夜鳴
まどろみの中で。
微かな、地鳴りのような振動を感じた。
ゆっくりと、重く、規則的な起伏を伴っている。
それは心臓の鼓動か、あるいは想像を絶する巨大な生物の呼吸のようだった。
吐いて。
吸って。
自分の胸腔が地面と共鳴しているのがわかる。
「はっ……!」
私は弾かれたように目を見開き、身を起こして激しく喘いだ。
窓が封鎖されているせいで、月光すら差し込まない。
空気は澱みきっていた。
腕時計を確認する。
午前二時。
喉が焼けるように乾いている。
リュックから水筒を取り出し、一口含んだ。
目が冴えてしまったついでに、トイレへ行くことにした。
小森さんの話では、廊下の突き当たりにあるはずだ。
ヘッドライトを手に取り、襖を開ける。
開けた瞬間、ひんやりとした冷気が襲ってきた。
長い廊下の先には微かな光が漏れており、辛うじて完全な暗闇を免れている。
手元の明かりが床を照らす。
静かすぎる。虫の音さえ聞こえない。
まるで世界そのものが、誰かによってミュートされたかのようだ。
木造の床が足元できしむ。その微かな音が、静寂の中で異常なほど大きく増幅される。
光の輪の端に、一対の素足が現れるまでは。
白い肌が、ライトの光をギラリと跳ね返した。
私はゆっくりと、光軸を上へと向けた。
暗闇の中に、人影が浮かび上がる。
まず目に飛び込んできたのは、細身のジーンズ。裾には油染みのような濃い汚れが付着していた。
スカイブルーのTシャツ。
そして、無表情な顔。
心臓が跳ね上がった。
小森さんがいつからそこに立っていたのか、全く分からなかった。
気配すら、微塵も感じなかったのだ。
——最初から、そこに「いた」かのように。
彼女は暗闇の中で、じっと私を見つめている。
私は反射的に半歩下がり、もう片方の手を無意識に腰のナイフの柄へ添えた。
「……小森さん?」
彼女はすぐには答えなかった。
ただ首を少しだけ傾げ、何かを観察するようにそこに佇んでいる。
「……成田、さん?」
不自然に軽い声。
まるで、遠い場所から響いてくるような。
私は喉のつかえを飲み込み、慎重に問いかけた。
「……小森さん、こんなところで何を?」
小森さんはまたしばらく沈黙した。
数秒の後、ようやく笑みを浮かべる。
「……明日の準備に行くところだったんです」
この時間に?
田舎の朝が早いといっても、午前二時から準備を始めるなんて話は聞いたことがない。
しかも、明かりすら持たずに。
「そうですか。お忙しいところ、失礼しました」
深く詮索する気にはなれず、足早にトイレへと向かった。
用を足して戻った時には、もう彼女の姿はなかった。
部屋に戻り、襖の掛け金をしっかりとかける。
気休めにしかならないが、わずかな時間稼ぎにはなるだろう。
その後、一睡もできぬまま朝を迎えた。
目が覚めてすぐ、座卓の上を見た。
「え……?」
私は絶句し、確認のために歩み寄った。
トレイの表面は、綺麗さっぱりとしていた。
盆は残っているが、その上にあったはずの「神饌」が消えている。
部屋を見渡すが異常はない。掛け金を確認したが、侵入された形跡もなかった。
リュックを確認すると、チャック付きポリ袋の中のサンプルは無事だ。他に紛失したものもない。
だが、盆の上の神饌だけが、まるで最初から存在しなかったかのように消えている。
まさか、夢遊病で自分で食べたなんてことがあるだろうか。
胸に棘が刺さったような不快感を抱えたまま、時間が過ぎる。
コン、コン。
ノックの音がした。
「成田さん、起きていらっしゃいますか?」
「今、開けます」
扉を開けると、そこには小森さんがいた。
彼女の手には、時代を経て漆が剥げかけた、暗褐色の木桶が握られている。
その上に木製の柄杓が載せられていた。
彼女の表情は至って普通で、昨夜の出来事などなかったかのようだった。
「これは?」
「手水用です。さあ、どうぞ」
得体の知れない違和感がある。
通常、客の部屋に直接手水を持ってくることなどない。
水面の反射を見る限り、それはただの水ではないように思えた。
だが「郷に入れば郷に従え」だ。口にするわけではない以上、比較的安全だろう。
私は右手に柄杓を持ち、左手へと注いだ。
わずかな粘り気を伴う感触。だが意外にも、手には残らない。
ただ、何かが皮膚の内側へと染み込んでくるような、言いようのない不快感があった。
私は奥歯を噛み締め、もう片方の手も洗い終えた。
「では、朝食を持ってきますね。少々お待ちください」
彼女の後ろ姿を見送った後、私は両手を鼻先に近づけ、軽く匂いを嗅いだ。
微かな、甘ったるい生臭さ。
錯覚かと思うほど淡いそれは、すぐに霧散して消えた。
彼女が朝食を取りに行っている隙に、私は密かに浴室へと向かい、石鹸で執拗に手を洗った。
朝食がまたあの「神饌」ではないことを祈りながら。
案の定、盆に乗っていたのは例のピンクがかった紫色の不規則な塊だった。
私は表面上それを受け取り、後で自前の非常食を食べることに決めた。
「そうそう、村長にお話ししましたよ。成田さんなら資料を見ても構わない、とのことです」
「そうですか、ありがとうございます」
「私は外の入り口付近で作業をしていますから、行かれる時は声をかけてくださいね」
「わかりました」
小森さんはそう言うと、すぐには立ち去らなかった。
その場に留まり、私が襖を閉めるのをじっと見つめている。
完全に閉まるその瞬間まで、彼女の視線が突き刺さっているのを感じた。
掛け金をかけ、鈴の音を伴う足音が遠ざかるのを確認する。
私は得体の知れない安堵を覚えた。
自前のもので朝食を済ませた後、私は小森さんの元へ向かった。
宿の玄関を出ると、天気はすぐれないようで、辺りには霧が立ち込めていた。
薄い霧だ。
だがよく見ると、その中に微細な粒子が漂っている。
陽光を浴びて、それは暗紫色に鈍く光っていた。
私は再び襟を立てた。呼吸をするたびに、喉の奥に砂利が詰まったような感覚を覚える。
少し離れた場所で、小森さんが竹箒を手に掃除をしていた。
「成田さん、準備もうよろしいですか?」
彼女が手を止めて尋ねる。
「ああ」
「それでは、村長のところへ案内します。今は神社で準備をなさっていますから」
小森さんの案内に従い、神社の方向へと向かう。彼女の体からは、相変わらずあの鈴の音がしていた。
一歩ごとに、鈍い響きが重なる。
彼女の説明によれば、神社は山の深部にあるという。
村を抜け、山道へ入ると、至る所に太く長い注連縄が張り巡らされていた。
空気が明らかに変わった。
昨日よりも、さらに静まり返っている。
山道は険しい。不揃いな石材で組まれた石段が続く。
登り切ると、拝殿で数人の村人が神楽の稽古をしているのが見えた。
彼らは濃い色の木彫りの面を被り、手に持った神楽鈴を振って舞っている。
腕を上げ。
足を上げ。
地を踏む。
シャラン、シャラン。
鈴の音はやはり、小森さんのものと同じようにどこか重苦しい。
動作のシンクロ具合は異常なほどだった。
どれほどの修練を積めば、これほどまでに揃うのか。
私は一人の足元を凝視した。
高く上げ、振り下ろす。
全員の足が、同時に地面を叩く。
一分一秒の狂いもない。
「これは……?」
私は興味を惹かれ、尋ねた。
「これは『久良木神楽』。儀式の当日には、みんなで踊るんですよ」
「みんなで?」
それは珍しい。
私は興味深く、村人たちの稽古を眺めた。
「写真を撮ってもいいですか?」
「ええ、構いませんよ」
私はリュックからカメラを取り出し、シャッターを切った。
「あ、村長様がいらっしゃいました」
本殿から、烏帽子を被り、白い狩衣を纏った老人が現れた。
七、八十歳ほどに見えるが、白髪混じりの体格は非常に頑健そうだ。
足元には漆塗りの厚底の黒履を履き、歩くたびに「ドン、ドン」と重い地響きを立てる。
私は身長百八十五センチと大柄な方だが、目の前に立った村長は、さらに頭一つ分ほど高かった。
「ほう、君が成田さんかね」
老人は私の前で立ち止まり、品定めするように上下を眺めた。
間近で見ると、彼の白い狩衣には歪な紋様が刺繍されていた。
伝統的な花鳥風月ではない。
それは地図に記された無数の等高線か、あるいは複雑に絡み合った樹木の根のように見えた。
「わしがこの村の村長、そして久良木神社の神主を務めている者だ」
深く刻まれた皺の寄った顔に、笑みが浮かぶ。
彼は右手を差し出した。その手は分厚く、指の節々は岩のように太い。
「村へようこそ。歓迎するよ」




