指切り
指切り
風呂場からシャワーの音がする中、才蔵は床に座って左手の小指を眺めていた。
(さて、どうしたものか)
思い返せば大体二時間前の出来事だ。
いつもの通り仕事を終えて帰宅中、電車から地元駅ホームに降りたとき酔っ払いが女子高生に絡んでいるのを見つけた。ほかの乗客がスルーしていく中、どうしても気になってしまい仲裁をしに入った。結果、才蔵は殴られたが酔っ払いは駅員に取り押さえられ、お持ち帰られた。
ホームにぽつんと残された才蔵と女子高生。
「大丈夫だったか?」
「うん。私は殴られなかったし。お兄さんは大丈夫なの?」
「あー、お兄さんか。ありがとう。一人で帰れるか?」
女子高生は首を横に振った。そしてちょっと悲しそうにして言った。
「帰るとこないから」
「え」
五秒ほど才蔵は天を仰いで悩んでから、女子高生の方を向いた。
「俺の家に来るか? 絶対何もしないから」
「絶対?」
「絶対。指切りするか」
才蔵が左手の小指を立てて突き出すと女子高生はくすくすと笑い、
「指きりなんて子供みたい」
と言いつつ同じように左手の小指を突き出し、絡めてきた。才蔵は指切りの歌を歌いながら左手を上下した。女子高生はくすくす笑ったままだ。少し恥ずかしくなったが後には引けず、歌いきって指を離した。
「そうだ。君の名前は?」
「清香」
「名字は?」
「必要ないでしょ?」
「それもそうか。俺は才蔵」
「忍者なの?」
「そういうわけでもない。普通の会社員だ」
「まあそうだよね」
途中コンビニに寄ってから才蔵の一人暮らし用のアパートへ帰り、前日に買っておいた食材で才蔵が料理を作った。清香は残さず食べ、料理上手いんだねと褒めた。
洗い物をするから先にシャワーを浴びていい、と言うとお約束のように覗かないでねと言い返してきた。
バスタオルと着替えは才蔵のパジャマと、コンビニで買った下着を用意し清香は風呂場へ向かった。
洗い物を済ませ、風呂場に背を向けるとさっき指切りした小指を見つめた。
(指切りか……子供のころ以来だな)
シャワーの音が止み、清香が出てきた。振り返り、才蔵は目を見開いた。
清香は生まれたままの姿でそこに立っていた。
「な!」
「お礼」
「必要ないし、指切りしただろ」
「でも」
才蔵は再び背を向け両手で目を覆った。
困ったように笑うと清香は才蔵の背中に抱きついた。
「優しいんだね」
「そんなことはない。四十超えてるからがっつかないだけ」
「よ……うそ!」
「本当。なんだったら免許証見るか? 財布鞄の中だぞ」
「それ私が財布持って逃げてもいいってやつじゃない? やらないけど」
「四十超えた独り身の財布の中身なんてたかが知れてるもんな」
清香はおでこを才蔵の背中にくっつけた。
「そうじゃないよ。優しいにもほどがあるっていうか、さ。手も出してこないし」
才蔵の肩に手を置き、胸をくっつけてきた。びくっと才蔵の体が震える。
「いつ手を出すの?」
「成人したらな」
「あと五年かー」
「本気か」
「ほ、ん、き。でも、今手を出してもいいんだよ。私、あんたに惚れちゃったから」
右耳に息を吹きかけると才蔵は焦った声で言った。
「大人をからかうのはそこまでにして、貸した服を着て寝なさい!」
「からかってなんかないんだけど。まあ、いいか。はーい」
清香が脱衣所に戻ると、ようやく才蔵は目隠しをやめた。
(まったく)
布団を直し終わると清香が貸した服を着て出てくるのを確認すると、自分の着替えとバスタオルを用意して風呂場へ向かう。落ち着かない気持ちでシャワーを浴びるのもそこそこに上がると、清香は既に眠っていた。冷蔵庫を開いて金曜の夜の為に用意していた発泡酒を開け、あおって一気に飲み干しぽつりと、
「もったいなかったかな」
と呟くと床にそのまま横になり、腹の上にタオルケットを一枚乗せて寝ることにした。
しかし清香の寝息が聞こえ、慣れていないもう一人いるということ嫌でも意識させられる。そのまま聞いていると急に寝息が乱れ始めた。声を掛けようと上半身を起こすと、うなされて寝言を言い始めた。
「お母さん……ごめんなさい……許して、お母さん」
「……」
才蔵が清香の左手を握ると、閉じている瞼から涙がこぼれた。それをぬぐうと呼吸は安定し、安らかな寝息が聞こえ始めた。
しばらくそのままでいると段々眠気が襲ってきて、眠ってしまった。
清香より先に起きれたのは奇跡だった。さっさと着替え朝食用の味噌汁を作り始める。七時を過ぎると清香が目を覚ました。
「本当に何もしなかったんだね」
「指切りしたからな」
じっと才蔵の横顔を見ていたかと思うと、清香は左手の小指を突き出した。
「指切りして」
「なんで」
「成人したら手出してくれるって」
「それか」
「ほら、はやく」
才蔵は困ったように笑うと左手の小指を清香の小指に絡めてきた。
今度は清香が指切りの歌を歌う。
「約束だからね」
「ああ、これで成人するまで何もしないって約束だろ?」
「そう取っちゃうんだ」
呆れたように清香が笑う。
「絶対手出してね」
「わかった」
くるりと後ろを向くと清香は昨日の制服に着替え始め、才蔵は玉子焼きとサラダを作り始めた。
「あのさぁ、一人暮らしの割に料理手抜きしないし、見た目も若いし本当に四十代なの?」
「料理は食べたいもの作ってるだけ。見た目のことはありがとう。年齢に関しては、免許証見るか?」
「ううん。いい。婚姻届に生年月日書くとこあるはずだから」
着替え終わり、昨夜と同じように才蔵の背中に抱きついてきた。
「こらこら、火を使ってるんだ。危ないぞ」
「ねえ、ここ住んでいい?」
「え?」
「私帰るとこないからさあ。親もいないし」
一瞬昨夜の寝言がよみがえる。あれはどういう……と考えていると米の炊けた電子音がした。
「決まりね。私今日荷物取ってくる」
「待て」
「待たない。決まりだから。よろしくね。あ、家賃はちゃんと半分払うから」
才蔵は大きくため息をつき、今はおとなしく従うことにした。
(この年頃はすぐに飽きるだろ)
「ごはん盛り付けるから、座って待ってなさい」
「はーい」
テーブルについた清香は盛り付けする才蔵を見ながら左手の小指を見つめて微笑んだ。
(私はすぐにでもよかったんだけどな。真面目だなぁ、まぁ、そんなところと優しいところに惚れちゃったんだけどね)
昨夜、手を握って眠ってしまったときに清香は目を覚まして、自分が見ていた悪夢と才蔵の優しさに気付いたのだった。
(指切り、か)
右手で左手の小指を優しく、きゅっと握った。
2020/07/04