静けさ
部屋は薄暗くなっていた。空気は重く、異様な静けさが漂っていた。襖から長椅子まで、わずかな距離しかなかったが、そこからでも長椅子に寝そべっている男が死んでいることがわかった。
男は仰向けに寝ていて、片方の腕を長椅子からだらりと落として、もう一方の腕は身体のうえにおかれてあった。長椅子の上は血がたまっていて、その近くには脇差しが落ちていた。首の辺りは血まみれだった。
私は彼の顔を覗き込み、大きく見開かれた眼を眺めた。首の辺りには脇差しで切ったであろう痕が見えていた。まだ血が流れていた。
私は彼をそのままにした。首の辺りはまだ暖かったが、もう望みはなかった。なにか書き残したものはないものかと、私は辺りを見渡した。しかし、めぼしい物はなかった。自殺するものは、毎度自分の気持ちを書き残すというわけではないようだ。
自殺者というものは、いろいろなことを準備する。酒を飲んだり、ありったけのお金を使ったりするものがいる。首をつったり、わざわざ人気のあるところで自殺するものもいる。反対に浴室のような、誰にも悟られぬ場所で行うものもいる。この場合は、私が雪でうとうとしているなかで行われたのだろう。確かに、私が待っていた縁側から、書斎までの距離はかなりあった。ヒサタケがなぜそんなときを選んだのかは謎であった。偶然だったかもしれない。私にとっては腑に落ちない偶然ではあるが、そんなことを気にするものはいないだろう。
茶色い封筒が、テーブルの上に置かれたままであったがそのままにして置いた。彼が、屑箱にいれた手紙は、私はそのままにして置かなかった。私はそれを拾い上げ、懐にしまった。脇差しがどこにあったのか探ることは無駄であった。部屋のどこにでも隠すことは可能であった。長椅子の下や、デスクの下でもどこにでもあった。
私は部屋を出て、襖を閉めた。そして、耳を済ました。台所で物音がした。行ってみると、アサヒが湯を沸かしていた。彼女は私の方を見た。
「コーヒーでよろしいですか、サイトウさん」
「ええ、かまいません」
私は懐からたばこを取り出した。しかし、私はそれを弄んでから、また懐へしまった。彼女は私の姿を見ずに、湯を沸かすのに夢中であった。私はそれがなんだか気にくわなかった。
彼女はコーヒーをいれた。「お砂糖とクリームはいかがですか」と彼女は私を見ずに言った。「不思議ですね、コーヒを飲むときはブラックはダメなんです。はじめて飲んだときが、そういうのみかただったもので。戦争のときは苦労しました」
「それは男ですか」
「そうですね。その人にはとてもよくしてもらいました」
「ヒサタケに、どこで会ったのです」
「ここ、キョウトです」
「すぐに結婚したんですか」
彼女は行きなり私の方を振り向いた。「いいえ、そうではありません。どうしてですか」
「べつに、特に理由はないです」
彼女は台所の窓を眺めて、そこからは雪の景色を見渡すことができた。
「かなり降っていますね」と彼女は言った。「こんなに降るなんて珍しい」
彼女はそういいながら私に身体を向けた。
「まあ、もう雪の寒さを気にならない人間だってこの家にいるはずなのだが」
湯が沸いた。彼女はカップに湯を注いで、それを盆にのせた。私は盆を受け取って、それをもって居間へ向かった。彼女は私と向かい合って座った。私はコーヒーに口をつけた。
「先ほどおっしゃった意味はなんですか」と、彼女は突然きいた。「もう寒さを気にならないってーーどういう意味です」
「なんとなく言っただけです。そういえば中庭の脇差しは回収していただけましたか。ヒサタケが腹を切ろうとしたことがあったでしょう」
「回収ですか?」と、彼女は眉をしかめた。「いいえ、そんなことした覚えはありません。どうして、そんなことを聞くのですか」
「あなたは今日出かけていました」
「ええ、そうです」
「しかし、あなたはヒサタケを一人にした。こんな屋敷で、彼を一人にする方が難しい」
「なにがおっしゃりたいのですか」と彼女は鋭い口調で言った。「少し出かけるつもりだったのです。現にすぐに帰ってきました。確かに、平野が出ていくことは想定外でした」
「なるほど」
「今日は変なことをお聞きになるのですね」と、彼女は言った。「会ったときもそうでしたね」
「この屋敷ではいろいろなことが起こった。主人が自殺しそうになったり、庭で転げていたり、美しい女が俺に優しく囁いたり、使用人が客に暴言はいたり。脇差しを回収しなかったのは残念です。本当はヒサタケを愛してなどいないのでしょう」
彼女はゆっくり立ち上がった。落ち着いた態度で、私を見ていた。眼には怒りの色が見えた。やがて、震えた声で言った。
「なにか、変わったことでもあったのですか」
私がうなずくと、彼女は書斎の方へ走り出していた。叫び声が聞こえると思ったのに、なにも聞こえなかった。私は悪いことをしたと思った。部屋に入らせる前に、充分に説明して聞かせ、気を強く持ってくださいというような決まり文句を並べるべきであった。もっとも、気休めに違いないのだけど。
私は立ち上がって、書斎の方へ歩いていった。彼女は長椅子にうずくまって、服が地で汚れるのを構わずに、彼の頭を両手で抱きしめていた。静かであった。眼は閉じられ、彼女は彼の頭を抱えたまま動かなかった。
私はそのまま後ずさりをして、部屋を出た。そして、クマソ藩邸に天草を呼びに出掛けた。
私は天草をつれてまた、屋敷へやって来た。私が天草を書斎につれていくと、彼女はまだ同じ姿勢でいた。彼はすぐに彼女のそばに行った。
「お気の毒です、奥さん。気持ちはわかりますが、なにも手を触れないでください」
彼女は頭をあげて、床に座り込んだ。「主人です、首を切られて殺されたのです」
天草は軍服の帽子を脱いで、それをデスクに置いた。
「名前はヒサタケです」と彼女は高ぶっていった。「クマソ国の外交官です」
「知っています」と天草は言った。
彼女は血まみれの自分の服を見て、「これを着替えに行ってよろしいですか」と言った。
「ええ、どうぞ」天草は彼女にうなずいて、「殺されたと言いましたね、誰か心当たりでもあるのですか」
「この男が殺したんだと思います」彼女は私の方を見ずに言うと、部屋を出ていった。
天草はじっと私を見た。「大久保中将が来るまで、このまま待っている他ありません」
「どうして、大久保中将なんだ」
「外交官が一人殺されたのです、それも優秀な人間です。僕一人の手にはおえません。兄さんはヒサタケと友達だったのですか」
「アサヒさんはそうじゃないように言ったがね」
彼は苦笑した。「気にすることはないです。こんなときは、奥さんはなにを言うかわかりませんよ。部屋の外で待ちましょう」




