最後の一滴
今回は、一滴の水が持つ「重さ」の話だ。自分一人が生きるための水か、それとも、一つの世界、その全ての記憶か。絶望的な状況で、人は何を選ぶのか。そういう、静かで、残酷なホラーを書いてみた。
大地は、ひび割れた、巨大な死体だった。
かつて、ここが豊かな緑に覆われていたことなど、もう誰も覚えていない。太陽は、容赦なく、全てを焼き尽くし、世界から「水」という概念を、消し去ろうとしていた。
僕、リョウは、その死にゆく世界で、ただ生き延びるためだけに、全てを犠牲にしてきた。
そして今日、僕は、最後の取引を終えた。持っていた、最後のアンティークオルゴールと引き換えに、僕は、それを手に入れた。
指先ほどの大きさの、密封されたガラスの小瓶。
その中に、たった一滴だけ、純粋な「水」が、封入されていた。
これが、今の、この世界の全てだった。
廃墟となったビルの、埃っぽい一室で、僕は、その小瓶を、震える手で掲げた。
喉が、焼けるように痛い。唇は、切れ、血が滲んでいる。
これを飲めば、僕は、あと一日か、あるいは二日、生きられるかもしれない。だが、飲んでしまえば、それで終わりだ。
葛藤。
だが、渇きは、あらゆる理性を麻痺させる。
僕は、意を決して、小瓶の封を、ゆっくりと、破った。
瓶の縁を、慎重に、自分の舌へと近づける。
きらりと光る、一滴の雫が、重力に従って、ゆっくりと、僕の口の中へと、滑り落ちようとしていた。
その、瞬間だった。
僕の頭蓋の内側で、直接、声が響いた。
それは、声というより、無数の、何億もの、か細い意識が、一つになった、囁きの集合体だった。
『……のまないで……ください……』
僕は、凍りついた。小瓶は、唇に触れる寸前で、ぴたり、と止まる。
『……わたしたちは……ザイロスの海……さいごの、うみ……なのです……』
ザイロス?聞いたこともない。だが、その囁きは、僕に、直接、映像を見せてきた。
青く、美しく、生命に満ち溢れた、水の惑星。そこを、優雅に泳ぐ、僕の知らない、幻想的な生き物たち。豊かな文明。穏やかな暮らし。
だが、その惑星の太陽が、赤く、巨大に、膨張していく。
海は、蒸発し、大地は、焼かれ、生命は、死に絶えていく。
そして、最後に、全ての海、全ての生命、全ての文明の記憶を宿した、たった一滴の水だけが、奇跡的に、宇宙を漂流し、この地球へと、たどり着いた。
それが、今、僕の目の前にある、この一滴だった。
『あなたにとっては、つかの間の、渇きを癒す、一瞬の命』
『わたしたちにとっては、永遠の、終わり』
『おねがい……わたしたちの、すべてを、無に、しないで……』
『さいごに……もう一度だけ、あさひ、を……見たいのです……』
僕は、手の中の小瓶を見た。
それは、もう、ただの水滴ではなかった。
それは、一つの、滅びた世界の、墓標そのものだった。
僕の喉は、もう、限界だった。意識が、遠のいていく。
ここで、これを飲めば、僕は、もう少しだけ、生きられる。
だが、僕が生きるために、一つの世界が、その全ての記憶と共に、僕の喉の奥で、永遠に、消滅する。
僕は、どうすればいい?
僕は、ゆっくりと、立ち上がった。
そして、おぼつかない足取りで、ビルの、割れた窓へと、歩み寄る。
東の空が、ほんの少しだけ、白み始めていた。
僕は、その窓枠に、そっと、小瓶を置いた。
そして、その場に、崩れるように、座り込んだ。
ああ、喉が、渇いたな。
朦朧とする意識の中、僕は、昇り始めた太陽の光が、小瓶の中の一滴に、差し込むのを見た。
一滴の水は、まるで、巨大なダイヤモンドのように、まばゆい光を放ち、その中に、無数の、虹色の、美しい世界を、映し出した。
それは、僕が今まで見た、どんな光景よりも、美しい、夜明けだった。
後味、悪いだろ? でも、こういう選択こそが、人間の尊さだって、俺は思うんだよな。