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《久良木様》  作者: 天月瞳


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1/3

深山

私の名前は成田宗一。地方大学で非常勤講師を務める、しがない民俗学者だ。


近頃、内々の情報から民俗学の権威、小野教授が退官するという噂を耳にした。

つまり、専任講師のポストが一つ空くということだ。


この朗報には、しかし、一つ小さな問題があった。


その椅子を勝ち取るには、ライバルの前田と競り合わなければならない。

遺憾ながら認めざるを得ないが、現状、私の勝算は決して高くはなかった。


ちょうどその時、一つの可能性を見つけた。

採用への評価を押し上げる論文が書けるかもしれない。


それは研究室で偶然見つけた、一冊の地方誌だった。

どの指導教員が残したのかも分からない、未整理の資料の中にそれはあった。


ボロボロのページには、昭和初期に発生した大火災について記されていた。

空一面が赤く染まり、その火によって百人規模の村が消滅したという。

生き残った者は、一人もいない。


さらに頁の間には、黄ばんだ手描きの地図が挟まっていた。

古い和紙に描かれた簡素な地図の縁には、桐油が染みた跡がある。

そして右上には、小さく「久良木村くらきむら」と書かれていた。


正直なところ、内容の信憑性には強い疑念を抱いている。

これほどの大事件が、書籍の中ではわずか数行の記述に留まっているからだ。

柳田先生の『山の人生』や、他の地方誌、民俗採集の記録に当たっても、関連する記載は一切見当たらない。


だが、これは信憑性を下げる要因であると同時に、もし事実であれば、学界が未だ手をつけていない「空白の研究領域」であることを意味している。


論文を一本増やしたところで、正規採用への道が劇的に開けるわけではないかもしれない。

だが現状、他に手はない。賭けてみる価値はあった。


もちろん、情報不足のまま闇雲に動くつもりはない。

特戦隊に数年身を置いた経験から、事前の情報収集がいかに重要かは身に染みている。



まず確認すべきは、類似または関連する先行研究の有無だ。

既に研究されていれば、価値は大きく下がる。


幸いにも、年代・地域・事件のいずれで検索しても該当するものは見つからなかった。

史料から判断するに、この滅びた「久良木村」は、人里離れた深山に位置しているようだ。

記述がこれほど少ないのも、その立地ゆえかもしれない。


想定される位置を割り出し、まずはネットで衛星画像を確認した。

画面に映し出されたのは、鬱蒼と茂る原生林だ。

何も得られないかと思ったその時、かすかに人工物らしき痕跡が目に飛び込んできた。


「よしっ……!」

私は思わず拳を握りしめた。

少なくとも、この一帯に人の営みがあった証拠だ。





出発には、万全の準備を期した。

目的地は深山の廃村だ。最悪の事態を想定しなければならない。

現地では野外活動を強いられるだろう。

衛星写真で見る限り、あの場所はあまりに隔絶されている。

人に会えるかどうかも怪しい。


私は自宅に戻り、荷物をまとめ始めた。

十分な保存食、スチール製の水筒、野戦用ナイフ、防水ライター、救急セット、ロープ。

これらは必須だ。


さらにコンパスとヘッドライト。

通信圏外を想定し、GPSデバイスも登山リュックに詰め込んだ。


服装は山歩きを考慮し、ハイカットの登山靴に耐摩耗性のパンツ、アウター、手袋、そして数着の着替え。


生存に必要な装備に不備がないことを確認し、次は民俗学者としての道具を揃える。


使い慣れた防水手帳、ボイスレコーダー、カメラ、計測用のメジャー、採取用のチャック付きポリ袋。

現代の地図も複数枚、防水合成紙のものを揃えた。

そのうち一枚には蛍光ペンでびっしりとマーキングしてある。


資料はデジタルと紙の両方を用意した。

本来なら複製だけで十分だが、なぜか妙な直感が働き、手描き地図の原本もファイルに入れて持っていくことにした。



準備を整え、行程と帰還予定時刻を研究室に提出する。

連絡先と定時報告の時間も共有した。

あとは、現地へ赴くだけだ。





燃料を満タンにし、さらに予備のガソリン缶を車の後部に固定した。


目的地に近づくにつれ、景色は荒涼とし、手付かずの自然が色濃くなっていく。


山道に入って三十分も経たないうちに、ナビの信号が途絶えた。

画面を指で叩いてみたが、反応はない。

細い灰色の線の途中で、記録が強制的に断ち切られたように止まっている。


「……やっぱりか」

私はため息をつき、腕時計を確認しながら、ナビが途絶えた正確な座標と時刻を記録した。

スマホを助手席に放り、後部座席から紙の地図を取り出した。


「この川が流路を変えていなければ、村はこのあたりにあるはずだが」

右手に流れる川を基準に、推定方向へ進む。


だが、次第に地図と現実の間にズレが生じ始めた。


「おかしいな……ここ、さっきも通らなかったか?」


突き出した奇妙な形の岩を凝視するが、記憶の錯覚か、それとも実際に同じ場所に戻ってきたのか、判別がつかない。


車は同じ場所を堂々巡りしているような感覚に陥る。


私は一度車を止め、改めて地図を見直した。

手帳に現在地と異常事態を書き留めた。

古地図と現代の地図を重ね合わせた時、ある事実に気づいた。


「これは……」

道がある。古地図にだけ記され、現代の地図では空白になっている場所へと続く道だ。


その道に従って進む。山道は次第に細くなり、舗装は消え、砂利道へと変わった。

ほどなくして、周囲に霧が立ち込め始めた。



「勘弁してくれ。予報では一週間ずっと晴れだったはずなのに。山の天気はこれだからな」


溜息をつき、アクセルを踏み続ける。

最初は午後の山林によくある薄い水蒸気だと思っていた。

だが、奥へ進むにつれ、霧は濃密さを増していく。


単なる白ではない。

灰色を帯びた乳白色。


空気中に粒子が混じっているかのような、ざらついた感触。


私は眉をひそめ、窓を少しだけ開けた。

空気が流れ込んだ瞬間、複雑な臭いが鼻腔を突く。


湿った土。

腐敗した樹木。

そして、かすかな異臭。


私は無意識に息を止め、窓を閉めた。


「……山の霧か?」

呟いてみたが、自分を納得させることはできなかった。



霧はヘッドライトの光を飲み込み、視界は数メートル先まで圧縮された。


エンジン音さえ、どこか鈍く重い。



ハンドルを握る手に力が入り、速度を落とす。

一寸先も見えない状況で進むのは、間違いなく危険だ。

それでも、頭の中の古地図が前へ進めと私を急き立てる。


歩くのと変わらない速度まで落としながら、

停止して霧が晴れるのを待つべきか、それとも進むべきか迷っていた。


不意に、前方の霧の中に影が浮かび上がった。



反射的にブレーキを踏み抜いた。


タイヤが砂利道で鋭い摩擦音を立て、滑るようにして止まった。


霧がゆっくりと薄れていく。


それは、路傍に斜めに突き刺さった木製の道標だった。

表面は苔と白い斑点に覆われ、刻まれた村名はひどく掠れている。




胸が高鳴る。

もしかすると、これが「久良木村」への道標かもしれない。


理性は「止まれ」と警告しているが、言いようのない焦りが私を突き動かす。


ここから先は、車で進める道ではない。

私は路肩に車を止め、徒歩で行くことを決めた。


リュックを背負い、一度だけ車を振り返る。

腰の野戦ナイフの柄に触れる。

冷たい金属の感触が、わずかに正気を取り戻させた。



襟を引き上げ、

私はそのまま、濃密な霧の深淵へと足を踏み入れた。

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