意外な客
次の日の夜、部屋で転んでいるとシズが入ってきた。
「ずいぶん変なことになっているのですね」と彼女は座りながら言った。「久坂さんの屋敷から帰ってきたら、新聞に出ていたことが随分うるさくなっていたので、私の前の男なんかはカンカンに怒って、可哀想に私の顔をみるなりいまにも泣きそうな顔になっていましたよ」
「前の男というと?」
「察しが悪いひと。あの男がやっと別れを認めてくれたのよ。私にはもうこの国にいる理由はないので、まもなくカントウ国へたつことになっているのです。あなたもまだ普通の考えができるのなら、遠くへでかけた方がよろしいのでは?」
「どういう意味だい」
「バカな質問ね。もっと自分のことを大切に考えるべきです、サイトウ。猪を殺すとき、どんな風に殺すのか知ってる?」
「いや、知らない」
「かごの罠にかかった猪は、そのまま海のなかにざぶんよ。殺す側は見えないところで隠れているの。残酷なやり方ですね。私はあなたが好きなの。なぜだかわからないけど。あなたが罠にかかるところなんかみたくないの。あなたは自分が正しいと思うことに夢中になっていただけなのよ」
「俺は君の兄さんの仇だし、好かれる権利のない人間だ」と私は言った。「俺が罠にかかるのなら、それは俺の責任だよ」
「英雄ぶるのはバカのすることです」と彼女は鋭く言った。「あなたはそんな人達の真似なんかする必要はないのですよ」
「暇なら一杯おごるよ」
「カントウ国でおごってください。春のカントウ国は素敵ですよ」
「いいね、行ってみたいよ。夏はもっと素敵だときいているよ」
「一生行けそうにないわね」
「さよなら、シズ。欲しいものが見つかるといいね」
「さよなら」と彼女は冷ややかに言った。「私は欲しいものを必ず見つけるけど、見つけるとどうでもよくなってしまうの」
彼女は部屋から出ていった。しばらくなにも起きなかった。私が坂本の小間使いに会うと、外に出て久坂の屋敷に向かったのはしばらく後のことだった。
邸の前には人気がなかった。門がわずかに開いていた。私は中へゆっくり入っていった。空の月は雲に隠れていた。静かな夜で風はなかった。私は足を止めた。庭は暗くてなんの音もしなかった。だが、近くに誰かいるような気配がした。あるいは樹木のそばの繁みに隠れているのかもしれなかった。あるいは、空気を伝って人間の熱気が感じたのかもしれなかった。あるいは、私が恐怖で敏感になっていただけなのかもしれなかった。
私は庭の繁みにかがみこんだ。なんの音もしなかった。私は刀の柄を握りしめた。やはり、なにも起こらなかった。静かであった。突然、ばかばかしくなってきた。立ち上がって門の外へ出ようとしたとき、一台の黒い馬車が遠くから走ってきて道の途中で止まった。なんでもない馬車かもしれなかったが、そう思えない理由が二つあった。止まっても誰も出てこなかったし、窓側が門の様子を確認できるように止まっていた。私はふたたび繁みのなかでかがんで耳をすました。待っていてもなにも起こらなかった。突然、馬の蹄の音がゆっくりと聞こえてきた。それから馬車は門の前に止まった。それだけだった。依然として馬車のドアは開かず、邸のなかはひっそりと静まりかえって明かりもつかなかった。
すると、馬が大きく嘶いた。やっと、邸の明かりがついた。羽織を着た男が邸から出てきて、壁に沿った繁みを覗き込んだ。
「でてこいよ、人斬り」坂本が薄笑いを浮かべながら言った。「急ぎの用があるんだ」
私が一太刀浴びらせる距離だと考えていると、彼はすぐ後ろに下がったと思うと、どすんという音が聞こえた。坂本は空に向かってピストルをぶっ放した。
私は立ち上がって、邸の入り口へ歩いていった。邸にはいって立ち止まった。部屋の向こうの端に一人の男が腰を下ろしていた。桐野であった。彼は私を見つめていたが、目も手も少しも動かさなかった。銅像のように静かであった。




