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雲舟はその日も、書を読んでいた。
武道場の隅、陽の差す石床の上に敷いた布の上で、彼は静かに胡座をかき、古びた巻物をめくっていた。
朝から誰とも言葉を交わしていない。
兄たちは朝稽古のあとすぐに出かけ、道場には雲舟のほか誰もいない──はずだった。
「……あんたって、本っ当に暇人ね」
その声がしても、雲舟は顔を上げなかった。
振り返れば、そこには紅い稽古着姿の少女。
剣姫・白蓮が、腰に手を当て、あきれ顔で立っていた。
「読書家のふりして、兄たちから逃げてるつもり? 剣神家の末子っていう肩書き、ずいぶんと軽いのね」
「……俺の肩書きに価値なんてないさ」
雲舟は静かに返す。
「開き直り? それとも、もう“でくの坊”って呼ばれることにも慣れちゃった?」
「慣れたというより、別に気にしてない」
「うっわ、それが一番タチ悪い」
白蓮はぐっと一歩踏み出し、彼の前に立つ。
「じゃあ、ひとつ勝負しない? あんたが剣を振れるかどうか、確かめたい」
雲舟はようやく顔を上げた。
黒髪が額にかかる。無表情のまま、問い返す。
「……なんのために?」
「私の気が済まないのよ。“剣を握れないくせに、どこか達観してる顔”が、ずっと癪だった」
白蓮は腰の木剣を抜く。
舞うような構えに、雲舟はわずかに目を細めた。
(重心が左に偏ってる。上体の捻りも無駄が多い。反応は早いけど、切り返しが甘い)
心の中で、淡々と観察する。
けれど、声にはしない。誰にも教えない。それが、彼のやり方だった。
「で? 受けるの? 逃げるの?」
「逃げはしない。ただ……興味がないだけだよ」
その返答に、白蓮は明らかにムッとした。
「──やっぱりあんた、嫌いだわ」
「それは、最初からだろ」
ぱしん、と木剣の柄を手のひらで打つ音が響く。
白蓮はしばらく雲舟を睨んでいたが、やがてふっと鼻で笑った。
「じゃあ、勝手に本でも読みなさいよ。“剣神の名を汚した男”って、どこまで地に落ちるのか見物だから」
彼女が去ったあと、雲舟は静かに本を閉じた。
石畳の上、白蓮が立っていたあたりを、目でなぞる。
草履の跡が残る土の乱れと、風の通り道。
彼女の足の運び、構え、呼吸──全部、記憶に刻んだ。
(あいつ、悪くない。素質はある。けど……)
そのとき、屋敷の下の門が開いた音がした。
兄たちが帰ってきたのかと身を起こしかけたとき──ふと、どこか遠くで喧騒が上がるのが聞こえた。
低い怒号。走る足音。人がざわつく声。
雲舟の眉がかすかに動いた。
「……?」
まだ、この時は知らなかった。
あの白蓮が、今日の夕方──道で拉致され、命の危機に晒されることを。
そして、自分の“剣”を、初めて誰かの前で振るうことになることを。