婚約者が最強の味方(あるいは理解者)となり、俺は彼女たちの「パン談義」の邪魔者でしかなくなったのだ。
俺は、二人で楽しそうに笑い合うテッサとレティアの背を見つめ、初めて「敗北」という言葉を噛み締めていた。
事態は、俺の想像もしなかった方向へ、ややこしく、そして甘美にこじれ始めていた。
……テッサ。その笑顔を俺に向けさせるのに、これからはレティアの機嫌も取らねばならんのか……。なんという悲劇だ。これがシャラゼリスが俺に与える罰なのか?
俺の落胆を知る由もなく、下町の夕暮れには、今日も香ばしいパンの匂いと、女たちの明るい笑い声が響き渡っていた。




