アーメン、アーメン
小松の別荘につくと、太陽は目線の高さにまで落ちていた。
竹藪に囲まれた小さな庵室のようであった。それは別荘と呼ぶのにはどうかと思われるような家であったが、本人がそう言うのだから仕方がない。
古い門を通ると、荒れた庭が見える。薄暗い玄関のドアを開けると、畳の部屋が一室ある。清潔な部屋の様子をみると、定期的に誰か掃除をしているのは明らかであった。
私はつとめてコズエの方は見ずに、ずんずん部屋に入っていった。私は部屋の隅に座った。
しばらくして、小松の家の下男がやって来た。彼は我々の着替えやらなにやらを持ってきては、手際よく家の準備をして、我々のご飯を作った。
学生の頃から思っていたのだが、この男ただ者ではない。
これらのことを終えると、彼は玄関に立って「ではまた明日こさせてもらいます」と言った。
「いろいろとありがとうございました」コズエは頭を下げた。それを見て私も慌てて頭を下げた。
「いえ、お安いごようです」そうして、彼は暗闇に向かって歩いていった。
「さあ、ご飯をいただきましょう」と彼女は言った。
人を斬ったあとの飯はあまりすすまなかった。食べ終えると、外はすっかり暗くなっていた。
月がでていた。私は縁側に座りながら月を眺めた。
後ろの襖が開く音がした。
「お休みになられないのですか」とコズエが言った。
私は振り向きながら「ええ、コズエさんは、私に構わず休んでください」と言った。彼女は白の着物ような寝間着を着ていた。彼女は小さく会釈をして襖を閉じた。
ずいぶん時間が過ぎた。敵がやって来る気配もなかった。
また襖が開く音がした。そうして、コズエが私の横に座った。
「眠れないのですか?」と私は言った。
「ええ」と彼女は答えた。
我々は縁側に座り、荒れた庭の景色をしばらく眺めていた。
「今日は小刀を持っていないのですね」私は言った。
彼女は驚いたように目を大きく開けた。
「気がついていたのですね」
「こう見えても軍人ですから。どうして、今日は持ってこなかったのですか?」
「必要がなくなりましたから」
「そうですか」と私は言った。
彼女は荒れた庭をみていた。月の光が、彼女の顔を照らしていた。なんとなく寂しそうに見えた。
「あなたに謝らなければいけないことがあります」
「まだ、あるのですか」私は笑った。「なんです?」
「あなたが、辻斬りに襲われたでしょ。あれは私の差し金だったのです。私が桐野大佐に頼んだのです」
「じゃあ、どうして俺を助けたのですか?」
彼女は一瞬戸惑って、瞳が左右に泳いだ。だが、一呼吸おいてはっきりと言った。
「必死に生きようとする姿があの人と重なったからです」
風が庭を抜けていった。笹がカサカサと音をたてる。荒れた庭の先にある竹藪が揺れていた。
「その人のことを愛していたのですね」
「ええ、愛していました」
彼女は乱れた髪を耳にかけた。細い首と鎖骨が見えた。
私は靴を脱いで、縁側に座った。そして彼女に頭を下げた。
「申し訳なかった。どうか赦してください」
しばらく間があった。彼女がどういう表情をしているかわからなかった。
「顔をあげてください。あなたは、私の赦しなんか欲していないはずです」
彼女は庭を見ながら言った。肩が微かに震えていた。
「あの戦争以来、俺は生きている意味を失っていました。毎日、死ぬために生きていた。でも、いまは違います。あなたは可笑しいと笑うかもしれませんが、俺はあなたと会って変わった。だから、あなたに赦してほしいんだ。せめて一人でも、俺を赦して、生きていていいよと言ってくれる人が、俺には必要なのです」
彼女はうつむいたまま黙っていた。手には拳が作られていて、それが膝の上に置いてあった。
「難儀な人」
また、どこからか風が吹いてきた。私と彼女は見つめあったまま動かなかった。私はゆっくりと、彼女の口が開くのを祈っていた。
「あなたを許します」彼女は私に微笑んだ。完璧な静寂が彼女と私を包んでいた。
すると、私の目から涙がこぼれた。殴られても、罵られても、人に裏切られても、動かなかった感情。忘れたはずの感覚がこのとき沸き上がってきた。大粒の涙が堰をきったように流れた。わたしは恥ずかしさのあまりにうつむいた。
彼女は私の頬に手を添えた。冷たい手であった。そうして私の涙を美しい細い指で拭った。彼女は「綺麗な涙」と言って微笑み、私に口づけをした。
長い時間が過ぎていったように思えた。
我々は口を離し、互いに見つめあった。そこにはもう微笑みはなかった。
我々は真剣な面持ちで見つめあっていた。月の光で怪しく彼女の額が輝いている。彼女は静かに目をつぶった。そうして、私はまた彼女に口づけをした。それから、彼女を強く抱きしめた。
朝、目が覚めると、隣にはコズエがいた。彼女はまだ眠っていて、静かな寝息が聞こえてくる。まるで幼い子供のように、私の左手を両手で握っていた。
私は彼女の頭を優しく抱きしめた。彼女は甘えたように、私におでこをくっつけてきた。
「起きていますか」と私は問いかけた。
私の胸のなかで、彼女は首を横に小さく振った。私は彼女の頭を軽く撫でた。静かな朝であった。




