正しいこと2
二人ともなにも言わなかった。どちらかがリアクションをとっても不思議ではなかった。沈黙が続いた。私もその沈黙に身を任せた。外から鳥の声が聞こえてきた。子供が笑いながら走っていく声がした。
私は首の後ろに冷たいものを感じた。振り向くと平野が脇差しをもって立っていた。浅黒い顔に感情はなく、眼つきにはきちがいじみたものを感じた。
「喉がかわいたろ」と彼は優しく言った。「なにか飲むか」
「ありがとう、ウィスキーのソーダ割りで」
「すぐ持ってくる」
彼は腰に脇差しをさして、足音をたてずに立ち去った。
私はアサヒ夫人を見た。椅子に座っていても、俯いていて視線はテーブルにあった。表情は見えなかった。口を開くとその声には抑揚がなく、まるで魂が抜けたようであった。
「一度だけあったことがあるのです、村田さん。一度だけです。私たちは変わってしまったのに、彼は私と気がついたのです。すぐに彼は部屋から出ていって、次の日にはもういませんでした。この邸であったのです。コトさんもいました。夜の遅い時間で、あなたもいましたね村田さん。それからヒサタケも」
「ええ、そうです。それからどんな女と付き合っていたのかも知っていました」と村田は言った。
「コトさんが話すには、なにも言わずに出ていったそうです。喧嘩をしたわけでもないのに。それからしばらくしてあの人がコトさんといることを聞きました。街の外れに家までこしえて、彼はあの女を囲いました。なぜそんなことをしたのかは神様だけが知っているでしょう。私がヒサタケと結婚したことも知っていました。私たちはもう終わった関係でした」
「なぜです」
平野はなにも言わず私の前に飲み物を置いた。村田は顔をふった。平野は出ていった。誰も彼に関心を持たなかった。彼ほどこの場にふさわしくない人間はいなかった。
「なぜといわれましても」と彼女は言った。「あなたにわかるでしょうか。私たちが持っていたもの全てが失われ、もう取り戻すことができなかったのです。彼は戦争のとき立派な人が後ろについていたから生き残ることができたのです。私も全然望みを持っていなかったわけではないのです。しかし、私が待っていたのは逃げ出す前の彼です。あのいやらしい女を妾にした彼なんて見るだけでも嫌でした。私はあの女とヒサタケの関係を知っていました。キモツキも知っていたに違いありません。シズさんも知っていたでしょう。シズさんも身持ちが固いとは言えないが、彼女にはしっかりとした目的がある。あの女とはずいぶん違う。あなたは、どうしてヒサタケと別れてキモツキのところへ行かなかったのかと言うでしょう。愛した二人の男をあの女に抱かれていると知って戻ることができるでしょうか。私にはできません。もっとなにか他の理由がいるのです。ヒサタケは許すことができました。なにか悩みを抱えていたようですし、許せる程度にしか愛していなかったのかもしれません。自分の身の丈よりも大きな仕事を押しつけられて、あたふたして男らしくない人でしたが、理解ができないわけではありません。私にとってはただの夫にすぎなかった。キモツキはそれ以上の人間か、あるいはその反対の人間だったのです。最後にはもうどうでもいい人間になってしまいました」
私はソーダ割りを一口飲んだ。村田はウィスキーを一気に飲み干して荒々しくテーブルにグラスを置いた。目の前におかれてある紙束にはすっかり興味がなくなっていた。
「どうでもいいとは思えないでしょう」と私は言った。
彼女は私をぼんやり見てから、ふたたび視線を落とした。
「くだらない人間です」と彼女は吐き捨てた。「あの女がどんな女か知っていながら妾にしたのです。妾にして変わらなかったから殺したのです。それから逃げて自殺したのです」
「彼が殺したわけじゃない」と私は言った。「あなたはわかっているはずだ」
彼女は椅子からゆっくり身体をおこし、ぼんやりと私をみつめた。
「きっとヒサタケが殺したんだ。これはあなたも知っている」と村田が言った。
「主人があなたにそういったのですか」
「聞かなくてもわかる。二つほどヒントを私に与えてくれた。私か誰かに話したに違いない。きっと話さないことに悩んでいたのです」村田は強く言った。
彼女は首を横にふった。「いいえ、サイトウさん。主人が苦しんでいたのはその事ではありません。ヒサタケはあの女を殺したことを知らなかったのです。完全に意識を失っていて、なにかあったと想いだそうとして想いだせなかったのです。記憶を完全に失っていたのです。記憶はよみがえったかもしれませんが、その時が来ることはなかった。もっとも、最後の瞬間には甦ったのかもしれません」
村田が小さな声を出した。「そんなことはあり得ませんよ、アサヒさん」
「いやおおいにありえる」と私は言った。「無意識を発見したある心理学者の話では、人間は知らないうちに自分に対して嘘をつくし、その場合には記憶を書き換えてしまうことや、忘れてしまうことだってあるようです」
「馬鹿馬鹿しい、ただの物忘れでしょう」と村田が言った。「それとも最後まで想いだせなかったのですか」
「最後まで覚えていないと言った、頑なに」
「ヒサタケがそんな状態になっていたとは信じられない」と村田は落ち着いて言った。「彼の頭がおかしいというのなら、私も同じですよ」
「酔えば我々とは違う」
「私もその場にいたのです。殺すのを見ていました」
私は村田のほうを見て、笑いが出てくるのを呑み込んだ。その場の空気を乱さないように私は必死にこらえた。
「夫人が話してくれる」と私は言った。「どうやら話す気になったのですね」
「ええ、そうです」と彼女は毅然とした態度で言った。「嫌いな人間に対してでも言いたくないことはあるものです。それが夫ならなおさらです。私がもし証言の場でこんなことを話したら、村田さんはなにか苦いものを食べたような顔になるのでしょう。あなたは私を見損なうかもしれません。主人も偉大な外交官というわけにはいきますまい。可哀想に、彼はなんとかして貼られたレッテル通りに生きようと必死にもがいていたのです。あの女は主人にとって慰めでした。あの女は主人のような気持ちを持っていませんもの。私は二人の様子をうかがっていました。恥ずべき行為なのでしょう。しかし、私は恥ずかしくありません。私はあの二人の全てを見届けました。なにもかも。あの女が男を連れ込んでいた住処は街外れの山のなかで、誰かを連れ込むのには絶好の場所でした。ヒサタケのような男の結末は決まっていますが、やがてあの女に嫌われました。いつも酒をのみすぎたからです。庭で裸の女が石を掴んで大声で追いかけていました。それはもう口に出せないような言葉を叫びながらです。それから、石で主人を殴ろうとしましたあなた方は男なのでわかると思いますが、あのような着飾った洗練された印象のある女が、突然卑猥な言葉を叫びながら自分を殴り付けてくるとなれば恋も冷めるのでしょう。主人は酔っぱらっていたし、ときどき暴力を振るうことがありましたから、あの女を突き飛ばして近くの石を掴みました。あとはおわかりでしょう」
「そうとう血が出たでしょう」と私が言った。
「血ですって?」彼女の口先が緩んだ。「家に帰ってきたときの主人を見せてあげたかったです。私が恐ろしくなって逃げたそうとしたとき、主人は気が抜けたように立ったままあの女を見下ろしていました。主人は一時間ほどして帰ってきました。私が待っていたのを見て驚いていました。しかし、もう酔ってはいませんでした。なにが起きたのかわからないような顔をしていました。服にはべっとり血がついていました。私は主人を風呂につれていき、身体を洗いました。それから主人を寝かせました。血のついた服は一つにまとめて、街外れのヒロサワ池に向かいました」
彼女は言葉を切った。村田は掌を見ていた。彼女はそれをちらと見て続けた。
「私が出かけているあいだ、主人は起き上がって酒を大量に飲みました。翌朝、主人はなにも覚えていませんでした。二日酔いでしたが、それだけのようでした。私はなにも言いませんでした」
「服がなくなっていることに気がついたでしょう」と私は言った。
彼女は頷いた。「ええ、おそらく。でもわざわざ言いませんでした。あの時、色々なことが起こりました。キモツキは行方不明になってしばらく瀬戸内の海で死にました。そんなことになるとは想像もしませんでした。ヒサタケは私の夫でした。主人がしたことは許されないことですが、あの女も因果応報だと思えないこともありません。突然新聞はなにも書かなくなりました。誰か偉い人が手を回したのでしょう。もちろん、ヒサタケには事件のことについて話しました。しかし、それは読者としての意見にすぎなかったのです」
「恐くはなかったのですか」村田は優しく言った。
「もちろん恐かったですよ、村田さん。もし記憶があるのなら主人は私を殺したでしょう。大抵の外交官はそうですが、主人は芝居が上手でしたから、本当は覚えていて機会を待っていた可能性もあります。また、全てを忘れていたのかもしれません。でももうヒサタケは死んでしまったのです」
「服のことを口に出さなかったのなら、なにか気になっていた証拠だ」と私は言った。「それにヒサタケが自殺しようとした夜、書斎に残ってあった手紙に立派な人間が彼のために死んだという一文があった」
「それはほんとうですか」予想通り彼女は眼を丸くした。
「書いていた。手紙は処分した。彼に頼まれたからです。夫人も見ているものと思っていたが」
「主人の書斎には入ったことは一度もありません」
「なるほど」と私は言った。「まだなにか話すことがありますか」
彼女はゆっくりと顔をふった。「もう話すことはありません。最後のほうでは記憶が甦っていたのかもしれません。しかし、もうわからないことで、どうにもなりません」
村田がうわずった声で言った。「サイトウをここにやってくるように言ったのはあなたですよ。あなたが私を説き伏せた。なぜです」
「ヒサタケが恐ろしかったのです。サイトウさんはキモツキと友達でした。キモツキが最後にあった人間です。彼がなにか話していたか確かめておきたかったのです。もし危険な人間なら味方につけておきたかった。真実を知っていても、ヒサタケを救う道があるかもしれないからです」
突然、村田の態度が変わった。身体をのりだし、慎重に話し出した。
「はっきりしてください。アサヒさん。彼は新撰組によくおもわれていない人間だ。尋問も何度もうけたことがある。キモツキと呼ばせてもらいますが、彼の逃亡を手引きした疑惑まである。キモツキが犯人なら罪は軽くない。だから、彼が事実を知っていたのなら本当に無実なら、なんらかの手段をとる可能性があったのですよ」
「恐ろしかったのです、村田さん。気の違っている人間と家でずっといるのは耐えられなかったのです」
「それはわかる」村田は強い口調で言った。「だが、サイトウは話しに乗らなかった。あなたは彼と二人きりだった。ヒサタケが自殺しようとした後の数日間も二人きりだった。それから彼は自殺した。その時は、具合のいいことにサイトウと彼の二人きりだった」
「そうです」と彼女は言った。「それがどうしたというのです。私になにかできまして」
「わかりました。でもあなたはこう考えたのではありませんか。サイトウはおそらく真相にたどり着くだろう。彼はヒサタケが腹を切ろうとしたことを知っている。彼に脇差しを渡してこういうかもしれない。いいかい、君は人を殺した。俺も奥さんも知っている。奥さんは立派な人だし、君も面向きには立派な人間だ。ときに、立派な人間には自ら責任をとらなければならない時が来る。俺も全ては言わない。わかっているだろう。男なら潔くしなさい。誰だって酒で酔っていたと思うに違いない。俺は部屋の外で雪でも眺めているよ。ほら、脇差しだ」
「とんだ妄想ですね、村田さん。私がそんなこと考えるはずかありません」
「あなたは天草に、サイトウがヒサタケを殺したと言った。どういう意味なのです」
彼女は横目で私を見た。「あれは私の間違いでした。動揺して、心にもないことを口走ったのです」
「サイトウが刺したと思ったのではないですか」と村田は穏やかに言った。
彼女は眉をしためた。「なぜです、村田さん。なぜ彼がヒサタケを殺すのですか。考えもつきません」
「なぜ考えもつかないのですか。新撰組も同じことを考えているのですよ。そして、平野が新撰組に証言をしている。ヒサタケが自殺しようとした夜、サイトウがあなたの部屋に二時間ほどいたと。ヒサタケが薬で眠った後のことですよ」
彼女は頬を真っ赤に染めた。無言で村田をみつめた。
「その時、あなたはなにも着ていなかった。平野が言ったのです」
「しかし、証言の時には……」彼女は声を振るわせながら続きを言おうとした。村田がすぐ遮った。
「新撰組は平野を信用していなかった。だから証言の時は言わなかった」
彼女は驚いたような顔をした。
「それに」村田は間髪いれずに言った。「新撰組はあなたを疑っています。いまもです。必要なのは動機ですが、どうやらもうできあがったようですね」
彼女は急に立ち上がった。「二人とも帰ってください」と強く言った。「いますぐに」
「答えてください」村田は座ったまま言った。
「なにをです」
「ヒサタケを刺したのですか」
彼女は村田を冷めた眼で見下ろしていた。顔は蒼白くなり口もとが神経質のように動いていた。
「私はただ証言の時と同じ質問をしているだけですよ」
「私は外出していました。私が帰ったときには主人は死んでいました。知っているのはそれだけです。いったいあなた方は私をどうしようというのですか」
「アサヒさん、あなたがヒサタケを刺したと言っているのではないのです。でも不可能ではないのです。それもわけなく実行できたはずです」
「私が殺したとでも言うのですか。夫をですか?」彼女は鼻で軽く笑った。
「夫だと思っていたらね」と村田は落ち着いていった。「結婚したときは違う人を待っていたのでしょう」
「感謝します村田さん。テーブルの上の報告書を持って帰ってください。そして、新撰組の屯所へ言ってその話をすればいい。私たちの友情はこれきりです。さよなら。村田さん。私は疲れました。部屋に行って休みます。サイトウさんは、彼がヒサタケを殺したと言ったのは間違いかもしれませんが、ヒサタケを死に駆り立てたのは間違いありません」
彼女は部屋の外へ出ようとした。私は鋭い声で言った。「アサヒ夫人。ちょっと待ってください。用件だけすませましょう。お互いに傷つけ会うのはもうやめましょう。俺たちは正しいことをしようとしている。あなたはヒロサワ池へ着物で行ったのですか」
彼女は振り向いて私を見た。「ええ。そうです」
「池の周りにある柵はどうやって飛び越えたんです」
「柵ですって」彼女は落ち着いていった。「はしたないことですが、着物の裾をあげて登りました。それだけです」
「柵はありません」と私は言った。
「柵はないのですか」彼女はなにもわかっていないように言った。
「それからヒサタケの服に血はついていないはずですよ。コトさんは庭で殺されたわけではなく、部屋で殺された。血はほとんど出ていなかった。岩で顔をぐちゃぐちゃにされたのは刺殺されてからのことで、犯人は死んだ女を殴ったのです。アサヒ夫人。遺体というのは血がほとんどでないのです」
「まるであの場所にいたみたいですね」彼女は笑った。
それから彼女は部屋を出ていった。
「柵の話はどういうことです」と村田がゆっくり言った。理解できないのもしょうがないことであった。
「適当に言った」と私は言った。「ヒロサワ池がどんなところか行ったことがないからわからない。柵はあるかもしれないしないかもしれない」
「そうですか」彼は浮かない顔で言った。「しかし、夫人が知らないことは確かですね」
「もちろん、二人とも彼女が殺したんだ」




