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風薫る  作者: しょーた
第三部 キョウト
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遠い人間




 背後に気配を感じ振り向くと、長椅子のそばで平野がたっていた。手には抜き身の脇差が握られていた。彼の眼はギラついていた。「すみませんでした」彼は頭を下げた。「どうやら誤解していたようです。奥さんが先生を殺した。私は……」言葉が切れた。


「だめだ」私は立ち上がって、彼のまえに行った。「それを渡すんだ平野。君は部外者にすぎない。うっかりするとすべてをおしつけられる。奴らにはちょうどいい黒幕なんだ。君は俺の行っていることはわからないだろ。でも、俺にはわかる。この事件は初めから間違った方向へ進んでいるんだ。今さらなおそうとしてもできっこない。だいいち、奴らはそんなことを考えてすらいない。君は権利者を与えられることなくて事件の真犯人にされてしまう。三日間もたたないうちに、ニジョウガワラで座っていることになる」


「私には関係のないことです」


「バカなことを言うな。脇差しを渡すんだ、平野。君は自由なんだ。金もあるし、両親もいるだろう。少しは頭を働かせるんだ。君は国へ帰るべきだ。この家からはもう離れた方がいい」


「まだ、ここを去るわけにはいかない」と彼は落ち着いていった。手をさしだすと、私の手に脇差しを置いた。「あんたを信用しよう」


 私は脇差しを鞘にしまって、そのまま自分の腰にさした。彼は夫人の部屋を見つめていた。「どうすればいい」


「そっとしとけばいい。夫人は疲れている。邪魔しない方がいい」


「新撰組に知らせなければ」村田が言った。


「なぜ」


「決まっているじゃないか、知らせなければ」


「明日でいい。さあ、この紙束をもって、一緒に帰ろう」


「知らせなければならない、それが義務だろう」


「その必要はない。それにどこにも証拠はない。嫌な仕事は新撰組にやらせておこう。面倒事はクマソ国のやつに任せればいい。義務というのは我々のような一般市民が同じ方向を向けるために、お偉いさんが称賛した現象にすぎない。もちろん、それが大事なことは知っている。我々は社会で生きていくのなら誰であっても一人では生きていけないのだからね。しかし、今回の件は特殊だし、こういう件にまで義務をはさみこむ必要はないないよ」


 村田は口調を強くして言った。「そんな屁理屈が重要じゃないだろ。この邸で男が殺された。世間にもなの知られてある外交官だが、そんなことはどうでもいい。一人の男が殺されて、その犯人を私とあなたが知っている。あなたは真実を追い求めてきたのではないなか」


「明日でいい」


「このまま夫人を放置するなら、君も殺人に加担したことになるぞ。私はあんたが信用できなくなってきたよ。あんたが部屋がでなければヒサタケは助かっていた。あんたが夫人の計画を知っていながら放置していた可能性もある。私の見たところでは、今日の出来事も芝居のように見えなくもない」


「その通りだ。一種のラブストーリーとも言えよう。アサヒが俺のことを好きなのは見てわかったでしょう。全てが終われば、我々は一緒になるかもしれない。彼女にはかなりの財産が転がりこむ。俺もそろそろタダで働くのは飽きてきたところだったんだ」


 彼は瞼にたまった汗を拭うと、視線を落とし床を見た。


「すまない」と村田は言った。「今日の私は情けなかった。ヒサタケが自殺したときいただけでも衝撃だったが、ここで聞いたことはなんとも言えない気持ちになった」彼は顔をあげた。「あなたを信用させてください」


「俺にどうしろと言うんだ」


「正しいことを行ってください」彼はテーブルに置かれてある紙束を脇へ抱えた。「いや、そんなこと言わなくても、あなたはわかっているはずなんだ。私は軍部の中でも知られてきた男だが、この事は手におえない。口をださないほうがいいでしょう」


 彼は私のそばを通って出口へ向かった。いつのまにか平野は出口のそばにたっていた。村田は軽く会釈をして外へ出た。私は彼の後を追って行ったが、平野のそばで足を止めて、彼の大きな眼を見つめた。


「なにもするなよ」と私は言った。


「奥さんはとても疲れています」と彼は落ち着いていった。「部屋へさがった。もう終わったのです。私はなにも知らない。心配なさらず、大人しくしていますよ」 


 私は腰にさした脇差しをとって、彼に差し出した。彼は頭を下げてそれを受けとると、顔をあげて微笑んだ。

「誰も俺に本当のことを話さないが、俺は本当のことを話すよ。平野、君を信用している」


 村田はもう門の外へ出ていた。私も続いた。我々は立ち止まってもう一度邸を振り返った。それから共に歩きだした。


 「ここまでのあいだ考えていたんです」彼は道の真ん中で立ち止まった。「夫人は少し頭がおかしいのでしょう。罪にはなりませんね」


「そう。なんにもなりませんよ」と私は言った。「しかし、そんなこと彼女は知らないでしょう」


 彼は紙束を抱えながら、私に頭を下げた。私は彼が角を曲がって人混みに消えていくのを見ていた。見えなくなると私も歩きだした。

 

 私が旅籠屋に帰るともう夜になっていた。ひどく疲れていた。眼をつむると遥か遠くの音まで聞こえそうであった。月には靄がかかっていた。どこからか三味線の音が聞こえてきた。その音に耳をすませていると、違う世界につれていかれそうな気がした。


 私ははじめてアサヒにあったときのことを思い浮かべていた。しかし、一回目、二回目と順を追うごとに彼女の姿をうまく思い出せなかった。もはや遠くの人間に感じられるのだ。私と違う点が目立つほど、私の理解にほど遠い人間になっていく。好きな女を放っておいて、別荘で愛人を作る女もいる。出世のために裏で暗躍するものもいれば、その者の邪魔をしてとって変わろうとする人間もいる。家柄の関係で軍人になり、出世も目指さず口をいいながらも職務に励む人間もいる。また、他人を蹴落とさなくても、無知を装って彼らのように生きようとする小悪党も同罪である。ある意味彼らは健全な人間であろう。しかし、村田の言う義務など眼中にないものばかりだ。これならどちらが健全で不健全かわかりゃしない。


 私が布団に入ったとき夜が明けかけていた。


 襖の向こう側からシズの声が聞こえてきた。窓の外を見るとまだ朝になっていなかった。まどろみのなかで、頭のなかがぐるぐる回っている感覚が残っていた。私は寝ぼけたような声で「なんでしょう」と言った。


「さきほど、平野さんの使いのものが来て、アサヒさんが死んだので邸に至急来てくれと言うことです」


 私は起き上がってすぐに支度をした。


 死んだ。その言葉はいつも私を寂しくさせ暗い気持ちにさせる言葉であった。死はひとつの救いと言うものもいるが、私はそう思えるほど年を重ねいないのだ。


 わたしが邸に入ると、すぐに平野がやってきた。


「お前がやったのか」


「薬だと思います。部屋に睡眠薬を包んであった紙が散乱していますから。夕べは食事をしませんでしたし、朝も起きてこないので襖からこっそり覗いてみたのです。奥さんは死んでいました。もう、人とは思えない冷たさです」


「誰か呼んだか」


「坂本さんを呼びました。まだ来ていません」


「坂本だって」


「手紙は見せていません」


「なんの手紙だ」


「村田さんに宛てた手紙です」


「坂本には絶対に見せるな。新撰組にだけ見せるんだ。それから、もうひとつ。こうなったからにはなにも隠してはいけない。嘘は言うな。我々もいたんだから。本当のことを言うんだ、今度は嘘を言ってはいけない」


 彼はしばらく沈黙していたが、やがて言った。「わかりました。では、これで」彼は部屋のなかへ入っていった。


 私はクマソ国の藩邸へ行ってから、村田を呼んでくれと取次の者に言った。


「村田さんは昨日から休暇でいません。行き先はクマソ国です。帰るのはいつになるのわかりません」


「ありがとう。知らなかった」


 私は藩邸の門の近くで、丸い雲を眺めていた。時が来るのを待っていたのだ。


 しばらくすると藩邸から天草が出てきて、私を見つけた。


「兄さん、言わなくてもわかりますね」と彼は言った。「さあ、一緒に行きましょう」






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