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がらん、と鈍い音を立てて、木箱が蹴倒された。
乾いた埃の匂いが、空気に満ちている。
白蓮は粗末な藁束の上に転がされていた。
手足を縛られ、口こそ塞がれていないが、声はもう出なかった。
(どこ……ここ……)
半分眠ったような、半分夢を見ているような感覚。
目の端で揺れているのは、天井にぶら下がった裸の蝋燭。その炎だけが灯りだった。
誰かが近づく足音がする。
開かれた扉の隙間から、何人もの影が覗いている。
「剣姫って噂の女だろ? 思ったよりガキじゃねぇか」
「でも、顔はいいぞ。上物だ」
「へへ、競りにかければ、きっと高く売れる。あの北方の貴族どもは、若い娘に目がないからな」
ろくでもない言葉が、耳元で吐かれる。
誰かが髪に触れた。誰かが着物の裾をつまんだ。
(さわんな……)
怒りはある。悔しさも、情けなさもある。
けれど、体は動かない。匂いのついた布のせいで、指一本、持ち上がらない。
「おい、縛り直せ。こいつ、まだ暴れるかもしれん」
「へぇへぇ。……にしても、あの時の気迫すげぇよな。目がマジだった。おれ、ちょっと怖かったわ」
誰かの声が笑う。誰かの声が嗤う。
その全てが耳に残り、心を蝕んでいく。
(こんなところで……終わるの……?)
訓練してきた。努力してきた。
誇りがあった。華江家の剣姫として、人に後れを取るつもりなんてなかった。
なのに──
(なに……してんの、私……)
目から涙がこぼれる。
悔しさじゃない。ただ、無力だったことが、苦しくてたまらなかった。
足音が、止まった。
誰かが、戸口に立った。
白蓮は顔を上げた。
見えるはずのない視界が、微かに開ける。
蝋燭の揺らめき越しに、誰かの影が映っていた。
(……誰?)
心の奥で、小さく希望が芽吹いた。
この場違いな空気。この静けさ──
──助けが来た?
だが、白蓮は次の瞬間、唇を震わせる。
「……うそ、でしょ……」
灯りの向こうに立っていたのは、
痩せた体、乱れた黒髪、肩に本のカスがついてそうな──あの“木偶の坊”だった。
黎 雲舟。
何をしているのかわからない。
こんなところに来て、何の意味があるのか。
ただ、呆然と立ち尽くして──
──いや、違う。
雲舟は、一歩、足を踏み出していた。
静かに、剣を、抜いていた。
(なに、してんの……)
唇が乾いて、震えた。
呼吸もうまくできない。
「な……で、あな、た?」
掠れた声が、零れ落ちる。
だがそれは、助けを求めた声ではなかった。
もう、どうにでもなれという声でもなかった。
ただ、そこに立つ“でくの坊”に、現実を突きつけるだけの言葉だった。
(だってあんたじゃ……なにも、変わらない)
“あたしを助けられるわけがない”。
それが、白蓮の心の叫びだった。