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一目惚れしたパン屋の娘に理性を狂わされる。冷徹貴族の隠しきれない恋心。  作者: 逆立ちハムスター


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 羽ペンが紙の上を滑る、規則的な音だけが執務室に響いている。

 俺は、このロドギス領を治める当主だ。俺の仕事は、この地の循環を淀ませないことにある。徴税、治安、物流。すべてを把握し、最適化する。それが、この地に生きる民への誠実さだと信じている。


 ゆえに、食事もまた「効率」の一部だった。

 生きるための燃料であり、公務を滞らせないための手続き。美食を否定はしないが、そこに心を砕く時間は、領主としての責務を削る行為に等しい。


「閣下、少々休憩にしませんか。下町のマルザの店で、面白いパンが評判になっていまして。不思議なパンなんです」


 私兵騎士のフェリックが、丁寧に包まれた紙袋を差し出した。

 マルザ。その名を聞いて、俺は筆を止めた。彼女はこの街で長くパン屋を営む老女で、領内の事情にも明るい。俺も何度か直接言葉を交わしたことがある、信頼の置ける領民の一人だ。


「あの実直なマルザが、評判になるほどの新たなパンをか。それは楽しみだな」

「ええ。冷めてもなお、焼き立てのような『熱』を感じると。……毒見は済んでおります」


 促されるまま、俺はその黄金色の一片を口に含んだ。

 

 瞬間、思考が停止した。

 

 外側はカリリと音を立てるほど香ばしいのに、中は驚くほど瑞々しく、弾力がある。噛み締めるたびに、小麦の力強い甘みが溢れ出し、喉を通り過ぎる瞬間には、驚くほど濃密な小麦の芳香と、吸い付くような瑞々しさが溢れる。咀嚼するたびに、体温が内側からじわりと上がるような錯覚に陥る。

 

 ……これは、単なる料理ではない。

 作り手の執念にも似た慈しみ。それを「熱」と表現したフェリックの言葉に、柄にもなく納得してしまった。このパンには、俺が計算で導き出してきた「領地の豊かさ」とは別の、もっと根源的な生命力が宿っている。


「……マルザの手によるものではないな。彼女のパンはもっと、質実剛健だ。誰が作っている?」

「流石ですね。彼女の親戚で、戦地から逃れてきた、テッサという娘だそうです」


 俺は無意識に立ち上がっていた。

 領主として、新たな才能を把握しておく必要がある。……そう自分に言い聞かせたが、胸の奥で燻る奇妙な焦燥感までは誤魔化せなかった。


────


 下町の喧騒は心地よい。領民たちが活気を持って暮らしている様を見るのは、俺の数少ない悦びの一つだ。

 マルザの店に着くと、彼女はいつもの柔和な微笑みで俺を迎え入れた。


「おや、アリアス様。ようこそ。ご視察ですか?」

「マルザ、変わりないようで何よりだ。……例のパンを頂いた。見事なものだな」

「お褒めに預かり光栄です。きっと、あの子の情熱が、パンを美味しくしているんでしょうね」


 マルザが奥を振り返ると、一人の娘が大きなウッドトレーを抱えて現れた。

 

 テッサ。

 

 長い髪をまとめ、袖を捲り上げ、頬や鼻の頭には白い小麦粉がついている。着古したエプロンは仕事の証に汚れている。

 だが、俺と目が合った瞬間に彼女が見せた笑顔は、俺がこれまでの人生で見てきたどんな社交界の華よりも、鮮やかで、毒だった。


「あ、いらっしゃいませ! 今、ちょうど、次の生地が最高の状態で膨らんでいるんです。きっともっと美味しくなりますよ!」


 彼女は、ただ純粋に、自分の仕事の成果を共有したいという輝きを放っていた。屈託のない、太陽のような笑顔。

計算など微塵もない。貴族令嬢たちが向けてくる、扇の陰の毒を含んだ微笑とは正反対の、純粋無垢な輝きに思えた。

 

 これまで、数多の貴族令嬢と浮名を流してきた。彼女たちが何を望み、どんな言葉で瞳を潤ませるか、その「解」を俺はすべて持っている。女性という存在を、俺は熟知しているつもりだった。

 

 だが、目の前の彼女には、俺の持ち札が何一つ通用しない。

 宝石も、洗練された賛辞も、この無防備な情熱の前では、色褪せたガラクタに等しいだろう。

 

 彼女の笑顔。

 それを、俺以外の男たちが、銅貨数枚の対価として日常的に目にしている。

 その事実に、胃の底が焼けるような、昏い独占欲が芽生えるのを感じた。


「……テッサ、と言ったか?」

「はい! お口に合いましたか?」

「ああ、良いパンだった……」


 それだけ言うのが精一杯だった。

 彼女の手を握ることも、強引に連れ去ることもできない。俺は領主であり、彼女を護るべき立場だ。そして何より、そんな強引な手段で手に入れたところで、彼女のパンから、あの「熱」が失われることを、俺は知っている。


────


 執務室に戻った俺は、再び書類に向かっている。

 だが、ペン先が紙の上で止まったまま、一向に動かない。

目を閉じれば、小麦粉まみれのあのテッサの笑顔が、網膜に焼き付いて離れない。

 俺は苛立ち紛れにペンを強く置く。意識の裏側に、テッサの笑顔がこびりついている。あれは俺の理性を狂わせる毒だ。


 彼女が他の客に「いらっしゃいませ」と笑いかけるたびに、俺の心臓は無性に嫉妬で焼け焦げそうになる。


女性の扱いなら、いくらでも心得ていたはずだ。

 宝石を贈り、甘い言葉を囁き、夜会でエスコートすれば、令嬢は俺の腕の中に収まる。

 だが、テッサはどうだ? 彼女に宝石を与えても、きっと困らせるだけだろう。それに、トラブルを態々引き寄せる磁石になりかねない。


美しい花束で喜ばせ……いや、結局、こちらの顔色を伺うだけに過ぎなくなる。

 

 それか……彼女を城に招くか? いや、それでは彼女から「街のパン屋」という居場所を奪うことになる。

 

 これまでの俺なら、余裕を持って彼女を攻略する手順を組み立てられたはずだ。だが、今はその「最適解」が見当たらない。それに、俺が欲しいのは純粋な彼女の愛だ。無理矢理奪い取った愛など……。


 彼女のあの笑顔は、パンを愛し、日常を懸命に生きているからこそ生まれるものだ。その純粋さを汚さず、それでいて俺だけのものにするには、どうすればいい……。


 冷徹な豪族として名を馳せてきた俺が、パン屋の一人の娘に、ここまで心をかき乱されている。

 

 恋愛は、主導権を握った方が勝つ。それが俺の持論だった。

 だが、今の俺は、彼女に指一本触れていないにもかかわらず、完膚なきまでに敗北している。


……マルザの店に、明日も行く。今度は、変装で。一人の『客』としてだ。……素の彼女を知る必要がある。


 俺の中の理性が、警鐘を鳴らしている。

 これ以上彼女に深入りすれば、領主としての公平ささえ失いかねない、と。

 

 だが、止められない。

 あの「冷めても温かいパン」のように、彼女の存在が俺の心に消えない熱を灯してしまったのだから。

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