深山
私の名前は成田宗一。地方大学で非常勤講師を務める、しがない民俗学者だ。
近頃、内々の情報から民俗学の権威、小野教授が退官するという噂を耳にした。
つまり、専任講師のポストが一つ空くということだ。
この朗報には、しかし、一つ小さな問題があった。
その椅子を勝ち取るには、ライバルの前田と競り合わなければならない。
遺憾ながら認めざるを得ないが、現状、私の勝算は決して高くはなかった。
ちょうどその時、一つの可能性を見つけた。
採用への評価を押し上げる論文が書けるかもしれない。
それは研究室で偶然見つけた、一冊の地方誌だった。
どの指導教員が残したのかも分からない、未整理の資料の中にそれはあった。
ボロボロのページには、昭和初期に発生した大火災について記されていた。
空一面が赤く染まり、その火によって百人規模の村が消滅したという。
生き残った者は、一人もいない。
さらに頁の間には、黄ばんだ手描きの地図が挟まっていた。
古い和紙に描かれた簡素な地図の縁には、桐油が染みた跡がある。
そして右上には、小さく「久良木村」と書かれていた。
正直なところ、内容の信憑性には強い疑念を抱いている。
これほどの大事件が、書籍の中ではわずか数行の記述に留まっているからだ。
柳田先生の『山の人生』や、他の地方誌、民俗採集の記録に当たっても、関連する記載は一切見当たらない。
だが、これは信憑性を下げる要因であると同時に、もし事実であれば、学界が未だ手をつけていない「空白の研究領域」であることを意味している。
論文を一本増やしたところで、正規採用への道が劇的に開けるわけではないかもしれない。
だが現状、他に手はない。賭けてみる価値はあった。
もちろん、情報不足のまま闇雲に動くつもりはない。
特戦隊に数年身を置いた経験から、事前の情報収集がいかに重要かは身に染みている。
まず確認すべきは、類似または関連する先行研究の有無だ。
既に研究されていれば、価値は大きく下がる。
幸いにも、年代・地域・事件のいずれで検索しても該当するものは見つからなかった。
史料から判断するに、この滅びた「久良木村」は、人里離れた深山に位置しているようだ。
記述がこれほど少ないのも、その立地ゆえかもしれない。
想定される位置を割り出し、まずはネットで衛星画像を確認した。
画面に映し出されたのは、鬱蒼と茂る原生林だ。
何も得られないかと思ったその時、かすかに人工物らしき痕跡が目に飛び込んできた。
「よしっ……!」
私は思わず拳を握りしめた。
少なくとも、この一帯に人の営みがあった証拠だ。
出発には、万全の準備を期した。
目的地は深山の廃村だ。最悪の事態を想定しなければならない。
現地では野外活動を強いられるだろう。
衛星写真で見る限り、あの場所はあまりに隔絶されている。
人に会えるかどうかも怪しい。
私は自宅に戻り、荷物をまとめ始めた。
十分な保存食、スチール製の水筒、野戦用ナイフ、防水ライター、救急セット、ロープ。
これらは必須だ。
さらにコンパスとヘッドライト。
通信圏外を想定し、GPSデバイスも登山リュックに詰め込んだ。
服装は山歩きを考慮し、ハイカットの登山靴に耐摩耗性のパンツ、アウター、手袋、そして数着の着替え。
生存に必要な装備に不備がないことを確認し、次は民俗学者としての道具を揃える。
使い慣れた防水手帳、ボイスレコーダー、カメラ、計測用のメジャー、採取用のチャック付きポリ袋。
現代の地図も複数枚、防水合成紙のものを揃えた。
そのうち一枚には蛍光ペンでびっしりとマーキングしてある。
資料はデジタルと紙の両方を用意した。
本来なら複製だけで十分だが、なぜか妙な直感が働き、手描き地図の原本もファイルに入れて持っていくことにした。
準備を整え、行程と帰還予定時刻を研究室に提出する。
連絡先と定時報告の時間も共有した。
あとは、現地へ赴くだけだ。
燃料を満タンにし、さらに予備のガソリン缶を車の後部に固定した。
目的地に近づくにつれ、景色は荒涼とし、手付かずの自然が色濃くなっていく。
山道に入って三十分も経たないうちに、ナビの信号が途絶えた。
画面を指で叩いてみたが、反応はない。
細い灰色の線の途中で、記録が強制的に断ち切られたように止まっている。
「……やっぱりか」
私はため息をつき、腕時計を確認しながら、ナビが途絶えた正確な座標と時刻を記録した。
スマホを助手席に放り、後部座席から紙の地図を取り出した。
「この川が流路を変えていなければ、村はこのあたりにあるはずだが」
右手に流れる川を基準に、推定方向へ進む。
だが、次第に地図と現実の間にズレが生じ始めた。
「おかしいな……ここ、さっきも通らなかったか?」
突き出した奇妙な形の岩を凝視するが、記憶の錯覚か、それとも実際に同じ場所に戻ってきたのか、判別がつかない。
車は同じ場所を堂々巡りしているような感覚に陥る。
私は一度車を止め、改めて地図を見直した。
手帳に現在地と異常事態を書き留めた。
古地図と現代の地図を重ね合わせた時、ある事実に気づいた。
「これは……」
道がある。古地図にだけ記され、現代の地図では空白になっている場所へと続く道だ。
その道に従って進む。山道は次第に細くなり、舗装は消え、砂利道へと変わった。
ほどなくして、周囲に霧が立ち込め始めた。
「勘弁してくれ。予報では一週間ずっと晴れだったはずなのに。山の天気はこれだからな」
溜息をつき、アクセルを踏み続ける。
最初は午後の山林によくある薄い水蒸気だと思っていた。
だが、奥へ進むにつれ、霧は濃密さを増していく。
単なる白ではない。
灰色を帯びた乳白色。
空気中に粒子が混じっているかのような、ざらついた感触。
私は眉をひそめ、窓を少しだけ開けた。
空気が流れ込んだ瞬間、複雑な臭いが鼻腔を突く。
湿った土。
腐敗した樹木。
そして、かすかな異臭。
私は無意識に息を止め、窓を閉めた。
「……山の霧か?」
呟いてみたが、自分を納得させることはできなかった。
霧はヘッドライトの光を飲み込み、視界は数メートル先まで圧縮された。
エンジン音さえ、どこか鈍く重い。
ハンドルを握る手に力が入り、速度を落とす。
一寸先も見えない状況で進むのは、間違いなく危険だ。
それでも、頭の中の古地図が前へ進めと私を急き立てる。
歩くのと変わらない速度まで落としながら、
停止して霧が晴れるのを待つべきか、それとも進むべきか迷っていた。
不意に、前方の霧の中に影が浮かび上がった。
反射的にブレーキを踏み抜いた。
タイヤが砂利道で鋭い摩擦音を立て、滑るようにして止まった。
霧がゆっくりと薄れていく。
それは、路傍に斜めに突き刺さった木製の道標だった。
表面は苔と白い斑点に覆われ、刻まれた村名はひどく掠れている。
胸が高鳴る。
もしかすると、これが「久良木村」への道標かもしれない。
理性は「止まれ」と警告しているが、言いようのない焦りが私を突き動かす。
ここから先は、車で進める道ではない。
私は路肩に車を止め、徒歩で行くことを決めた。
リュックを背負い、一度だけ車を振り返る。
腰の野戦ナイフの柄に触れる。
冷たい金属の感触が、わずかに正気を取り戻させた。
襟を引き上げ、
私はそのまま、濃密な霧の深淵へと足を踏み入れた。




