二人の碩学、夏の午後
「……それにしても、」
沈黙を破ったのは朔だった。彼はグラスに満たされた麦茶の、琥珀色の液体を眺めながら、独り言のように呟いた。
「殺人的、という形容がこれほど陳腐に響く暑さも珍しい。毎年更新される紋切り型の表現だが、今年のこれは、もはや比喩ではない。純然たる事実として、生物に対する明確な殺意を感じる」
蓮は、座卓の木目に視線を落としたまま、静かに応じた。
「殺意、か。面白い表現だ。自然現象に意図を見出すのは、人間の根源的な認知バイアスの一つだが、朔、君ほどの人間が使うと、単なる比喩以上の響きを持つな。まるで、この暑さが何者かによって設計されたかのような……」
「設計、ね。神か、あるいは悪魔か」朔は唇の端を歪めて笑う。「いや、もっと即物的な話だよ、蓮。この熱量は、物理的な作用として、我々の身体を構成するタンパク質を変性させ、生命活動の維持を困難にする。その結果として死に至らしめる。これは客観的な事実だ。そのプロセスを『殺意』と呼ぶことに、何の論理的飛躍があるかね?」
「飛躍はない。だが、言葉の選択には君の思想が滲む」蓮はゆっくりと顔を上げ、朔の目を見た。「君は、この暑さを単なる物理現象としてではなく、我々の存在を脅かす『他者』として捉えている。違うか? 熱力学の法則に従って運動する分子の集合体ではなく、敵対的な意志としてだ」
「ほう。私の無意識を分析するか。さすがは物理学者、事象を構成要素に還元するのがお好きらしい」朔は麦茶を一口含み、喉を潤した。「だが、その通りかもしれん。私にとって、この『暑さ』は、温度計が示す38℃という数値だけでは到底記述しきれない。肌を刺す日差しの暴力性、呼吸を妨げる湿度の粘り気、脳の髄まで煮え立たせるような不快感。これら全ての感覚質の総体が、私が『暑さ』と呼ぶものだ。そしてそれは、確かに私という存在の外部から、その存続を脅かしてくる。敵対的と言われれば、そうだろう」
「クオリア、か。また厄介な問題を持ち出す」蓮は苦笑した。「物理学が記述できるのは、あくまで世界の構造、関係性だ。エネルギーの移動、粒子の振る舞い。だが、君が言う『不快感』という主観的な体験が、なぜ、そしてどのようにして、その物理的プロセスから立ち現れるのか。これは科学にとって依然として最大の謎の一つだ。ハード・プロブレム、というやつだな」
「その通り。そして、そのハード・プロブレムこそが、我々が今ここでこうして『暑さ』について語る、その意味の根源じゃないのかね? もし我々が、温度や湿度を数値データとして処理するだけの情報処理機械だったなら、『いやあ、暑いですね』なんていう、この無意味で、しかし人間的な会話は永遠に生まれなかっただろう」
二人の間に、再び沈黙が落ちる。蝉の声が、まるで沸騰した空気そのものが発する音のように、空間を満たしていた。風鈴は、相変わらず沈黙を守っている。
「そもそも」と、朔が再び口火を切った。「我々日本人は、いつからこれほどまでに『暑さ』を敵視するようになったのだろうか。もちろん、昔から夏が暑かったことに疑いはない。清少納言は『夏は夜』と言い、月のころはさらなり、闇もなほ、蛍の多く飛びちがひたる、などと優雅なことを書いている。だが、彼女の文章からは、現代の我々が感じるような、暑さに対する呪詛や怨嗟は感じられない。むしろ、それは当然の前提として、その中でいかに風流を見出すか、という美意識さえ窺える」
蓮が応じる。「時代が違う。気候も、生活様式も、そして人間の身体感覚そのものもだ。平安京が、現代の京都のようなヒートアイランド現象に見舞われていたとは考えにくい。それに、彼女たち貴族は、日中の最も暑い時間帯は御簾の奥で涼んでいたのだろう。我々のように、冷房の効いたオフィスと灼熱のアスファルトの間を往復するような生活ではなかった」
「なるほど、物理的な環境の違いは大きいだろうな」朔は頷いた。「だが、それだけだろうか。私は、もっと精神的な、あるいは文化的な構造の変化があったのではないかと考えている。例えば、江戸時代の浮世絵を見てみろ。縁側で涼む人々、川遊びに興じる子供たち。そこに描かれているのは、暑さからの逃避というよりは、暑さとの共存、あるいは一種の享受ですらあるように見える。彼らは、暑さを生活の一部として、季節の循環の一部として、ごく自然に受け入れていたのではないか」
「それは、彼らに選択肢がなかったからだ、という見方もできる」蓮は冷静に指摘した。「エアコンという、暑さから完全に隔離される手段を持たなかった。だから、与えられた環境の中で、可能な限りの工夫をするしかなかった。打ち水、風鈴、すだれ。それらは、現代の我々から見れば風流だが、当時は生き延びるための必死のテクノロジーだったはずだ」
「テクノロジー、か。面白い。確かにそうだ」朔は膝を打った。「そして、そのテクノロジーは、自然を完全に制御するものではなく、自然の力を『いなす』『受け流す』類のものだった。風鈴は風を呼び込むのではなく、風の存在を音によって知らせ、涼を『感じさせる』装置だ。打ち水は、気化熱を利用するささやかな抵抗に過ぎない。彼らのテクノロジーは、自然に対する人間の無力さ、という前提の上に成り立っていた。だが、エアコンはどうだ? あれは、自然の法則そのものに挑戦し、外部環境を完全に遮断して、内部に人工的な小宇宙を創造する装置だ。そこには、『いなす』という思想はない。あるのは『支配』と『制御』だ」
「その結果として、我々はかつてない快適さを手に入れた。熱中症による死者の数を劇的に減らしたことも事実だ」
「もちろん、功罪の『功』の部分を否定するつもりはない。だが、『罪』の部分を我々はあまりに無自覚に受け入れすぎてはいないか? エアコンの登場によって、『暑さ』は、共存すべき自然現象から、撲滅すべき『敵』へと完全にその意味を変容させた。そして、我々は自ら作り出した人工の楽園に閉じこもり、一歩外に出た途端、牙を剥く自然に対して、かつてないほどの脆弱性を露呈することになった。身体的な脆弱性だけではない。精神的な脆弱性もだ。我慢ができない。不快なものに対する耐性が極端に低くなった。この『殺人的な暑さ』という言葉のインフレも、その証左と言えるかもしれん」
蓮は、朔の言葉を吟味するように、しばらく黙考していた。やがて、彼は静かに口を開いた。
「君の言う文化的な変容論は興味深い。だが、私はもう少し別のレイヤーからも考えてみたい。それは、時間スケールの問題だ。我々が今経験しているこの『暑さ』は、本当に平安時代や江戸時代と同質のものなのか、という問いだ」
「というと?」
「気候変動だよ、朔。もちろん、君も刻々と報じられるニュースで聞き飽きているだろうが、その本質的な意味を、我々はまだ捉えきれていないのではないか。これは単なる『温暖化』という線形的な変化ではない。非線形的な、複雑系のカオス的な振る舞いとして捉えるべきだ。例えば、平安中期は比較的温暖だったが、江戸時代は小氷期と呼ばれる寒冷な時期にあたる。当時の人々が経験した『夏』と、我々が経験する『夏』とでは、平均気温だけでなく、その変動のパターン、極端な気象現象の頻度も全く異なっていた可能性がある」
蓮は、まるで目の前に数式でも展開するように、指で宙をなぞりながら続けた。
「私が収集している古文書の中にも、当時の天候に関する記述は散見される。だが、それはあくまで断片的な記録だ。日々の気温や降水量を体系的に記録するようになったのは、ごく最近のことだ。我々は、地球という巨大なシステムの、ほんの短い期間のデータだけを見て、全体を理解した気になっている。だが、地球の気候史という壮大な時間軸から見れば、現代は異常な速度でエネルギーが注入されている、極めて特異な時代だ。我々が『殺人的』と感じるこの暑さは、単なる季節の巡り合わせではなく、人類という種が、自らの活動によって惑星の熱収支を攪拌した結果として生み出された、全く新しい種類の『現象』なのかもしれない」
「人新世の夏、というわけか」朔は蓮の言葉を引き取った。「人間が、地質学的な作用を及ぼすほどの力を持ってしまった時代の、初めての夏。なるほどな。そうなると、話は変わってくる。我々が感じているこの違和感、この『殺意』は、単なる文化的な感性の変化ではなく、我々の身体が、かつて経験したことのない環境に対する悲鳴、アラートなのかもしれない。生物としての、根源的な危険信号だ」
「その通りだ。我々ホモ・サピエンスは、アフリカのサバンナで誕生し、約7万年前のトバ火山の噴火による火山の冬を生き延び、その後、世界中に拡散していった。その過程で、様々な気候に適応してきた。高緯度地域の寒冷な気候に適応するために、我々の祖先は体毛を失う代わりに衣服を発明し、火を操った。だが、この現代の、急激な熱環境の変化に対して、我々の身体は進化的な時間スケールで適応する猶予を与えられていない。我々の身体は、数万年、数十万年という時間をかけて最適化されてきた、いわば『過去の環境の記憶』だ。その記憶と、目の前の現実との間に、致命的なギャップが生じている」
「生物としてのリミット、か」朔は呟き、グラスに残っていた麦茶を飲み干した。「そして、そのリミットを、我々はテクノロジーで強引に突破しようとしている。エアコンはその象徴だが、それだけではない。遺伝子工学、サイボーグ技術。我々は、自らが作り出した環境に適応できない自らの身体を、今度は直接的に改変しようとさえしている。これは、一体どこへ向かうのだろうな。もはや人間という種の定義そのものが、揺らいでいる」
「それは、避けられない道なのかもしれない」蓮は静かに言った。「生命とは、本質的にエントロピー増大の法則に抗い、局所的に秩序を形成しようとするシステムだ。そのために、常に外部からエネルギーと物質を取り込み、内部環境を一定に保とうとする。ホメオスタシスだな。そして、知性とは、そのホメオスタシスをより高度に、より広範囲に実現するためのツールとして進化した、と考えることもできる。衣服も、住居も、そしてエアコンも、我々の身体という脆弱なシステムのホメオスタシスを、外部環境の揺らぎから守るための、拡張された身体なのだ。その延長線上に、自らの身体そのものを改変する未来があるとしても、それは生命の持つ本質的な指向性から見れば、ある意味で必然なのかもしれない」
「必然、ね」朔は、空になったグラスを座卓に置いた。カタリ、と硬質な音が響く。「君のその論理は、あまりに冷徹で、美しい。だが、蓮、その必然性の果てに待っている世界は、果たして我々が『人間的』と呼べるものなのだろうか。不快感も、苦痛も、暑さも寒さも、全てがテクノロジーによって完全にコントロールされた世界。それは、一見するとユートピアのようだが、実はディストピアと紙一重だ。なぜなら、我々の感情や文化、芸術の多くは、まさにその不快感や苦痛、ままならない自然との格闘の中から生まれてきたからだ。暑さを呪い、涼を希求する心があったからこそ、清少納言の文章も、江戸の浮世絵も生まれた。その根源的な動機が失われた時、人間は何を創造し、何を美しいと感じるのだろうか」
「……それは、哲学の領域だ」蓮は少し間を置いて答えた。「私には分からない。物理学の法則は、何が『善』で何が『美しい』かについては、何も語ってくれない。それは、価値の不在の世界だ。ただ、一つだけ言えることがあるとすれば」
蓮は立ち上がり、障子のそばまで歩いていくと、じっと庭の緑を見つめた。蝉の声が、一瞬、遠のいたように感じられた。
「この宇宙全体が、熱力学第二法則に従って、不可逆的にエントロピーを増大させ続けている。秩序は乱雑さへと向かい、最終的には、全てのエネルギーが均一に拡散した『熱的死』という状態に行き着く。それが、宇宙の究極的な運命だと考えられている。我々が今感じているこの『暑さ』も、太陽という巨大な核融合炉が放出したエネルギーが、地球という小さな惑星の上で一時的に滞留し、やがて宇宙空間へと拡散していく、その壮大なプロセスのほんの一瞬の断面に過ぎない」
彼は、ゆっくりと朔の方を振り返った。その目は、夏の午後の光を受けて、静かに澄んでいた。
「生命や、我々が持つ知性という現象は、この巨大なエントロピー増大の流れに逆らって、一時的に、そして局所的に、驚くべき秩序を形成する奇跡のような存在だ。だが、その秩序を維持するためには、莫大なエネルギーを消費し、結果として、周囲の環境を含めた宇宙全体のエントロピーを、より大きなスケールで増大させてしまう。我々がエアコンで涼を得れば得るほど、室外機は熱を排出し、地球全体の熱量は増えていく。知性が生み出した文明が、皮肉にも惑星の環境を破壊し、自らの存続基盤を脅かしている。これは、生命と知性が内包する、根源的なパラドックスなのだ」
「……壮大な話になってきたな」朔は、空いたグラスに水差しから麦茶を注ぎながら、呟いた。「宇宙の熱的死、か。我々のこの、汗だくの不快な午後の会話が、そんな途方もない終末論に繋がっているとは。だが、面白い。そのパラドックスこそが、我々の現在地を的確に示しているのかもしれない。エントロピーに抗うために知性を発達させた生命が、その知性ゆえに、自らの首を絞めている。まるで、ギリシャ悲劇のようだ。運命から逃れようとすればするほど、その運命の罠に絡め取られていくオイディプス王のように」
「悲劇、か。そうかもしれないな」蓮は元の場所に戻り、再び座った。「だが、私はそこに、単なる悲劇ではない、別の可能性も見たいと思っている。朔、君は先ほど、クオリアの問題を提起した。物理現象が、なぜ主観的な『体験』になるのか、という問いだ。私は、あれは単なる哲学的な問いではなく、物理学の根幹に関わる問題だと考えている」
「というと?」朔は身を乗り出した。彼の知的好奇心が、夏の暑さを忘れて疼き始めているのが見て取れた。
「現代物理学、特に量子力学は、我々の直感に反する奇妙な世界を描き出す。粒子は、観測されるまでは波として確率的に存在し、観測された瞬間に一つの場所に収縮する。この『観測問題』は、100年以上も物理学者を悩ませ続けている。一体、『観測』とは何なのか? 意識を持つ人間が観測することが、本質的な役割を果たしているのか? それとも、単なる物理的な相互作用に過ぎないのか?」
「ペンローズやハメロフの、意識の量子脳理論のような話か?」
「それも一つの仮説だが、私が言いたいのは、もっと根本的なことだ。我々が世界を『記述』する物理法則と、我々が世界を『体験』するこの主観的な現実との間には、まだ我々が理解していない、深淵な繋がりがあるのではないか、ということだ。君が感じる『暑さの不快感』というクオリアは、脳内の神経細胞の発火パターンという物理現象に還元できる、と多くの科学者は考えている。だが、本当にそうだろうか? その発火パターン『そのもの』が、なぜ『不快』という質感を持つのだ? そこには、説明のギャップ、論理の飛躍がある」
蓮は、自らのグラスを手に取った。切子の表面についた水滴が、彼の指を濡らす。
「もしかしたら、我々が『意識』や『体験』と呼んでいるものは、宇宙に遍在する、まだ知られていない何らかの基本的な性質なのかもしれない。そして、生命、特に脳という高度に組織化されたシステムは、その性質を増幅し、顕在化させるための、一種のアンテナのような役割を果たしているのではないか。そう考えると、君が感じる『暑さ』は、単なる君個人の脳内の出来事ではなく、君というアンテナを通して、宇宙の根源的な性質の一部が『体験』として現れている、と考えることもできる」
「……まるで汎神論だな」朔は、驚きと面白さが入り混じったような表情で言った。「万物に霊が宿る、というアニミズム的な世界観にも通じる。最新の物理学の探求が、最も原初的な世界観と響き合うというのは、実に興味深い逆説だ。だが、仮に君の言う通りだとして、それが我々の『暑さ』の問題とどう繋がるんだ?」
「こう繋がる。我々がこの『暑さ』を、単なる克服すべき敵、あるいは物理的なデータとしてではなく、一つの『体験』として深く味わい、その意味を問うこと。それ自体が、宇宙が自らを認識するための一つのプロセスなのかもしれない、ということだ。我々という知性を持った存在を通して、熱エネルギーの移動という無味乾燥な物理現象が、『夏の暑さ』という豊かで複雑な体験へと昇華される。その行為そのものに、宇宙論的な意味があるのではないか、と」
「なるほど……」朔は深く息を吐いた。「つまり、我々がこうして『暑い、暑い』と文句を言いながら、その原因を科学的に分析し、文化的に考察し、哲学的に思索すること。その知的な営みこそが、エントロピー増大という巨大な流れに対する、ささやかで、しかし唯一可能な抵抗であり、存在意義である、と。そういうことか」
「抵抗、というよりは……そうだな、『意味の付与』と言った方が近いかもしれない」蓮は言葉を選んだ。「宇宙は、それ自体では意味を持たない。ただ、物理法則に従って変化していくだけだ。そこに意味を見出すのは、我々のような知的な観測者だ。この耐え難い暑さも、我々がそれを体験し、語り、思考することで初めて、『人新世の夏の象徴』や『生命のパラドックスの現れ』といった意味を帯びる。その意味のネットワークを紡ぎ出すことこそが、知性の本質的な役割なのではないだろうか」
その時だった。
それまでぴたりと止んでいた風が、すうっと書院を吹き抜けた。開け放たれた障子の向こうで、庭の木々の葉がさわさわと揺れる。そして、軒先の風鈴が、澄んだ音色で「ちりん、ちりん」と鳴った。
それは、ほんの数秒間の出来事だった。だが、その一瞬、二人の肌を撫でた涼やかさは、エアコンが作り出す人工的な冷気とは全く質の異なる、生命感に満ちたものだった。灼熱の中に生まれた、ほんの一瞬の秩序。奇跡のような涼しさだった。
二人は、どちらからともなく、言葉を失っていた。
蝉の声が、心なしか和らいで聞こえる。
風が通り過ぎると、再びもとの静寂と熱気が戻ってきた。だが、二人の間の空気は、明らかに先ほどとは変わっていた。
やがて、朔が口を開いた。その声は、それまでの皮肉な響きが消え、穏やかなものになっていた。
「……結局、我々にできるのは、こういうことなのかもしれないな」
彼は、風鈴が吊るされた軒先を見つめながら言った。
「どれだけ宇宙の終焉を語り、人類の未来を憂いても、我々は、今ここで、この身体で、この一瞬を生きるしかない。そして、この耐え難い熱気の中で、時折訪れる一陣の風に、救われたような気持ちになる。その涼しさを、全身で味わう。ただ、それだけだ。そして、もしかしたら、それだけで十分なのかもしれない」
蓮は、静かに頷いた。
「ああ。そして、なぜこの風が涼しいと感じるのか、その理由を問い続けることだ。気圧の差、体表からの水分の蒸発、皮膚の感覚受容器の反応……その一つ一つを解き明かそうとすること。その問いの連鎖が、科学を生み、哲学を生み、文化を紡いできた。その営みを、我々は諦めてはならない」
「諦めない、か。威勢がいいな」朔は、いつもの調子を少しだけ取り戻して言った。「このまま気温が上昇し続け、数十年後には、夏の間は地下都市で暮らすのが当たり前になるかもしれない。そんな未来が来ても、君はまだ問い続けると?」
「もちろんだ」蓮は、即答した。「たとえ地下都市に住むことになっても、我々は地上の太陽の存在を忘れないだろう。なぜ我々は地下にいるのか、地上はどうなっているのか、と問い続けるはずだ。その問いがある限り、人間は人間でいられる。私はそう信じている」
「そうか……」朔は、ふっと息を漏らすように笑った。「君は、根っからの楽天家だな、蓮。いや、あるいは、最も純粋な探求者と言うべきか。……まあ、いい。君のような男が友人でいることを、幸運に思うことにしよう。おかげで、この退屈で不快な夏の午後が、少しだけ意味のある時間に思えてきた」
彼は立ち上がると、障子際に置かれていた自分の鞄を手に取った。
「さて、そろそろ失礼するとしよう。東京に戻る新幹線の時間がある。あちらの灼熱地獄に比べれば、この書院はまだ天国だったがな」
「もう帰るのか」
「ああ。君との対話は、いつもカロリー消費が激しい。頭が沸騰する前に、退散させてもらうよ」
蓮も立ち上がり、朔を見送るために玄関へと向かった。
寺の境内に出ると、西に傾きかけた太陽が、まだ強い光を投げかけていた。地面からの照り返しが、むわりと顔をなめる。遠くで、ひぐらしが鳴き始めていた。カナカナカナ、というその声は、昼間の蝉時雨とは違う、どこか物悲しい響きを持っていた。
「次に会うのは、秋か、冬か」朔が言った。
「ああ。その頃には、また別のテーマで語り合おう。例えば、『寒さ』について、とかな」
蓮の言葉に、朔は声を立てて笑った。
「それもいい。だが、どうせ君のことだ。『寒さ』の話も、最後は宇宙の熱的死に行き着くに決まっている」
「さて、どうかな」蓮は、ただ静かに微笑むだけだった。
砂利を踏む朔の足音が、遠ざかっていく。蓮は、その背中が見えなくなるまで、黙って見送っていた。
やがて、山門の向こうに朔の姿が消えると、蓮は再び書院に戻った。
一人になった部屋は、先ほどよりも広く、静かに感じられた。座卓の上には、二つのグラスと、中身が少し減った麦茶の水差しが、まだ汗をかきながら残されている。
彼は、朔が座っていた場所に視線をやった。そこに友の姿はない。だが、彼の言葉、思考の軌跡は、まだこの部屋の空気の中に、確かな余韻として漂っているようだった。
「クオリア、か……」
蓮は一人、呟いた。
彼は自らの手のひらを見つめた。この皮膚が、大気の温度や湿度を感じ取り、脳がそれを『暑さ』という体験に変換する。その、あまりにも当たり前で、しかしあまりにも不可解なプロセス。
朔との対話は、いつも彼に、自らの専門分野である物理学の『外側』を意識させる。数式で記述された、冷たくて客観的な世界。その向こう側にあるはずの、豊かで主観的な体験の世界。その二つを繋ぐ架け橋は、まだ見つかっていない。
風鈴が、また一つ、ちり、と鳴った。
ひぐらしの声が、数を増している。
夏の長い一日が、終わろうとしていた。
それは、地球という惑星の46億年の歴史の中で、人類という種が経験する、無数にある夏の一日に過ぎない。
そして、宇宙が熱的死へと向かう、138億年の物語の中の、ほんの一瞬の出来事に過ぎない。
だが、その一瞬の中で、二つの知性は出会い、対話し、思考した。
この耐え難い『暑さ』の意味を。
そして、その向こう側にある、世界の根源的な謎を。
その営み自体が、暗く、冷たい、広大な宇宙の中で灯された、小さく、しかし、とてつもなく尊い光のように、蓮には思われた。
彼は、ゆっくりと障子を閉めた。
部屋の中に、夕暮れの前の、静かな光と影が満ちていく。
彼は再び座卓の前に座ると、自らのグラスに残っていたぬるい麦茶を、静かに飲み干した。
その喉越しに、彼は、自らが生きているという、紛れもない事実を感じていた。