さよなら
私と初老の男は梅屋敷に向かって大通りを歩いていた。「小松様のことでなにか知りたいことがあるようですね」
「最後の場面だけです」
彼は煙草の箱をさしだした。「いかがですか」
私は頭をふった。
「そうですか」と彼は残念そうに言った。
我々はしばらくして梅屋敷に到着した。中庭の梅は満開で空を覆い尽くすほどであった。「では、私はこれで。奥の部屋で小松様がお待ちです」
小松は見違えるほどに痩せていた。ずいぶん前から肺を患っていたのだった。小松はその痩せた身体を柱にもたれさせて座っていた。庭の梅を見ていた彼は私が近づくと、こけた頬の顔で笑って見せた。
「ずいぶん久しぶりだな、サイトウ」と彼は言った。
「俺が君をつけまわしていたのは知っているのかい」
「もちろん、細かい点は間違っているが、大きな間違いはないよ。あのときは、一刻の猶予もなく手をうたなければならなかった。だから、矛盾がでてくるのも仕方がない。言われた通りのことをしただけなんだ。坂本は君に手紙を書くことに反対していたが、これは僕が押し通したんだ」
「誰がコトさんを殺したか、君は知っていたんだね」
彼はなにかぼかしていった。「たとえどうでもいい女でも、殺人犯として引き渡すのはなかなかできることじゃない」
「この事件には西郷大将も関わっているのだろう」
彼は微笑んだ。「関係していようがもうどうでもいい。僕がなにもできない身体なのは大将も知っている」
「坂本は無事なのか」
「無事さ。坂本は君が考えているほど悪い人間ではないよ」
「悪い人間なんていないさ」
「どうだ、久しぶりに飲まないか」
「いや、やめておくよ」
「僕に怒っているのだろう」と彼は言った。「君はこんな事に首を突っ込まなくてもよかったんだ」
「わかっているさ。あの女が夫を殺して誰にも怪しまれないですめば、幸福をつかんだのかもしれない。もちろん彼はたいした人間じゃなかったよ。どんなことがあっても、なんとしても忘れようとしている人間だった。一人の外交官だがね、名前を聞いたことがあるだろう」
「僕がしたことは、他に方法がなかったからだ」と彼はゆっくり言った。「誰も傷つけたくなかったし、迷惑をかけるわけにはいかなかった。色々と考えている余裕はなかった。どうすればよかったんだ」
「さあ、わからない」
「あの女は少し気が狂っていたのかもしれない。いずれ夫を殺したのかもしれない」
「そうかもしれない」
「難しく考えないでほしいな。さあ、一杯やろう」
「いまは駄目だよ、小松大佐」
「以前、僕たちは仲のいい友達だった」
「そうだったかな、忘れたよ。俺は違う人物に見えるよ。もう身体はよくならないのか」
「そうだな、日に日に身体は弱っていくよ。でもいいんだ。僕の役目は終えたし、今頃、キョウトで西郷大将と木戸さんと坂本が会談を開いているさ。さあ、酒をのみにいこう。今日はいい日なんだ」
「金がないからよしとくよ」
「金なんかなんだ」彼は内ポケットから財布を取り出した。「僕がおごろう」
「小松大佐の金は血がつきすぎている」
「君にヨドガワまで送ってもらったとき、あれ以上の事は言えなかった。新撰組を呼んで、僕を引き渡す時間は充分にあったはずだ」
「怒っているわけじゃないんだ。ただ君はそういう人間だ。長い間、俺は君と言う人物がわからなかった。ひとつの信念を持っていて、それを貫いていきているようだが、結局それは君が勝手に作り上げた信念だった。他人とはなんの関係のないものだ。いいところもあり、いい人間に違いはないが、手段を選ばない一面があり、平気で敵と手を組んだりもできる。君は誰でもよかったんだ。戦争のためにそうなったのかもしれないし、生まれつきそうなのきもしれない」
「わからないな」と彼は言った。「ほんとにわからない。借りを返そうとしているのに返させてくれない。君に言うべき事はなにもかも話している。君にはいい加減なことを言うわけにはいかないんだ」
「俺をそんな風に思ってくれるのは君がはじめてだよ」
「僕を好きになってくれたことはとても嬉しいんだ。あのとき、僕はたいへん困った立場にあった。そして、たまたまそんな立場を救う人間が現れた。その二人は戦争が起きる前の知り合いで、仕事柄色々と僕に借りがあった。僕がなにも考えず素早く行動したのは恐らくあのときだけだったろう。そして、僕が彼らを必要としたとき、彼らはこころよく力になってくれた。見返りを求めない人間は君だけじゃないよ、サイトウ」
彼は煙草を一本とって、庭の梅を眺めていた。私は彼の細くなった手首を眺めていた。
「君は僕を利用しただけだ、小松。ちょっとした言動と縛の立場を利用して僕を買ったんだ。君との付き合いはこれで終わりだが、さよならは言いたくない。さよならはもう言ってしまった。本当のさよならは切実で悲しいものだからね」
「戻ってくるのが遅かったようだ」と彼は言った。「もう少し身体が丈夫なら」
「俺がでてくるように仕向けなかったら姿を現さなかったんじゃないのか」
彼の頬に一筋の涙がしたたり落ちた。その涙を隠すように急いで庭を見ていた。
「わからない」と彼は言った。「なかなか決心がつかなかったし、君にはなにも言うなと言われていた」
「そんなことは気にする必要はなかったんだ、小松。いつも誰かが君の代わりにやってくれるのだからね」
「僕は軍隊に入るしか道はなかった。家柄だからね。そんな環境が僕をこんな人間にしたのかもしれない」
「わかっているよ。君はいろんな意味でいい人間だ。俺は君を批判しているわけじゃない。ただもういままでの君とは違う。俺が知っている君はもう遠くへ行ってしまったんだ」
彼は唇を曲げて寂しそうに笑った。それから大袈裟な身振りで肩をすくめた。
「もうなにも言うことはなくなったらしい」と彼は自分の胸を叩いた。
私は立ち上がった。彼は座ったまま細くなった手を差し出した。私はその手を握った。
「さよなら小松。友達になれて嬉しかったよ。いままでありがとう」
「さよなら」
私は向こうを向き、部屋を横切って出ていった。一度も振り返らなかった。私はくらい廊下を歩きながら、背後から足音がしないか耳をすましていた。しかしなにも聞こえてこなかった。私はそれでも耳をすましていた。なんのためだろうか。彼が私を追いかけて説得し、私の気持ちを変えることを望んでいたのだろうか。しかし、彼は追いかけてこなかった。私が彼の顔を見たのはこれが最後であった。
その後、クマソ国、シ国、イズモ国の同盟がなった。西郷大将は堂々とキョウトに宣戦布告をしたため、我々はまた戦争へかりだされる。戦争にさよならを言う方法はまだ発見されていない。
〈了〉




