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《久良木様》  作者: 天月瞳


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2/3

遠村

深い白霧が辺りを包み込んでいる。

一歩進むごとに、足元がぬかるみに沈み、足元の感覚が曖昧になっていく。


安全を期して、私は速度を落として歩いた。

地面には、私の足跡だけがはっきりと刻まれていく。


道標から歩き始めて、およそ十分。

ようやく、一抹の「赤」が視界に入った。


それは、朽ち果てた赤い鳥居だった。

木材はかろうじてその形を保っているものの、表面は白い斑点状の何かに覆われ、塗装は歳月の侵食によってひどく剥げ落ち、どす黒く変色している。


ようやく目にした二つ目の人工物に、私は少しだけ歩を速めた。


鳥居をくぐり抜けた、その瞬間。


「え……?」


まとわりついていた霧が、鋭利な刃物で切り裂かれたかのように、跡形もなく消え去った。

湿り気を帯びていた空気は、一転して乾燥し、凝り固まったかのような質感に変わる


視界は開けた。

だが同時に、「音」が消えた。


私は無意識に地面を踏みしめてみた。

音がない。

砕石を踏んでいるはずなのに、石が擦れ合う、本来聞こえるはずの音さえ存在しない。


驚いて後ろを振り返ると、霧は分厚い壁のように、鳥居の向こう側で静かにうねっていた。

つい先ほどまで歩いてきた道すら見えない。

まるで、ここが境界となって、内と外が別の世界に切り離されているかのようだった。


歩を進めるにつれ、微かな苦味を帯びた、乾草のような匂いが鼻腔を突いた。

桐油の匂いだ。だが、不自然なほどに濃い。


遠くに、歪な輪郭が見えた。

さらに数歩近づいてようやく、先ほどまで岩の影だと思っていたものが、実は建築物の一群であることに気づいた。

遠くの夕陽が、ゆっくりと山の端にかかろうとしている。


村は三方を山に囲まれ、鬱蒼とした原生林に包まれていた。

唯一の出口は、今歩いてきたこの足場の悪い小径だけのようだ。


全体として、極めて「守りやすく攻めにくい」地形をしている。


戦時中、安全のためにあえて防御に適した地形に築かれた隠れ里の話は聞いたことがあるが、

まさかこんな場所に、今も人が住んでいるのだろうか。




疑念を抱きながら、私は村の中へと足を踏み入れた。

十数人の村人が、何かの準備に追われているのが見えた。

老いも若きも、男も女もいる。


一見すれば、ごく普通の村の光景だ。


だが、唯一奇妙な点があった。


彼らの纏っている衣服が、あまりに時代がかっているのだ。

数十年前で時が止まったままのような錯覚。


ちょうど村の入り口に、一人の老人が立っていた。


微動だにせず佇むその老人は、他の村人と同じように土色の作務衣を着て、下には旧式の和袴を履いている。


視界に入る全ての人間が、同じような格好をしていた。


私は老人に声をかけてみた。


「すみません、こんにちは」


反応はない。

老人はただ、地面を凝視している。



私は声を張り上げ、もう一度試みた。


「もしもし、こんにちは!」


今度は、ようやく反応があった。

老人の首が「ギチ……ギチ……」と音を立て、緩慢な動きでこちらを向いた。


濁った眼球がこちらを捉えたが、その視線は私を素通りして、どこか別の場所を彷徨っているようだった。

老人は口を突き出し、喉の奥から声を絞り出す。


「……お前、……人か?」


おそらく、何者かと尋ねたいのだろう。私は愛想よく答えた。


「郷土研究をしている者です。少しお話を伺ってもよろしいでしょうか?」


「……研究?」

老人は少しの間を置いて、ようやく頷いた。


「録音しても構いませんか?」


「……構わん」


「ではお聞きしますが、ここはどこですか?」


「村だ」


「その村の名前は何というのですか?」


「村は、村だ」


何度か問いを重ねたが、要領を得ない。

私は質問を変えることにした。


「ではおじいさん、このあたりに宿泊できる場所はありますか?」


老人の動きが止まった。

「泊まる場所か。ある」

彼はゆっくりと手を挙げ、少し先にある建物を指差した。


「あそこだ……あそこに宿がある。泊まれるぞ」


「ありがとうございます」


礼を言い、私はそこへ向かうことにした。

もうすぐ日が暮れる。この様子では、電気も通っていないだろう。


宿らしき建物も、古い木造建築だった。門前には看板が掛かっている。

扉は大きく開け放たれており、ロビーのような空間が見えた。


「ごめんください……」

中へ入ると、一人の若い女性がすでに玄関で待っていた。

二十代前半だろうか。髪をポニーテールにまとめている。

驚いたのは、彼女の服装だ。

他の村人とは明らかに違い、スカイブルーのTシャツにジーンズを履いている。現代の若者、そのものだった。


「いらっしゃいませ。お泊まりですか?」

彼女は微笑んで迎えてくれた。


予想外の展開に、私は一瞬言葉に詰まった。

「……ああ。一泊いくらでしょうか?」


こうした場所で現金が通用するのか、少し不安だった。


「一泊千円です。三食付きですよ」


彼女はさらりと答えた。


「では、とりあえず三日分お願いします」


安堵した。現金は使えるようだ。それに、驚くほど安い。


「お客様、お名前をいただけますか?」

彼女がペンを取り、尋ねた。


「成田だ」

名字を告げる。


「成田様ですね」

彼女は宿泊台帳に「成田」の二文字を書き込んだ。

名前を控えただけで、それ以上の詮索はない。


料金を支払うと、彼女は私を一階の角部屋へと案内した。

廊下を歩くたびに古い床板がギィ、ギィと鳴り、薄暗い空間に響き渡る。


彼女と他愛もない話をしながら歩いていると、彼女の体から鈴の音が聞こえてきた。

それは澄んだ音色ではなく、どこか籠もったような、鈍い響きだった。


何かのアクセサリーだろうか。

今時の若い娘のファッションなど、無骨な私に理解できるはずもない。

少し奇妙な響きだとは思ったが、深くは考えなかった。


「店主さんは、ずいぶんお若いんですね」


「店主は父なんです。私は夏休みの間、手伝いに戻っているだけで」

彼女は照れくさそうに答えた。


「成田さん、私のことは小森って呼んでください。小森憐です」


「小森さん、よろしく」


「それにしても、お客様は運がいいですね」

彼女が微笑む。


「どういう意味です?」


「あと数日で、村の大祭があるんです。

成田さんは学者さんみたいですから、きっと興味があるんじゃないかと思って」



私は虚を突かれた。思わず問い返す。

「……私が学者だと言いましたっけ?」


彼女の顔から笑みが消え、極めて短い一瞬、まるで貼り付けた仮面のような無機質な表情になった。

だが、すぐにまた笑って答えた。


「もちろんです。見ればわかりますよ」

言い切る彼女の様子に、私は一瞬、激しい違和感を覚えた。

——何かが、決定的に噛み合っていないような、そんな感覚だ。


「そういえば、一つ聞きたいんだが。この村は何という名前なんだ?」


「村? 村は村ですよ」

小森さんも、あの老人と全く同じ答えを返してきた。


「みんな気にしてないんです。だって、ここに村は一つしかないんですから」


「一つしかない?」

今回の旅の目的を思い出し、私は核心に触れる質問を投げた。


「この近くに『久良木村』という場所があるか、知っているかな?」


「クラキ村? さぁ、聞いたことがないですね。そういうことは、村長さんに聞かないとわからないかもしれません」

小森さんは首を横に振った。


「でも、その村も私たちと同じように、『久良木様』を信仰しているのかもしれませんね」


「久良木様……?」


「ええ。この地の守護神ですよ」


小森さんは部屋の入り口で足を止めた。


「後で夕食をお持ちしますね。突き当たりにトイレとお風呂がありますから、自由に使ってください」


「ああ、助かる」

私は頷き、部屋の襖を開けた。


中は簡素な造りだった。伝統的な畳敷きの和室に、小さな座卓が一つ置いてあるだけだ。


「では、失礼します」

小森さんは一礼して去っていった。


私はリュックを畳の上に下ろし、凝り固まった肩を回した。


部屋を見渡して、真っ先に気づいたのは窓の異常だった。

窓が内側から板張りで封じられているのだ。


通常の旅館ではあり得ない光景だ。

なぜ封じているのか。その目的が気に掛かる。


板を留めている釘を確認すると、かなり古いもののようだった。

そして板の表面には、鋭い刃物で引っ掻いたような跡が残っている。


四方の壁は泥と藁を混ぜた土壁で、よく見ると細かな亀裂が走っていた。

襖には簡単な掛け金がついており、内側から鍵をかけられるようになっている。

だが、正直なところ、防犯能力など無きに等しい。


万が一火災が起きるか、外から扉を封じられれば、ここは逃げ場のない死地となる。


私は無意識に、野戦ナイフでこの板をこじ開けるのに何秒かかるか、そして脱出経路をどう確保すべきかを計算していた。

首を振り、苦笑する。

この職業病は、もはや治らないものだ。


私は手帳と地図を取り出し、地図の上に村のおおよその位置をプロットした。

そして「久良木様」というキーワードを記録する。


一息ついていると、ノックの音がした。


「成田さん、夕食をお持ちしました」


扉を開けると、小森さんが木製のトレイを持って入ってきた。

その上には、肉のようでもあり、植物のようでもある、不規則な形の塊が置かれていた。


「これは……?」


「『神饌』ですよ」


「ありがとう」


受け取ったものの、口にする勇気はなかった。

以前、同業者が現地で出されたものを不用意に食べ、数日間嘔吐と下痢に苦しみ、救急搬送された話を聞いたことがあるからだ。


「もうすぐ久良木祭が始まりますから。この時期、私たちは皆、神饌を食べて過ごすんです」


神饌とは本来、神に供える食べ物のことだが、目の前のこの塊が一体何なのか、見当もつかない。


「ああ、そうそう」

小森さんは思い出したように付け加えた。


「明日から村では本格的な準備が始まります。みんなは手水を行い、断食をしています。成田さんもできるだけ外へは出ないようにしてくださいね」


「わかった。村長さんにはいつ会えるかな?」


「そうだった、村長様に御用があるのでしたよね?後で聞いておきますね」


「お願いします」


「では、失礼しますね。何かあれば管理室にいますので、いつでもお申し付けください」

小森さんはそう言って退室した。


彼女の気配が遠ざかるのを確認してから、私は神饌を間近で観察した。


ピンクがかった紫色の表面はわずかに湿っており、細かな紋様がある。

見た目は生物の筋肉のようでもあり、ある種の菌類のようでもあるが、正体は不明だ。


私は野戦ナイフを抜き、その「神饌」と呼ばれた塊を切ってみた。

眉をひそめる。切った時の手応えは、生肉に近い弾力があった。


現れた薄桃色の断面から、微量の透明な液体が染み出してくる。

顔を近づけると、甘ったるく、それでいて生臭い独特の匂いがした。腐った果実と生肉を混ぜ合わせたような匂いだ。


特殊な菌類の一種だろうと推測し、チャック付きポリ袋にサンプルとして一部を収めた。

トレイをそのまま座卓の上に置く。


横になる前、何気なくもう一度机の上の神饌に目をやった。

錯覚だろうか。

……先ほどつけたはずの切り口が、ほんの少しだけ、塞がりかけているように見えた。


私は畳の上に体を横たえ、少しだけ目を閉じることにした。

あの山道は、想像以上に神経を消耗させていたようだ。


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