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風薫る  作者: しょーた
第三部 キョウト
50/61

正しいこと

 



 邸へ進むに従って、陽射しが照りはじめた。橋を渡って、豪邸が並んでいる通りを歩くと、季節外れの暑さになっていた。私は隣の村田を眺めた。マフラーをしていて、暑さなど苦にならない様子であった。他に気になることがあったのだろう。まっすぐ正面向いたまま、どこもよそ見をしなかった。山の上には雲が覆いかぶさって、ふたたび太陽を隠したが長く続かなかった。村田がとつぜん沈黙を破った。


「まったく変な天気だ。冬のキョウトはいつもこんな感じなのですか」と彼は言った。「いったいこの雲はなんですか。気が滅入ってしかたがない」


「ずっとこんな天気が続くわけじゃない」私は彼を慰めた。「春になれば美しい梅が咲く」


「ただでさえ隠気くさいことがつづいているのに」と彼は言った。「私はこの高級住宅街にヒサタケが住んだことを間違いだと思っています。外交官には相応しいかもしれないが、彼はダメなんです。ここでは彼の求めていた安らぎを得ることなんてできませんから。もちろん、それは誰が悪いとか言った話ではありませんが」


 埃っぽい道を歩いていると、急に舗装された道になった。しばらくすると邸につき、私は村田の後ろをついていった。村田はもったいぶった歩き方で門へ向かった。


 邸のなかへ入ると、すぐに古代服のような白い布を着た平野が出てきた。彼はなにも言わなかった。村田は建物のなかへ入っていった。私はついていかなかった。平野は私の顔をちらとみて、またどこかへ行ってしまった。しばらく待ったが誰も来なかった。私が建物のなかへ入ろうとすると、平野が出てきた。


「帰りな。入ったらただじゃおかない」


「夫人に用があるんだ」


「おまえに会うはずがない」


「君の意見などどうでもいい。用事があるんだ」


「平野」彼女の声が鋭く響いた。


 平野は私の顔を睨み付けると、またどこかへ行ってしまった。私は建物のなかへ入った。夫人は客間の長椅子のそばにたっていて、その隣に村田がいた。夫人は化粧をして美しかった。紺色の着物を着て、褐色のいい頬は、つい最近夫が死んだとは思えない健康的な印象を受けた。


「最近、なにかと平野が口を出すようになったのですよ」と彼女は村田に言った。「しばらくぶりですね、村田さん。忙しいのによく来てくれました。お一人だと思っていたのですが……」


「サイトウ君と飲んでいたのです」と村田は言った。


「あなたに会いたかったそうです」


「どうして私に?」と彼女は冷ややかに言った。彼女は私を見たが、あのときの夜のような物欲しそうな顔を一瞬たりともしなかった。「なんの用です」


「少しお時間をいただきますよ」と私は言った。


 彼女は長椅子に座った。私は椅子に腰かけた。村田は少し戸惑って、ハンカチで顔を拭った。それから夫人の隣に座った。


「一緒にお昼を食べようと思っていたのよ」と彼女は囁くように言った。


「またの機会にしましょう」


「残念です。楽しみにしていたのですよ。じゃあ、報告書をご覧になるだけですのね」


「ええ、よろしければ」


「もちろんです。平野……いないみたいです。書斎にあるのです、とってきましょう」


 村田が立ち上がった。「私が行きましょう」


 彼は夫人の返事を聞かずに、書斎のほうへ歩き始めた。彼女の背後を通りすぎて行くと立ち止まって、緊張した眼つきで私をみた。すぐ彼は部屋を出ていった。しばらくなにもせずに待った。しかし、彼女から鋭い視線が向けられた。


「用事とはなんです」


「まあいろいろと。またそのロザリオをつけているのですね」


「どきどきつけるのです。ずっと昔に親しい友人から頂いたものです」


「俺もそれに似ているのをつけている人を知っています。もっとも、ロザリオをつけている人はまだ少ないですがね」


 彼女はロザリオを撫でながら言った。「このロザリオはこの近くの燃えてしまった教会で貰えたそうなのです」


 村田が戻ってきて、ふたたび腰をおろし、分厚い紙の束をテーブルの上へ置いた。しばらくその紙束を見ていたが、やがて視線をアサヒに注ぎはじめた。


「もう少し近くで見せてくれませんか」私は彼女に頼んだ。


 彼女は首からロザリオをとり、私の掌のうえにのせると、腕を組んで不思議そうに私を見ていた。


「どうしてそんなに興味があるのですか。それをくれた友人はもう国へ帰りましたの。あの恐ろしい戦争から私たちは再会をしていないのです」彼女は優しく微笑んだ。「その人は私を愛していたのです」


「アサヒさんはあの戦争のあいだもずっとキョウトにいたのです」と村田が悲しそうに言った。「逃げだせなかっのです」


 私は彼の発言を無視した。


「そしてあなたも彼を愛していた」と私は言った。


 彼女は私から視線を外し、天井を見た。それから、彼女は視線を下げ、私たちの視線が絡み合った。「もう昔のことです」と彼女は言った。「それに、あの戦争で私もそれどころではなくなったのです」


「そうは言っても信じられない。あなたは俺に言ったことを忘れたのですか。きっと戻ってくると思っていた。たとえ死んだとしても。これはあなたの言葉ですよ。あなたがずっとあの男を愛しているといってもいい。俺がクマソ国の人間だから選んだのですか」


「違います」と彼女ははっきり言った。「それにもうキョウトにはいないのですよ」


 私はロザリオを村田に差しだした。彼は興味がなさそうに眺めていた。「これは見たことがある」と、彼は呟いた。


「こういうものをつけているのは少ない」と私は言った。「クマソ国で似たようなものをつけている人間を知っているがそう多くはない。それに、禁教令で公につけれるようになったのは最近だ」


「たしかにそうです」と彼は言った。「こんなことが重要なのですか」


「夫人は男から貰ったと言っているが、その男が教会からロザリオを貰えるとは思えない。禁教令の国の人間に渡すロザリオなどないでしょうよ」


 私は二人の注意をひくことに成功した。村田が私の顔をみた。私が考えもなしに話しているわけではないことを悟ったらしい。夫人も同じであった。夫人の眉は微かに痙攣していた。


「それにこれは大きさが小さすぎる。おそらくどこかの店で買ったのでしょう。夫人が誰かに貰ったわけではないのです。また、その男がクマソ国からキョウトに帰ってこないはずがない。あの時にキョウトに行ける人間は限られた人間だけだ。今よりもはるかにクマソ国とキョウトの仲は険悪なものだったからね。こういう言い方はお嫌いですか」


 村田はロザリオをテーブルの上に置いて、わずかに夫人の方へ押した。なにも言わなかった。


「私が知らなかったと思っていたのですか」と彼女は冷やかに言った。


「クマソ国の軍人が知らなかったと思っていたのですか」と私は言った。


「なにかの間違いでしょう」と村田が呟いた。


 私は村田を睨み付けた。「確かにそういう言い方も出きるかもしれない」


「もうひとつの言い方は、私が嘘をついたと言うことでしょう」とアサヒ夫人は冷たく言った。「私はクマソ国の人間は知りませんし、愛したことなどありません、彼が私を愛していたこともありません。彼が私にロザリオをくれたこともありません。彼がクマソ国から戻ってこなかったと言ってませんし、だいいちそんな人間などいませんでした。私はこのロザリオを教会へ行ったときにたまたまいたお爺ちゃんから貰ったのです。こんな説明では気に入りませんか」


「最後の部分は結構。最初の部分は結構とは言えませんね。あなたは確かにクマソ国の人間を知っているはずだし、その人間が行方不明になっているのです」


「そんな謎かけみたいな言い方で」と村田がもったいぶって言った。彼はテーブルの上の紙束から、書類を一枚とって読んでいた。私の見方につく気になったのか、ただ腹をたてているのか、はっきりとわからなかった。


「金になりそうな文章ですか」と私は彼に言った。


 彼はビックリしたようだが、すぐに複雑な笑みを浮かべた。


「アサヒさんは戦争の後も苦しい生活をしていた」と彼は言った。「記憶が曖昧なのも仕方ないことでしょう」

 

 それから村田はすっかり黙りこんでしまった。視線は夫人を見ていた。しかし、どこを見ている感じでもなかった。夫人は誘惑するように彼に微笑みながら言った。


「もう終わったことですのよ、村田さん。ヒサタケに会うずっと前のことでしたし、今さらどうこういわれるものでもありません。もちろんヒサタケも知っていました。それからは彼と会っていないのですよ」


「ヒサタケは確かに知っていたのですか」と彼は言った。


「確かに知っていましたよ」と私はいった。「キモツキという名前は彼にとって意味があったでしょう。だけど、どこまで知っていたかは謎のままだ」


「もちろん全てを知っていたのです」当然のことのように、勝ち誇った笑みを浮かべていた。


「ではなぜ、あなたはその男から貰ったと嘘をついたのですか」と村田は言った。


「昔のことで記憶が曖昧で混乱していたのかもしれません」と彼女は悲しそうに言った。「悪夢といったほうがいいでしょう。あの頃は家も焼け、両親と兄も死にました。私は途方にくれました。でも、誰も私を助けてくれるひとなどいなかった。そして、軍人を見ると複雑な気持ちになりました。彼らは私になにかを与え、全てを奪っていったのです」


 彼はなにも言わなかった。彼女はテーブルにおかれてあるロザリオをつけると、毅然と椅子に座り直した。


「あなたの過去を知る権利などないことは承知しています、アサヒさん」と村田は言った。「こんなことは忘れることです。サイトウさんがロザリオの話をもちこんできたのでついのみこまれてしまいました」


「サイトウさんは……」と彼女は静かにいった。「小さなことを重大なことのように話して、騒ぎたてて面白がっているのです。そんな人間にはなにもできないのです。例えば、自殺しようとしている人間がいても縁側で雪を眺めているくらいしかできないのです」


「そして、あなたはキモツキに会わなかったのですね」と私は言った。


「国外にいる人間に会えるはずがありません」


「彼が戻っていることをあなたは知らなかった」


 彼女は身体を震わせた。「あの戦争のあとに……」と彼女はゆっくりと言った。「焼け野原になったこのキョウトで、ひとりぼっちになっても、なんの連絡もないということがどういうことかわかりますか。私は捨てられたのです」彼女は私を睨み付けた。「あなたは恐ろしいひとです。当時の記憶を全て思い出させようとする。嘘までついて、私に過去を思い出せとようとする。あなたなんかに、愛した人に捨てられる気持ちがわかるはずなんてない。そんな事実を嘘で和らげようとしたのが、そんなに悪いことなのですか」


「飲み物がほしい。どうもやりきれない」と村田は言った。


 彼女がてを叩くとどこからか平野が現れた。


「なにを飲まれますか、村田さん」


「ウィスキーをロックで」


 平野はキッチンへ行って、ウィスキーをグラスに注ぎ村田のまえに置くとすぐに立ち去ろうとした。


「平野」とアサヒは静かに言った。「サイトウさんもなにかお飲みになりますよ」


 彼は足を止めて夫人をみつめた。無表情であった。

「いやいい」と私は言った。


 平野は舌打ちをして歩き去った。また沈黙が続いた。村田がウィスキーを一口飲むと、煙草に火をつけた。彼は私の顔を見ずに話しかけた。


「平野が家まで送ってくれるでしょう。馬車を呼んでもいい。もう充分でしょう」


「帰れと言っているのですか」と私は言った。


「私だけじゃない」


「わかりました」と私は立ち上がった。「こんな手をうったのが間違っていた。あなたも軍人の端くれなら、一流か二流かわかりませんが、俺が彼女に意地悪をするために来たのではないくらいわかるでしょう。俺にそんな趣味はない。俺がロザリオの話をしたのは、アサヒ夫人の過去を知りたかったわけでも、過去を暴こうとしたわけでもない。こんなことになると思っていなかった。俺が知りたかったのは、その名前の男が本当にいたかどうかですよ」


「しかし、同じ名前の人間ならキョウトにいくらでもいるでしょう」村田はウィスキーを一口飲んだ。


「そんなことはわかっている。でもその男が軍人で、戦争中にクマソ国に帰ってきたキモツキがどれだけいると思っているのです」


 村田の口がだらしなく開いた。彼はハンカチで額を拭った。

「坂本と西郷大将に面識のあるキモツキが何人いると思うのです。二人は今も睨みをきかしているし、物覚えもいい。しゃべるほうがいいと言えばしゃべり出すんだ。もう隠す必要もない。キモツキとコマツは同じ人間だ。俺なら証明できる」




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