正しい男
三日後の朝、村田が部屋を訪ねてきた。ちょうど昼から休みで、私と一杯飲まないかと誘った。
「君の行きつけにしよう」と私は言った。
「そうしましょう、いまアサヒさんと話をしましたがすっかり諦めました。ヒサタケが残した報告書を簡単にまとめているようです。彼の書いたものは色々ありますが、仕事の内容を考えると、些細なものでも重要になるでしょう。死者のものを勝手に読むのはうしろめたい気持ちがします。アサヒさんは今日ずっと家にいるそうです。私に会いたいと言っていたし、私も会いたいのです」
「話は店に行ってからにしましょう。村田さん」
彼の行きつけは洋館のなかにある西洋料理屋の一室であった。二階建ての白い建物には、バルコニーまでついていた。店の雰囲気は落ち着いていて、絨毯の趣味もよかった。客が飲み物を持っていきそうな場所にはすべて灰皿が置かれてあった。客のかおを見ればここがどういう店かすぐにわかった。そのなかで私の服装や顔つきはあまり行儀のいいものではないらしい。
村田は私の肩を掴んだ。「まあ、かけてくださいよ」と彼は言った。「なにを飲みます」
「なんでもいいよ。飲まなくたっていい」
「私はウィスキーにしよう。この季節になると度数の強いものがほしくなります。たぶん雪国にいけば四倍は飲めますよ」
「俺はハイボールをもらおう」
彼はカウンターにいき酒を注文した。それから椅子にかけて、うちポケットからハンカチを取りだし、額を拭きはじめた。拭き終わると、丁寧にハンカチをうちポケットにしまった。
「なにかたくらんでいますね。だから私の誘いを快く承諾してくださったのでしょう」
「ヒサタケの邸までお供しますよ。俺もアサヒさんに会いたいんだ」
村田の戸惑った表情が浮かんだ。「アサヒさんがあなたに会うでしょうか」と彼は言った。
「会いたくないことはわかっているのです。でもあなたと一緒なら家にいれてもらえるかもしれない」
「難しい立場になりますね」
「俺に会いたくないと言ったのですか」
「いえ、そう言ったわけではありません」彼は次の言葉を急いでのみこもうとした。「ヒサタケが死んだのはあなたのせいだと思っているようなのです」
「そうです。彼女はっきりと言いましたよ。かけつけた天草にね。恐らく尋問を受けたときに新撰組にもそう言ったのでしょう」
彼は椅子にもたれて、人差し指で右のこめかみを掻いた。なんの意味もない仕草であった。
「夫人に会ってどうするのです。彼女はいま弱っているのです。生涯のなかで一番恐ろしい出来事をわざわざ思い出させる必要もありますまい。あなたは御自身の潔白を夫人に証明しておきたいのですか」
「天草に俺が殺したと言ったのですよ」
「あなたが刺して殺したとは言ったわけじゃないのでしょう」
テーブルにボーイがやってきた。彼はもったいぶった手付きで我々の前に飲み物を置いた。村田がチップを渡して、ボーイは去った。村田はウィスキーのグラスを持ち上げると、私に飲み物を渡さないでそのままテーブルを離れた。私はグラスを手に取らなかった。
「こんな話をするために来たのですか。どんな理由があって私に会いに来たのです」
「あなたが私に会いに来たのですよ」
「それは」と彼は冷ややかに言った。「このあいだ会ったときに、あなたが夫人に同情していなかったからです。そこにはそれなりの理由があるのでしょう。どんなことです」
「アサヒ夫人の前で話したいですね」
「承諾できない。そう言うのは御自身でやってください。また、私としてもヒサタケの報告書の整理を手伝ってあげたい。あなたの言葉が本当なら、なおさらあなたを邸へいれるわけにはいかない。おわかりですね」
「わかりました。忘れてください。じつは会おうと思えばいつでも会えるのです。ただ第三者を証人に連れていきたかったのです」
「どうして証人がいるのです」彼はすかさず言った。
「彼女の前で聞かなければ信じてもらえないでしょう」
「それなら結構」
私は立ち上がった。「あなたがしていることは正しいですよ。なにかとアサヒ夫人を助けてやろうとしている。親切だと思われたがっている。見上げたものです。俺にはとてもできない。では、幸運を。さよなら」
彼は急に私を追いかけてきた。「まあ待ってください。あなたの考えいることはわからないが、あなたの態度は不可解だ。ヒサタケの死になにかしら怪しいところがあるのですか」
「いいえ、なにもありませんよ。脇差しで首を切ろうとしただけです。新聞を見ませんでした」
「読みました」彼は当惑した顔で私の前にたっていた。「何日かつづけて記事は出ていたし、藩邸で調査書の記録も見ました。彼は一人で部屋にいた。召使いもいなかった。アサヒ夫人は買い物に出かけていた。呻き声はまったく聞こえてこなかった」
「その通り」と私は言った。「それから俺が縁側に座って雪を眺めながらうとうとしていると廊下からアサヒ夫人が歩いてきた。ヒサタケはすでに死んでいた。彼女は書斎を覗いて、彼が眠っているのかと思い、客間へコーヒーを淹れにいった。俺は部屋の片付けをしようとして、ヒサタケが死んでいることに気がついた。当然の義務としてクマソ国の人間に連絡した」
「不思議な点はありませんね」村田は静かにいった。
「脇差はヒサタケのもので、彼が腹を切ろうとした事件があった。そのときあなたはアサヒ夫人が止めるのを見ていた」
「アサヒ夫人はよく書けていると笑っていたことでしょう。彼はなにを悩んでいたのです」
「夫人が言っているだけなのかもしれません。彼が勘違いをしていただけかもしれない。そんなことより、先を言ってください。まだ続きがあるのでしょう」
「事件を捜査したものは仕事仲間みたいなものです。非常に頭のきれる男です。それだけの文章を残しているのに、遺書がないのはなぜだろう。なぜわざわざ妻が発見者になるような死にかたを選んだのだろうか。なぜ呻き声ひとつでなかったのだろうか。夫人はどうしてその日に限って買い物へいったのだろう。断っておくが夫人は俺がいたことは知らないと言っていた」
「これは驚いた」と村田はとぼけたように言った。「その人はアサヒ夫人を疑っているのですか」
「動機さえ思いつけば疑うでしょう」
「そんな馬鹿な。それよりもあなたを疑うべきでしょう。あなたはずっと彼と二人でいた。彼女が反抗を行える時間はたった数分ですよ」
「俺になんの動機があるのです」
彼は持っていたウィスキーを一口で飲み干した。それからグラスを置いてハンカチで指を拭いて、それをうちポケットにしまった。
「まだ捜査は続いているのですか」
「わからない。だけどひとつだけ確かなことがある。酔いつぶれて意識を失うほど飲んでいたかどうかわかっているでしょう。もしそれほど飲んでいたら、面倒なことになるかもしれない」
「そしてあなたは証人をたてて夫人と話がしたいと」
「その通り」と私は頷いた。
彼は時計を眺めた。「いいでしょう。では彼女のところへ行きましょう」




